Ⅷ 幻影
彼女がいなくなってから数年が経ち、ぼくはあと数ヶ月で大学を卒業する。それと同時に、ぼくと彼女が育ったあの施設も、経営難で閉鎖することが決まっていた。
ただ、あの礼拝堂だけは人々の祈りの場として残されるらしい。と言ってもここ数年、あそこを訪れる人は減る一方なのだから、いっそ取り壊してしまえばいいのに。
――そう、ぼくの中のこの彼女の想い出とともに。
「やあ、神様」
ギイィ、と重い扉を開け、礼拝堂の中に入る。最近は卒論に追われて忙しかったから、ここに来るのは久しぶりだった。
十字架を見据えながら真っ直ぐに足を進め、最前列の左側の席に座る。そこに彼女がいるはずがないのに、ぼくは自然と右を振り向いていた。ああ、もういい加減忘れなくてはならないのに。
(さようなら)
そう言って、彼女はこの礼拝堂を去っていった。基本的にウソをつかない彼女の言葉は真実だ。したがって、もし彼女がどこかで生きていたとしても、もうここには戻ってこないだろう。だから、ぼくは彼女を待つためではなく、相も変わらず神を否定するためだけにここに通い続けているのだ。今日も世界は絶望に満ちていて、ぼくは孤独だった。やっぱり、希望なんてどこにもない。
それでも、ぼくはずっと彼女がすきだった。忘れたくても、忘れられるわけがない。聖人みたいに気高くて、聖母のようにやさしくて、誰よりもキレイで。どこまでも穢れを知らず、真っ白だった彼女。ぼくはそんな彼女がすきだけど、嫌いでもあった。真っ白な彼女は、真っ黒に汚れたぼくにはまぶしすぎる。
だけど、その感情も全部ひっくるめて、彼女を愛していた。彼女は、ぼくの唯一の希望だったのだ。
「くだらない……」
でも、ぼくは彼女を救えなかった。彼女が言っていたように、たとえ世界が希望にあふれていても、「彼女の希望」がなければ何の意味もないのに。
(あなたとはこれでお別れです)
彼女は死んだ。少なくとも、ぼくの中では。
けれど、もしもどこかで生きているのなら、せめて幸せに暮らしていてほしい。母親のことも、ぼくのことも、すべて忘れて。
「――愛と祝福が、いつも彼女とともに」
ぼくは無意識のうちに祈りの言葉を口にしていた。不信仰なぼくが祈るのは、彼女に頼まれたときが最初で最後だと思っていたのに。
(主よ、どうか彼女にほんのわずかな祝福を)
いや、そういえば彼女がこの礼拝堂を去っていったときも祈ったっけ。ぼくは神様を信仰してはいないが、その「存在のみ」を信じている神様は、この世で一番残酷だというのに。
だけど、それでもぼくは、彼女にだけは幸せになってほしいのだ。ぼくが救えないのなら、どうか神様が救ってくれ。彼女は、何よりも神様を愛しているのだから。
もう一度十字架を見つめ、静かに目を閉じてわずかに頭を下げる。
主よ、どうかこの罪人の祈りを聞き入れたまえ。
「愛と祝福が、いつも――」
「いつも、あなたとともにありますように」
ギイィ、という重く鈍い音に続いて、礼拝堂の中に清らかな声が響き渡る。
――ウソだ。この声、は。
「アーメン」
まだ幻聴の可能性もある、なんてバカなことを考えながら、半信半疑でゆっくりと振り返れば、そこにはぼくが恋い焦がれた『彼女』がいた。彼女は礼拝堂の入り口に凜と立ち、いつものように胸の前で両手を握り合わせて祈っている。
やがて、その目をゆるりと開けると、彼女は呆然としているぼくをしっかり見据え、にこ、と微笑んだ。それは、忘れられない記憶の中の笑顔と何一つ変わらない、やさしくて、穏やかなもので。そして、何よりキレイだった。
「――ただいま、です」




