Ⅵ 嘆き
この世界は不公平で不条理だ。ある者は富み、ある者は飢え、ある者は喜び、ある者は哀しむ。
しかし、その中でたった一つだけ平等なものがある。それは「死」だ。死は誰にでも等しく訪れる。生の長さが違うという反論があるかもしれないが、それでも死なない人間はいない。
死は誰にでも平等に、そして突然訪れるのだった。
* * *
「――っ!」
ばん! と乱暴に扉を開ければ、彼女がはっとしたように振り向き、人さし指を口に当てて「静かに」というようなジェスチャーをした。
ぼくは乱れた呼吸を整えたのち、彼女の指示に従って、今度は静かに扉を閉めた。――とある病院の、個室の扉を。
「……容態は?」
「一命は取り留めました。でも、」
ピッ、ピッ、と無機質で規則正しい音が、やけに大きく聞こえる。そして、
「いつ、目覚めるかはわからない、そうです」
かすかに震える声を紡いで、彼女はうなだれてしまった。
高校二年生のある日、彼女の血のつながった母親であり、ぼくの育ての親でもある彼女が交通事故に遭った。何でも買い物から帰る途中で、道路に飛び出した子供をかばったらしい。娘の彼女と同じく、いや、きっとそれ以上に敬虔なクリスチャンである彼女らしい行動だ。そのおかげで子供は助かったが、自分がこんな状態になるなんて――。
ぼくは、眠る母親の手をぎゅっと握りしめている彼女のトナリにイスを持ってきて、静かに腰を下ろした。
「恨んでいるかい?」
「誰を、です?」
「もちろんその子供のことをさ」
その問いかけにぴくり、と反応した彼女の手。
「――いいえ」
彼女は静かに、しかしはっきりとそう答えた。
「どうして?」
「その子を恨んだところで母が目覚めるわけではありませんし、もし同じような場面に遭遇したら、きっとわたしも母と同じ行動をとるだろうと思うからです。むしろ、その子が助かったことを感謝しなくてはなりません」
「じゃあ、君はその子供をゆるすのかい?」
「もちろんですよ。ゆるすことは愛の始まりです。わたしは、神様が愛している人々を恨みたくはありません」
こちらを向いてにこ、と微笑む彼女はどこまでもキレイで。しかし、その目が赤く潤んで少し腫れていたのが痛々しくてたまらなかった。泣きたいのなら、思いきり泣けばいいのに。
彼女は、神の前では無力だとすべてをさらけ出すくせに、ぼくには弱味を一切見せない。つまり、ぼくでは彼女の支えにはなれないということだ。だから、ぼくは神を否定し続けるしかない。――人間が神様に勝てるはずがないのに。
「じゃあ、ぼくは先に帰るよ」
すっと立ち上がり、彼女の母親の顔を見やってからきびすを返す。彼女はぼくにとっても大切な人だ。どうか早く目覚めてほしい。
そう願いながら病室の扉に手をかけた、そのとき。
「今日、わたしはここに泊まります」
「そう。気をつけてね」
「はい。だから、今日はあなたが神様に祈りを捧げてくれませんか?」
それは、あの古びた礼拝堂で、という意味だろう。祈りに場所は関係ないし、きっと彼女自身もここで祈るに違いない。
だが、夜眠る前にあそこで祈るのは彼女の日課だった。ぼくはただそのそばにいて、神を否定するだけ。そんなぼくに、よりにもよって祈りを頼むだなんて。
「――いいよ」
「本当ですか?」
「ただし、今日だけだ。明日からはいつもどおり、君が祈ればいい」
「はい」
「でも、別に君のお母さんに目覚めてほしくないと思っているわけじゃないから」
「ええ、わかっていますよ。あなたが不信仰であるということも、母を大切に想ってくれているということも。ありがとう、ございます……っ」
最後は完全に嗚咽まじりの声だったが、ぼくはちらりと彼女を一瞥するだけにして、静かに病室を出ていった。
* * *
そして、夜。礼拝堂の重い扉を開け、十字架に向かって真っ直ぐ進む。やがて、神の目の前で足を止め、恭しく――しかし、わざとらしく――膝をついて、胸の前で両手を握った。自分の意志で神に祈るなんて、これが最初で最後だろう。
「――神様。どうか、彼女たちに祝福をお与えください」
その代わり、ぼくは不幸でいいから。――いや、もともと不幸と絶望の中にいたんだ。今さら、か。
たったそれだけの短い祈りを終え、ぼくは神に背中を向けて礼拝堂をあとにしたのだった。
* * *
それからというもの、彼女の神への祈りと忠誠は以前にもまして熱心なものになっていった。彼女は今日も神に祈り、いつか母親が目覚めたときには一生をかけて神に感謝するのだろう。彼女はまた一歩神に近づき、ぼくから遠のいていくのだ。
しかし、その願いも叶わず、彼女の母親は一度も目を覚まさないまま二年後に息を引き取った。
そして、ぼくの前から姿を消した彼女も、今ごろはきっと。




