Ⅴ 欲望
暗い闇の中、ギイィ、ときしんだ音を立てて礼拝堂の扉を開いても、そこには誰もいなかった。それもそのはず、今は深夜零時を回ったところだ。敬虔な彼女はもう眠っていることだろう。
真正面に構える十字架を見据えながら、コツコツと足音を立てて中央の身廊を歩いていき、最前列の左側の席に腰を下ろす。いつものことながら、別に祈りにきたわけではないし、ましてや懺悔をしにきたわけでもない。
ぼくがここに来る理由はただ一つ、神を否定するためだ。ただし、存在そのものを否定するのではなく、世界の絶望をぶつけ、神が「愛」や「希望」であることを否定するために。
昔はその「存在」すら認めていなかった。神様は絶対的な善で全能であるはずなのに、ぼくはこんなに不幸な目に遭っている。この世で起きている哀しいことも、神様は止めてくれない。だから、神様なんかいない。そう、思っていた。
だけど、
(だって、あなたと出逢わせてくれましたから)
彼女は穏やかな笑顔を向けて、そう言った。
(絶望すら神様から与えられた希望なのです)
彼女は、純粋な瞳で力強くそう言った。
汚れてしまったぼくには理解できないことばかりだけれど、一つだけわかったのは、神様は存在するということだ。そして、その神様は何よりも残酷だということ。神は残酷だからこんな絶望的な状況を作り出し、ぼくみたいな人間を嘲笑っているに違いない。結局、この世界は神の箱庭なのだから。
ふと顔を上げてぐるりと視線をめぐらせると、マリア像が目に入った。そこでとっさに浮かんだのは、彼女の微笑み。
(わたしは、いつもあなたのためにも祈っていますよ)
彼女は相変わらずキレイだった。清廉潔白、純潔。何の穢れもなく、白いままだった。
でも、彼女は絶望や穢れを知らないわけではない。盲目に陥ることなく、きちんと周りを見ていた。
(人間は無力です)
自分の弱さを認め、決して傲慢にならない。世界の絶望を見つめ、それでもなお希望はあると主張する。汚れた人間のために泣き、その改心を願う。今日もどこかで消えた命と、生まれたいのちを尊ぶ。そして、世界がいつか希望であふれるようにと神の祝福を祈る。彼女はあまりもキレイで、誠実だった。脆くて、強い人だった。
ぼくはそんな彼女がすきだったけれど、その反面、心が痛くて仕方なかった。だって、ぼくはこんなに黒く汚れていて、絶望にまみれているのだから。神を愛し、神の正義を追い続ける彼女と、神を憎み、すべてを否定し続ける自分。ぼくは、彼女のトナリにいてもいいのだろうか?
だけど、ぼくの中にはさらにどす黒い感情があった。
(彼女を、穢してやりたい)
彼女は聖女のような人物だったけれど、生身の人間だ。ぼくの真っ黒な欲望で、真っ白な彼女を絶望の淵に叩き落とし、もう二度と神様なんか信じられなくなるようにしてやりたい。
――でも、それはできない。
彼女を穢してしまったら、彼女は壊れてしまうだろうから。そして何より、ぼくはやはり白い彼女がすきなのだ。惚れた弱みとはこのことだろうか。自分が残念でならない。
しかし、一番残念なのは、この想いは決して叶わないということだ。何故なら、彼女のすべてはぼくの大嫌いな神に向けられているのだから。
彼女はシスターではないので神に純潔を捧げてはいないが、神を愛している。そして、その教えにそってすべての人間をも愛しているのだ。それはとても素晴らしいことだが、逆に言えば彼女にとって「特別な人間」はいないということだ。しいて挙げるなら、きっとそれは彼女の母親だけだろう。だから、ぼくは決して彼女を手に入れることはできない。
ああ、何て不毛なのだろう。この世のすべての人間と、神様がライバルだなんて――そんなの、勝てるわけがないのに。神様は本当に残酷だ。
ぼくは十字架を見て苦笑を浮かべ、礼拝堂から出ていった。




