Ⅳ 祈り
彼女は神を見つめ、静かに涙をこぼしていた。
「神様、どうか彼らに祝福をお与えください」
礼拝堂の一番前の席に腰を下ろし、彼女は今日も祈る。どこかで亡くなった命のために。そして、どこかで生まれたいのちのために。それは、彼女の知らない「誰か」のために。
彼女の祈りの邪魔をしないよう、なるべく足音を立てずに歩みを進めて彼女の横に立つ。今日も残酷な神を見据えながら、ぼくはタイミングを見計らって口を開いた。
「今日は何のために祈っているんだい?」
やがて、祈りが終わったのか、彼女はゆっくりと目を開け、胸の前で組んでいた手をそのままひざの上に置いた。
「今日も、同じです。事件、事故、戦争、政治上の問題……ニュースでやっていること以外にも、たくさんの哀しみがあります。それがどんなに小さなことでも、です」
「ああ、今日も世界は絶望にあふれている」
でも、絶望すらも希望なのだと彼女は言っていた。そんなの、ぼくは信じないけれど。
「でも、どうして君がそれらについて嘆く必要があるんだい? どうして、知らない人のために泣ける?」
ぼくには、理解できない。
すると、彼女は潤んだ瞳をこちらに向け、にこ、と微笑んだ。すべてを包みこむように、穏やかに。
「哀しいことがあったら、哀しいと思うのが普通ではありませんか?」
「自分には関係ないのに?」
「ええ。確かにわたしがその出来事を体験したわけではありませんから、当事者の痛みや苦しみを完全に理解することはできないでしょう。いえ、もし同じ体験をしたとしても、感じることは人それぞれですから、やっぱり誰かの気持ちを正確に理解することはできません」
彼女の言っていることは正論だ。ぼくだって幼いころから彼女と一緒にいるけれど、むしろ理解できないことのほうが多い。まあ、それはただ単に思想の違いなのかもしれないけれど。
「でも、共感することはできると思うのです。痛みや哀しみを誰かと分かち合う。共感することは大切なのですよ」
「ローマ人への手紙、十二章十五節かな」
「はい。『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい』です」
信仰に対して不真面目なぼくが聖書の一節を覚えていたのが意外だったのか、彼女は一瞬瞠目したが、すぐに嬉しそうに笑みをこぼした。
その反応を見て、喜ぶべきなのか哀しむべきなのか複雑な気持ちになったぼくをよそに、彼女は話を続ける。
「わたしは神様ではありませんから、今起こっているすべての哀しい出来事を解決することなどできません」
「ああ、もしそんなことができると思っているのなら、それはただの傲慢でしかない」
「ええ、人間はとても無力です」
相変わらずキレイごとしか言わない彼女だが、その点はきちんとわきまえている。だけど、だからこそ、完璧すぎて嫌になるのだ。
神の前に座り、凛とした雰囲気を醸し出す彼女を一瞥したぼくの中に、どす黒い感情がうごめく。
「だから、わたしは祈るのです。もうこれ以上哀しい出来事が起こらないように。そのような思いをした人々が救われるように。そして、この世界に神の祝福がありますように、と」
言いながら、彼女はまた両手を胸の前で組み、目をつぶって神に祈り始めた。しかし、ぼくは何もしない。神をにらむように十字架を見つめて立っているだけだ。
しばらくすると、彼女はゆるりと目を開け、また言葉を紡ぎ出した。
「そうして、今は絶望の淵にいる人にも、いつかは希望が見つかればいいなと思います」
こちらに顔を向け、やさしく微笑む彼女。それは、ぼくにも当てはまるとでも言いたいのだろうか。
だけど、
「じゃあ、ぼくの気持ちもわかる?」
「え?」
この汚い欲望にまみれた真っ黒な気持ちも、君は共感してくれるのかい?
それは口にしなかったけれど、次の言葉を待っているらしい彼女に、ぼくは眉を下げて笑ってみせた。
「冗談だよ」
「……あの、あなたの気持ちは言ってくれなければわかりませんけれど、」
視線を下げていた彼女が顔を上げ、ぱちりと目が合う。
「わたしは、いつもあなたのためにも祈っていますよ」
祈りなんて、何の役にも立たない。彼女がどんなに祈っても、ぼくは幸せにはなれないのだから。
そう、彼女の愛する神という残酷な存在が、彼女の中にいる限り、ね。




