Ⅲ 絶望
「この世には、絶望しかない」
そんな悲観的な言葉を、皮肉っぽく神の前で口にするのは、この施設ではぼくしかいなかった。いつもの礼拝堂、夜。夕食を終えたあと、ぼくは毎日ここに足を運ぶ。それはもちろん祈るためではなく、神を罵倒し、嘲笑うためだ。
しかし、このころのぼくは、信仰心は相変わらずないけれど、神の「存在」というものは信じ始めていた。
「この世界は希望であふれていますよ」
突如、清らかな声が響いた。その声の主が誰かは、振り返らずともわかる。まるでぼくと対になるように、そんなキレイごとを飽きずに言うのは、彼女しかいない。
ゆっくりと顔をめぐらせば、礼拝堂の入り口に彼女が立っていた。その顔に、聖女のような微笑みをたたえながら。そのままこちらに向かってきた彼女はぼくのトナリに腰を下ろし、口を開く。
「どうして、この世には絶望しかないと思うのですか?」
正面の十字架に視線を向けたまま、静かに尋ねてくる彼女。やさしい彼女は、この罪深い咎人に手を差しのべているのだ。
しかし、ぼくはその手を決してとらない。
「事故、殺人、戦争、政治、その他ニュースにならない大小様々な出来事。それらはすべて絶望にしかつながらないからさ」
そう、この世は残酷なことばかりだ。この絶望の中で、どうやって希望を見出せるというのだろうか。
ぼく自身も、親に捨てられたという過去を持っている。今はもうそれについて考えることはないけれど、昔はそれが大きな絶望だった。だから、希望なんてどこにもない。
「確かに、今の世の中は哀しいことばかりで、負の連鎖のようなものが起こっていると思います。でも、」
最後の一言を力強く言い放ち、彼女はこちらに顔を向ける。
「きっと、これは神様から与えられた試練なのですよ」
にこ、と微笑む彼女は相変わらず清廉潔白で。プラス思考もここまでいくと盲信だ。
「これが神様からの試練だとしたら、残酷すぎないかい? 一体何人の人間が絶望に負けていったことだろうね」
「でも、その人たちはきっと今ごろ神様のもとにいますよ」
「じゃあ、自殺が希望ってことになるんじゃないのかな?」
「それは違います。神様から与えられた命を粗末にしてはいけません」
ああ言えばこう言う、といつか彼女は言っていたが、それは彼女にもあてはまるのではないだろうか。
「じゃあ、絶望した人間はどうすればいいんだい?」
「神様は、人間にその試練を乗り越えてほしいと思っているのですよ。人間には、絶望を希望に変える力がある。だから、絶望すら神様から与えられた希望なのです」
「そんなの、有り得ない」
「どうしてですか? 絶望のないところに希望はありません。絶望の淵にいるからこそ、希望を求めることができるのです」
穏やかに言葉を紡いだ彼女は、まったく絶望を知らないようなカオで微笑んでいた。
もし彼女の言ったことがが本当なら、絶望であふれるこの世界は、希望でいっぱいということになる。そんなまぶしい世界、ぼくには耐えられない。
「――もし、希望が存在するのなら」
「ええ、存在しますよ」
「ぼくの希望は、一つだけでいい」
「え?」
ぼくが彼女の目を真っ直ぐ見てそう告げると、彼女は少し驚いたようなカオをして「それは何ですか?」と聞いてきた。でも、ぼくは「内緒」と答えて教えなかった。
それを聞いて不満そうに口をとがらせ、しかしすぐにふにゃりとほおをゆるめた彼女は、とても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
* * *
思えば、あのころのぼくは母親に捨てられたことをまだ忘れられず、それを含めた嫌なことをすべて神様のせいにしたかったのかもしれない。まあ、すべての絶望を神様のせいにする、ということは今でも変わっていないけれど。
神は存在する。何故なら、残酷だからだ。
絶望は絶望でしか有り得ないということを、神は教えてくれた。だって、ぼくの絶望を全部ひっくるめて唯一の希望になりえた彼女は、今はもう、いないのだから。
「この世に、希望なんて存在しない」
目の前の十字架にそう吐き捨てて、ぼくはもう彼女の来なくなった礼拝堂をあとにした。




