Ⅱ 正義
「正義って、何でしょうか」
ぽつり、神の前で彼女はつぶやく。ここは、やはりいつもの礼拝堂だった。
「正義なんてないよ」
「またあなたはそんなことを言う」
子供のように口を尖らせて、しかしすぐに「まったくもう」と困ったように笑う彼女は、まるで母親のようだ。
「それで、どうして急にそんなことを言い出したんだい?」
そう尋ねると、彼女の顔から笑みが消え、伏し目がちになった。そして、一呼吸置いてから、その口を開かれる。
「……この前のニュースを見たでしょう? 一国の長がある人への殺害命令を公的に出したのです。その人は、本当に死にました」
何日か前にテレビで見たニュースを思い出す。新聞でも大きく扱われ、この国とは直接関係ないのというのに、連日大騒ぎだった。
「別にそれを批判するわけではありません。相手は犯罪者で、これまでに多くの人が亡くなったことは事実です。でも、だからといって殺してしまっていいのでしょうか」
きゅ、と胸の前で両手を握りしめ、彼女は悲痛な思いを告げた。それは、神に向けられたものだろうか。
「もし、その人が死んだことで報復を考えている人がいるのなら、また多くの犠牲者が出るかもしれません」
殺害が終わったあと、命令を下した人物は言っていた。「正義は遂行された」と。ここにはいない人物に向かって、彼女は問いかける。
「それは、本当に『正義』なのでしょうか?」
その視線の先には、ぼくがいた。彼女は神でも誰でもなく、ぼくに問いかけていたのだ。
だけど、
「正義なんて、この世には存在しない」
「どうしてそう思うのですか?」
「たとえば、今回の殺害。それは命令を出した彼や多くの人にとっては正義だった。でも、殺害された彼やその仲間にとっては、今までやってきたことが正義だった。きっとそれと同じように、ぼくにはぼくの正義があるし、君には君の正義がある。『正義』なんて、その人によって違うんだよ」
正義の反対は悪ではなく、また別の正義だ。だから、この世に正義なんてない。正確に言うなら、「絶対的な正義」は存在しないのだ。
すると、彼女はあごに指をかけて少し考えたあと、「じゃあ」と切り出した。
「神様だけは『絶対の正義』ですよね?」
その微笑みは、神に向けられたものだろうか。
ぼくはまた吐き気を覚えた。彼女は相変わらずキレイごとを言う。汚いものを見ようとしない。いや、汚いものなどなく、すべてキレイだと思っているのかもしれない。あるいは、汚いものでもいつかはキレイになると思っているのだろうか。
しかし、残念ながら、黒は白にはならない。だから、ぼくは汚れ続ける。
「神様が正義なら、そもそも今回みたいなことは起こらないんじゃないのかい?」
「っ、それは……」
「神様が愛なら、あんなにむごたらしく人を殺さないはずだ」
「……っ」
「もし神様がいるのなら、きっとそれは残酷極まりないものなんだろうね」
彼女は両手を握りしめたまま、カタカタと震えていた。また、泣かせてしまっただろうか。それでも、ぼくは先を続ける。
「今回も、今までの戦争も、すべて正義の名のもとに行なわれてきた。でも、結局は『正義』という言葉を利用しているに過ぎない。正義は、ただの大義名分でしかないんだよ」
――そうだろう? 神様。
ぼくは礼拝堂の正面にある十字架を見据え、心の中でそう吐き捨てた。
必然的に訪れたしばしの沈黙。それを破ったのは、震える彼女の小さな声だった。
「……それでも、わたしは神様を信じています」
「だから?」
ゆるゆると顔を上げた彼女と目が合う。ぼくの予想に反して彼女は泣いてなどおらず、ぼくの目を真っ直ぐに見つめてにこ、と微笑んだ。
「だから、わたしは神の正義を追い続けます。それが、わたしの『正義』です」
そう告げた彼女には、気高さと誇りが感じられた。どうして彼女はそこまで神を信じられるのだろうか。ぼくという、悪魔のような存在にも汚されず、世間にも汚されない。
ぼくは、そんな穢れのない彼女がすきで、嫌いだった。




