Ⅰ 嘲笑
「アーメン」
ギィ、と古びた礼拝堂のドアを開ければ、そこにいたのはマリア、だった。
「遅いですよ。もう朝の礼拝は終わりました」
「ああ、ちょうどそのころを見計らってきたからね」
「まったく、神にお仕えする人が聞いてあきれますよ」
「あいにくだけど、ぼくは神様なんて信じていないからさ」
「でも、ここに来たときに洗礼は受けたでしょう?」
小首をかしげてそう尋ねてくる彼女。確かにぼくは『ここ』に来たときに洗礼を受けた。と言っても五歳くらいのときだから、あまりはっきりとは憶えていないのだけれど。
「でも、堅信はしてないから」
堅信とは、主に幼児洗礼を受けた者が成長してから自分の意志で信仰を表明したいときに、改めて授けられるものだ。簡単に言うと、自分の意志で改めて信仰宣言をする、といったところだろうか。
そんなヘリクツともとれるぼくの言葉に、彼女ははあ、とため息をついた。
「ああ言えばこう言う。同じ環境で育ったのに、どうしてあなたはそうなったのですか?」
「同じ、じゃないからさ。君とぼくでは、絶対的に違う」
「……それは……」
そのセリフの意味がわかったのか、申し訳なさそうに目を伏せる彼女。
気まずい空気が流れ、沈黙に包まれる。それを打開したのは、ぼくだった。
「別に君が気にすることじゃないよ。ぼくが神様を信じていないのは昔からだしね」
「いや、それもどうなのでしょうか」
「それに、過去は捨てる主義なんだ。もうそんなことは忘れたよ。ああ、そろそろ朝食の時間だね。行こうか?」
「……はい」
一瞬の間を空けての返事だったが、そう答えた彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。それがどこか哀しそうに見えたのは、ぼくの目の錯覚ということにしておこう。
ぼくと彼女は幼なじみなのだが、普通の幼なじみと違うのは、同じ家に住んでいるということだ。ぼくは、幼いころ親に捨てられた。しかし、そのときの記憶はほとんどない。
憶えているのは、雨の降りしきるある日、知らない土地の礼拝堂の前で、母親らしき人物と握っていた手を離されたこと。そして、去り際のあの言葉。
(……ごめんね)
それは、何に対しての謝罪だったのだろうか。ぼくを捨てたことか、はたまたぼくを産んでしまったことか。今となっては知るよしもないけれど、その言葉は幼心にぼくを絶望へと突き落としたのだ。
その礼拝堂が先ほどまで彼女といたあそこなのだが、それは児童養護施設の一部だったらしく、ミサが終わったあとに出てきた人々によってぼくは保護され、そのままここで暮らすことになったのだ。母親はそれを狙っていたのかもしれない。それが最後の良心だったのだろうか――いや、そんなのはもうどうでもいい話だ。ぼくは過去にはしがみつかない。
さて、彼女との出逢いだが、それはやはりあの礼拝堂だった。彼女がクリスチャンの母親と一緒に(いや、彼女も幼児洗礼を受けたと言っていたから、彼女もクリスチャンか)ミサに来ていたからだ。そして、その彼女の母親がぼくの育ての親となった。彼女の母親はそれより一年ほど前に事故で夫を亡くし、この施設の職員として住みこみ働いていたらしい。したがって、彼女もこの施設の一員だったのだ。
彼女の母親は慈悲深い人だった。ぼくを本当の子供のように育ててくれる、やさしくてあたたかい人だった。礼拝堂に置き去りにされたぼくに祝福があるようにと、洗礼を勧めたのも彼女だった。だから、ぼくは捨てられたその日に洗礼を受けたのだ。
そうして月日は流れ、中学校に上がるくらいのある日、必然的にぼくと一緒にいることの多かった彼女が突然こう尋ねてきた。
「あなたは、神様を信じていますか?」
先ほども言ったように、ぼくも洗礼を受けているのでクリスチャンではある。彼女ももちろんそれを知っているはずなのだが、日頃あまり真面目でないせいか、そのような普通ならしない質問をしてきたのだろう。
そして、ぼくも普通ではない答えを返す。
「信じてないよ」
そう、ぼくは神様なんか信じていない。洗礼だって、彼女の母親に「受けさせられた」だけ。
すると、
「どうしてですか?」
彼女の口から出てきたのは、怒りでもおとがめの言葉でもなく、ただ純粋な疑問だった。これには少し驚いてしまったが、どうして、と聞いてきたということは、それに答えてもいいということだ。
「だって、神様なんていないから」
「どうしてですか? 神様はいますよ。神様は愛なのです。そうして、みんなを愛してくれているのですよ」
歌うようにそう言って、にこ、と微笑む彼女の言葉に、子供ながらに吐き気を覚える。
愛だって? そんなのキレイごとだ。彼女は自分がキレイだからそんなことを信じられるのかもしれないけれど、ぼくは違う。だって、
「神様なんていない。だったら、どうしてぼくはここにいるの? どうして、ぼくは捨てられたの?」
吐き捨てるように紡がれたぼくの言葉を聞いた彼女は目を大きく見開かせ、ばつが悪そうにうつむいてしまった。そんな彼女に現実を突きつけるように、ぼくは先を続ける。
「神様が愛なら、それはみんなに平等に注がれるべきだ。でも、ぼくは捨てられた。愛されていなかったんだ。だから、神様なんていないよ」
腹の中に溜まっていたものをすべて吐き出して、ふう、と一息つく。彼女に目をやれば、下を向いて黙ったまま身体をカタカタと震わせていた。もしかして、泣いているのだろうか。
そう思うと急に焦りを覚え、何と声をかけようか迷っていると、彼女がぱっと顔を上げ、にこっと笑った。その目は赤く潤んでいて、わずかに涙が浮かんでいる。それでも、彼女は気丈に微笑み、その口をゆっくりと開いた。
「わたしも、神様なんていないって思ったこと、ありますよ」
「……いつ?」
そこで「本当に?」と聞かなかったのは、彼女が絶対にウソをつかない人間だと知っていたからだ。
すると、彼女はぐっと拳を握りしめ、きゅ、と口を真一文字に結んだ。まるで痛みを我慢して、さらに涙があふれるのをこらえるように。ぼくは何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか――
「お父さんが、死んだときです」
「!」
そうだ、彼女の父親は、ぼくがここに置き去りにされる一年ほど前に亡くなっていたのだ。
「小さいころのことですからあまりよくは憶えていませんけれど、母が哀しむのを見て、わたしも哀しくなった覚えがあります。どちらかというと、どうして神様はお母さんを苦しめるの? という感じだった気がしますけどね」
目じりに浮かんでいた涙を拭い、彼女はまた笑った。片親とはいえ、肉親を失うことは子供にとって、とても重い。それは、ぼくと彼女に共通している体験だった。もっとも、ぼくは両親とも失っているのだけれど。
しかし、今度はぼくが何も言えなくなってしまい、彼女から視線を外していると、彼女の明るい声が聞こえた。
「でも、わたしはやっぱり神様を信じています」
「……どうして」
「だって、あなたと出逢わせてくれましたから」
その言葉にはっとして顔を上げれば、彼女は先ほどまでの悲嘆を一切感じさせないようなキレイな笑みを咲かせていた。
「父はもういませんけれど、母はいます。そして、あなたも。あなたは、生きているだけで、すでに神様から愛されているのですよ。生きているから、出逢うことができた。それは奇跡だと思いませんか?」
それは違う。ぼくは捨てられたから、彼女と出逢ったんだ。それは神様のおかげではなく、むしろぼくの母親のおかげではないだろうか。――ああ、自分を捨てた人物に少し感謝したくなるなんて、可笑しな話だ。
でも、そうとすら思わせるくらい、彼女の言葉が嬉しかったのだ。このときの笑顔を、ぼくは忘れない。
* * *
「神様、か」
「え? 何か言いましたか?」
食堂へ向かう途中でぽつりとつぶやくと、彼女がこちらを向いた。
「いや、ちょっと昔のことを思い出してね」
「へえ、珍しい。さっき、過去は捨てる主義だって言っていませんでしたか?」
「ここに来てからのことは別だよ」
そう言うと、彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みをこぼした。
「ふふ、そうですか」
「ああ」
神様なんていない。いや、もしかしたらいるかもしれない。だけどきっと、それは残酷な神様だ。ずっと捨てられたことを憎み、愛されなかったことを哀しんでいたのに、彼女と出逢えたなら、それすらもよかったと思わせてしまうのだから。




