epilogue
彼女が帰ってきてから早半年。ぼくは無事に大学を卒業し、公務員として働いていた。
あのあと、ぼくたちが育った施設に彼女を連れて戻ると、みんな彼女が帰ってきたことに驚き、喜んだ。そして、彼女は以前と同じようにそこに住みこみで働いていたが、それで経営難が解決するわけでもなく、予定通り三月いっぱいで閉鎖になった。だから、彼女は今、別の児童養護施設で働いている。
それから、もう一つ予定通りになったことがある。それは、あの礼拝堂は残されたままだということだ。ただ、あそこが癒しの場になるかどうかは、人々の神を信ずる心次第だけれど。
しかし、信仰心がなくても、ぼくはそこへ足を運ぶ。神を否定し、神はこの世で一番残酷だということを証明するために。そして、ぼくのたった一つの希望であるマリアに会うために。
「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」
ギイィ、と重い扉を開ければ、彼女は今日もそこにいる。
「やあ、こんばんは」
「祈りの時間は終わりましたよ」
「それを見計らってきたからね」
「まったく、あなたは相変わらずですね」
「ああ、君も、ね」
最前列の左側、もう指定席と言っても過言ではないそのイスに腰を下ろすと、彼女も自分の定位置である、通路を挟んで右側のイスに座った。
「そういえば、あなたは今でも同じ人がすきなのですか?」
「え?」
「いえ、その、叶わない想いだと言っていたので……あ、でも、憐れんでいるわけではないのですよ。たとえ叶わなくても、そのように人をすきになるのは素晴らしいことだと思います。愛は、神様から与えられた最も大切なものの一つですから」
彼女らしくない質問をしてきたかと思えば、弁解するように慌てて言葉を紡ぎ、最後は結局神様にたどりついて微笑む。彼女は今日も吐き気がするほど敬虔だった。
しかし、これは再びのチャンスなのだろうか。いや、もしかしたら神様は早くぼくに振られてほしいのかもしれない。そう、そういうつもりなら――いいよ、神様。
「ああ、今でもすきだよ」
「それは、今でも叶わない想いなのですか?」
「そうだね、一生叶わないと思うよ」
「何故、です?」
自分のことではないのに、哀しそうなカオで尋ねてきた彼女。いや、ある意味「自分のこと」なのだろうか。だって、
「――ぼくのすきな人は、君だから」
「え?」
ぼくは、驚きを隠せないというように大きく目を見開いている彼女のトナリに移動し、その髪をさらりとすくった。
「ぼくは、ずっと君がすきだった。昔から、君がいなくなっても、ずっと。敬虔で、信仰深くて、キレイごとばかり言っていて。そんな君を穢したいと思うことが何度もあった。だけど、」
これは、決して叶うことのない想いだと知っている。それならばせめて、今までの想いをすべて伝えたい。せっかく残酷な神様が与えてくれた、二度目のチャンスなのだから。
「だけど、ぼくはそんなふうにやさしくて、キレイで、真っ白な君がすきだった。吐き気がするような純潔ですら、全部ひっくるめて愛していたんだ」
さらり、彼女の髪が手からこぼれ、それと同時にぼくはうつむく。――言って、しまった。
けれど、後悔はしていない。昔からぼくには絶望しかないのだから。彼女が戻ってきてくれて、こうやって一緒にいられるだけで十分だ。それ以上に、何を望むというのだろう。どう足掻いても、彼女は手に入らないのに。
「――どうして、過去形なのですか?」
「え?」
突如響いた清らかな声がわずかに震えていることに気付き、その質問にも驚いて顔を上げると、彼女の目は赤く潤んでいた。
「今でもすきだと言ったのに、どうしてその告白はすべて過去形なのですか? どうして叶わない想いなどと言うのです? どうして、勝手に一人で終わらせようとするのですか……っ」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼして泣いてしまった彼女のほおを拭おうとして、伸ばした手を止めた。ダメだ、ぼくは彼女に、そのぬくもりに触れてはならない。今日で、この想いとは決別するのだから。
「終わらせるよ。決して手に入らないものを追い続けるのは、もう疲れたんだ」
「それは、あの誓願を破るということですか?」
「それは違う。君があの誓いを破らない限り、ぼくは独りじゃない。だから、ぼくも君を独りにはしない」
「では、どういうことです?」
こちらに向けられた瞳は、涙に潤みながらも真っ直ぐで。ぼくは苦々しく笑いながら口を開いた。
「君を手に入れたいと思う恋愛感情は捨てる。ただ、それだけさ」
「これからは家族愛だけ、ということでしょうか」
「ああ、そういうことかな」
そう答えて、ぼくはもといた自分の席に戻った。そう、これがぼくと彼女の正しい距離なのだ。物理的にも、精神的にも。
「……どうして、わたしへの想いは叶わないと思うのですか?」
ぼくがあきらめようとしているのに、何故か彼女は食い下がる。どうしてそんなことを言うんだ。期待なんて、してはいけないのに。
「だって、君は神を愛してやまないだろう?」
何かを口にするたびに、自分が惨めになっていく気がした。もういいだろう、神様。同情も、期待もいらないから、キレイさっぱり彼女をあきらめさせてくれ。
十字架を見つめ、心の中でそう叫んでも、神様は――いや、彼女はどうしてかあきらめてくれなかった。
「あなたは間違っています」
「へえ、何がだい?」
「確かにわたしは神様を愛しています。だけど、それが恋愛感情ではないことくらい、わかっています」
「でも、君は神の愛する全人類を、平等に愛している。たった一人の特別な人間なんて――」
――「特別」?
自分で言ったセリフに引っかかり、言葉に詰まる。半年前のあの日、彼女は何と言っていたっけ?
「言ったでしょう? あなたは『特別』なのだと」
澄んだ声に振り向けば、彼女はにこ、とどこまでもキレイな笑みを浮かべた。
「わたしは今まで誰かに恋愛感情というものを抱いたことがないので、それがどういうものなのかはわかりません。それに、あなたの言うとおり、わたしは全人類を愛そうとしています。ですが、」
そこで言葉を切ると、今度は彼女が立ち上がり、ぼくのトナリに来て腰を下ろした。
「あなたは、やはり『特別』なのです。誰よりも大切にしたいと思うし、一生トナリで歩んでいきたいと思う。こんな気持ちを抱くのはあなたが初めてですし、あなただけでありたい。……それでは、ダメでしょうか?」
上目遣いで弱気に尋ねられ、ぼくの手はいつの間にか半年前のあの日のように、彼女の両手に包まれていた。
「それは、ぼくの想いを叶えてくれるってこと?」
「うっ、そ、それがわからないからわたしも困っているのではありませんか」
目を泳がせながらそんなことを言われても、一番困っているのは生殺しの状態にされているぼくだというのに。ああ、やっぱり神様は残酷だ。
ならば、ぼくは。
「過去形じゃなければいいのかい?」
「え?」
「ずっと昔から、そして今も、ぼくは君のことを――」
人間は、神様には勝てない。そもそも、勝とうとするほうがおかしいのだ。
けれど、ぼくは一つだけ神様に勝てることを見つけた。それが何かは――内緒、だけど。
ぼくはこれからも神を否定し続け、神に祈ることはないだろう。だけど、これだけは感謝したいと思う。ぼくと彼女という人間を創り、出逢わせてくれてありがとう、と。
この絶望と孤独の中で、彼女だけがぼくの希望だった。きっとそれは、残酷な神様がぼくに与えてくれた、たった一つの祝福なのだろう。
願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。
始めにありし如く、今もいつも世々に至るまで。
アーメン。




