Ⅹ 誓願
「え……?」
そう指摘されて、初めて自分のほおが濡れていたことに気付く。ぼくは、何故泣いているのだろうか。もういい大人だというのに。
ごしごしと腕で涙を拭っていると、彼女はまた顔を正面に戻し、穏やかに話し出した。
「わたしは、この数年を独りで過ごしてきて、気付いたことがもう一つあります。いえ、『思い出した』と言ったほうが正しいでしょうか」
「……何だい?」
「あのとき、わたしは本当は孤独ではなかったということです。だって、あなたがいたのですから」
(あなたがいればわたしは独りではありません)
いつかの彼女の言葉を思い出し、もうすっかり涙の痕跡を消した顔をそちらに向ければ、それに応えるように彼女もこちらを向いて、にこ、とやさしく微笑んだ。
「わたしは、確かに死ぬつもりであなたに別れを告げ、この礼拝堂を出ていきました。けれども、いざ死のうとしたとき、母と、あなたの顔が頭をよぎったのです」
「……ぼくの?」
「ええ。あなたはいつかこうも言っていました。人間は独りでは生きていけない、と。わたしも、独りでは生きていけないのです」
「でも、君は神の愛を見出した。天国のお母さんも、そしてきっとお父さんも見守ってくれている。だから、君は独りじゃないだろう?」
そう、今も昔も独りなのは、ぼくだけだ。
「確かにあなたの言うとおりですが、でも、『生きている人間』はあなたしかいないのです」
「!」
「もちろん、他者と関わることで相手の中に神の愛を見ることはできるでしょうし、わたしもその人に愛を与えるでしょう。他者と関わればそこに愛が生まれ、独りではなくなります。だけど、」
彼女はそこで口をつぐみ、静かに立ち上がったかと思うと、通路を挟んで反対側に座っているぼくの前に来て、すっとひざまずいた。そして、自身の両手でゆっくりとぼくの手を取り、包みこむように握る。彼女が行方不明だった空白の時間を除いても十年以上の付き合いがあるが、こうして触れるのは初めてだった。その手のわずかなぬくもりから、彼女のやさしさが伝わってくるような気がする。
やがて、顔を上げた彼女の真っ直ぐな瞳にとらえられ、ぼくは息を飲んだ。健康的な色をした彼女の唇が、ゆっくりと動く。
「その中でも、あなたは『特別』なのです」
「特、別……?」
「はい。これがどういう感情なのかはわかりません。ですが、わたしはこれからもあなたと一緒に生きていきたいと思っています」
確かに神様は人間ではないし、人間だった彼女の母親ももういない。
だけど、
「ぼくはずっと独りで生きてきたんだ。今さら誰かの助けなんて、必要ない」
「いいえ、あなたはもう独りではありません。言ったでしょう? あなたが独りにならないように、わたしがずっとそばにいると」
「でも、君はぼくの前から姿を消した」
「……忘れていて、ごめんなさい。でも、わたしは気付いたのです。わたしが独りだということは、あなたも独りになってしまうということを。だから、わたしはその約束を守るために帰ってきたのです」
「別にあれは約束じゃなかった気がするけれど」
「何を言っているのですか。あれはここでの出来事です。つまり、わたしは神様の前でそう誓ったのですよ? それを破ることは、罪です」
力強くそう言い放った彼女は、相変わらず神様フリークで。でも、それが彼女なのだ。敬虔で、キレイごとしか言わないけれど、そんな真っ白な彼女のことが、ぼくはすきなのだ。
「だから、わたしはもう一度ここで誓います。わたしは、あなたを決して独りにはしません。あなたとともに喜びも哀しみも分かち合う『もう一人』になります。だから、」
最後の言葉と同時に、ぼくの手を握る彼女の両手の力が少し強くなる。
「どうか、あなたもわたしとともに生きる『もう一人』になってください。わたしは、いえ、わたしたち人間は、独りでは生きていけないのですから」
それは、彼女が神ではなく、ぼくにした二回目の頼みごとだった。一回目は、彼女の母親が事故に遭ったあの日。彼女は卑怯だ。彼女の頼みごとを、ぼくが断れるわけがないのに。
「――いいよ」
「本当です……」
か、と言おうとして嬉しそうなカオを上げた彼女は、しかしすぐに眉を下げて、また困ったように笑った。
「また、泣いていますよ」
「ああ、悔しいからね」
「ええ? どうしてです?」
「……内緒」
「ふふ、そうですか」
ふわり、彼女がぼくの手を離して立ち上がったかと思うと、今度はその腕で頭のあたりを抱きしめられた。それはまるで幼子を慰める母親のようで。やっぱり、彼女はぼくのマリアだった。
「ああ、そうだ。言い忘れていたよ」
「何です?」
「――おかえり」
主よ、どうか今日ここで彼女が立てた誓願が、そして、ぼくの肯定の言葉が、永遠のものとなりますように。




