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紅いマリアの涙  作者: 久遠夏目
本編
1/13

prologue

 彼女は彼女に逆らって、死んだ。


       * * *


「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」


 ギイィ、と重い音を立てて扉を開けば、彼女は今日もそこにいた。


「毎日毎日熱心だね、君は」

「当たり前のことですから」

「一応誉めてるんだけどね、ぼくは」

「それはどうもありがとうございます」


 この古びた礼拝堂で一人、毎日神に祈りを捧げている彼女は、敬虔なクリスチャンだった。「清廉潔白」「純潔」――それらの言葉が似合う人。

 ――だから、であろうか。


「……お母さんの具合はどうだい?」

「ええ、相変わらず、ですよ。でも、神様がついていますから、絶対に大丈夫です」


 最後の言葉は、自分自身を励ますかのように力強いものだった。

 彼女の母親は、二年前に事故に遭って植物状態に陥ってしまい、今もなお眠り続けている。彼女はその母親が早く目覚めるようにと毎日祈っているのだ。


「君は、神様を信じているの?」

「愚問ですね、あなたらしくもない。信じていなければこんなことはしません。あなたこそ、今でも神様を信じていないのですか?」

「そうだな、直接信じてはいないけれど、存在は信じているよ」

「……? どういう……」


 意味がわからないというように、怪訝そうなカオでこちらを見つめる彼女。それに対してぼくは何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。


       * * *


 それからどのくらい経っただろうか。彼女の母親は、死んでしまった。苦悶の表情など浮かべず、安らかに、穏やかに。そして、眠るように。

 彼女はその日も礼拝堂にいた。しかし、今日は神に祈ってはいなかった。一番前の席に座り、声を上げることなく静かに涙を流していた。そんな彼女を、ぼくはとてもキレイだと思った。


「今日は祈らなくていいのかい?」

「……もう、祈りを捧げる必要はありませんから」


 つぶやくようにこぼれた彼女の小さな声は、かすかに震えていた。


「どうして……」

「え?」

「どうしてわたしたちは神の掟を守らなければいけないのに、神はわたしたちの願いを叶えてくれないのですか?」


 悲痛に満ちた彼女の叫び。こんな彼女を見るのは初めてだった。母親が交通事故に遭ったときでさえ、彼女は落ち着いていたのに。


「願いが叶わないこの世界に、もう用などありません」

「でも、君のお母さんは素晴らしい人だった。だから、今ごろきっと神様のもとに行っているんじゃないかな。それはクリスチャンとして喜ばしいことなんじゃないのかい?」

「だけど……やっぱり、生きていてほしかった……っ」


 下を向いた彼女の目から、大粒の涙がこぼれる。ぼくは正面にある大きな十字架に顔を向け、口を開いた。


「どうしてぼくが神様の『存在だけ』を信じているか、わかるかい?」

「何を……」

「神様はこの世で一番残酷だから、だよ」


 彼女に向かって微笑んでみせると、彼女は大きく目を見開いてぼくから目をそらした。これで、この前ぼくが言った言葉の意味がわかっただろうか。


「――もし、そうだとしても、わたしは神様を信じています。だから、あなたとはこれでお別れです」

「……神に逆らうのかい?」

「いいえ。わたしは、――わたしに逆らいます」


 はっきりと宣言した彼女の瞳には、怒りにも似た、燃えるような――しかし、とても静かな――意志が宿っていた。

 彼女はすっと立ち上がると、さようなら、と一言残し、礼拝堂をあとにした。

 ああ、君は間違っている。神が世界や人間にできることなど限られているんだ。奇跡なんて、起こるはずがないのに。


 その後、その礼拝堂に彼女が現れることは、もう二度となかった。

 主よ、どうか彼女にほんのわずかな祝福を。




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