prologue
彼女は彼女に逆らって、死んだ。
* * *
「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」
ギイィ、と重い音を立てて扉を開けば、彼女は今日もそこにいた。
「毎日毎日熱心だね、君は」
「当たり前のことですから」
「一応誉めてるんだけどね、ぼくは」
「それはどうもありがとうございます」
この古びた礼拝堂で一人、毎日神に祈りを捧げている彼女は、敬虔なクリスチャンだった。「清廉潔白」「純潔」――それらの言葉が似合う人。
――だから、であろうか。
「……お母さんの具合はどうだい?」
「ええ、相変わらず、ですよ。でも、神様がついていますから、絶対に大丈夫です」
最後の言葉は、自分自身を励ますかのように力強いものだった。
彼女の母親は、二年前に事故に遭って植物状態に陥ってしまい、今もなお眠り続けている。彼女はその母親が早く目覚めるようにと毎日祈っているのだ。
「君は、神様を信じているの?」
「愚問ですね、あなたらしくもない。信じていなければこんなことはしません。あなたこそ、今でも神様を信じていないのですか?」
「そうだな、直接信じてはいないけれど、存在は信じているよ」
「……? どういう……」
意味がわからないというように、怪訝そうなカオでこちらを見つめる彼女。それに対してぼくは何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。
* * *
それからどのくらい経っただろうか。彼女の母親は、死んでしまった。苦悶の表情など浮かべず、安らかに、穏やかに。そして、眠るように。
彼女はその日も礼拝堂にいた。しかし、今日は神に祈ってはいなかった。一番前の席に座り、声を上げることなく静かに涙を流していた。そんな彼女を、ぼくはとてもキレイだと思った。
「今日は祈らなくていいのかい?」
「……もう、祈りを捧げる必要はありませんから」
つぶやくようにこぼれた彼女の小さな声は、かすかに震えていた。
「どうして……」
「え?」
「どうしてわたしたちは神の掟を守らなければいけないのに、神はわたしたちの願いを叶えてくれないのですか?」
悲痛に満ちた彼女の叫び。こんな彼女を見るのは初めてだった。母親が交通事故に遭ったときでさえ、彼女は落ち着いていたのに。
「願いが叶わないこの世界に、もう用などありません」
「でも、君のお母さんは素晴らしい人だった。だから、今ごろきっと神様のもとに行っているんじゃないかな。それはクリスチャンとして喜ばしいことなんじゃないのかい?」
「だけど……やっぱり、生きていてほしかった……っ」
下を向いた彼女の目から、大粒の涙がこぼれる。ぼくは正面にある大きな十字架に顔を向け、口を開いた。
「どうしてぼくが神様の『存在だけ』を信じているか、わかるかい?」
「何を……」
「神様はこの世で一番残酷だから、だよ」
彼女に向かって微笑んでみせると、彼女は大きく目を見開いてぼくから目をそらした。これで、この前ぼくが言った言葉の意味がわかっただろうか。
「――もし、そうだとしても、わたしは神様を信じています。だから、あなたとはこれでお別れです」
「……神に逆らうのかい?」
「いいえ。わたしは、――わたしに逆らいます」
はっきりと宣言した彼女の瞳には、怒りにも似た、燃えるような――しかし、とても静かな――意志が宿っていた。
彼女はすっと立ち上がると、さようなら、と一言残し、礼拝堂をあとにした。
ああ、君は間違っている。神が世界や人間にできることなど限られているんだ。奇跡なんて、起こるはずがないのに。
その後、その礼拝堂に彼女が現れることは、もう二度となかった。
主よ、どうか彼女にほんのわずかな祝福を。




