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常磐木の物語

手底の珠

作者: 暮音孤

この作品は、フィクションです。

作中に登場する人物等の固有名詞は、現実世界のものとは関係を一切持ちません。


また、複数の某ゲームに似た作品になったと後々思いましたが、パクリは一切ありません。


13/10/01 誤字脱字の修正



   『12月23日』


 人の都合などお構いなし、(しば)しも待つことなしに、歳月は過ぎ去っていく。

 (あるじ)のいない部屋も何一つ変わるものはなかった。

 昼間に開けられたままの窓は冷たい風を迎い入れ、机とベッド、本棚にクロゼットと、一層に(ぬく)みをなくし――。

 机の上に広げられた大学ノートは、ぱらぱらと音をたて、()くられては所狭しと角のとれた字と角張った字が交互に誌面を転がった。

 部屋の四方の白い壁は、何よりもの勲章とするかのように、一本のカレンダーを西日に晒しては、茜色に染める。

 隙間の空いた戸は、きいきいと蝶番を小さく鳴かせて、廊下へ抜ける風を見送った。

 そして、大学ノートに書かれていた日付『12月23日』も残光に照らされて――、間もなく影を(ひそ)めていった。




   12月23日、日記冒頭


 ――昨日は一人で誕生日を。

 ――明日はこの間の約束を。

 ――今日はずっと前の約束を。



   第一節 冷たいもの、あたたかいもの


 十二月の日暮れは滅法早く、十分に温まらなかった空気は鋭さを増して、(とおる)の肌を繰り返し襲う。とくに、紙袋の紐が両手に食い込み、(わだち)に似た跡が幾筋も走るところに隙を見つけては縫うように、冷えた空気が幾度も刺し入れていった。

 徹は手元を、腰を曲げて覗き込む仁美(ひとみ)の姿に、白い息を吐く。

「何だよ。何か言いたそうだな」

「分かっちゃったか、徹ちゃん? うん。寒くないのかなって」

「おい、誰が原因だと思って……」

「徹ちゃんじゃないの?」

「仁美のせいだから」

「そ、そんなことないよっ」

「まったく。今さら返せなんて言わないから。その着膨れて、有るのか無いのか分からない胸に、俺の手袋を押し付けないでくれ。自分のことのように寂しくなるから――ってのは、冗談だ。ったく、仁美はほんと寒がりだよな」

 呆れながら徹の瞳は、実用ばかりを重視した、あまりにも見てくれを軽視した装いの少女の姿を視界に入れていた。

 以前に、徹はその内容を訊いたことがある。肌着については「いろいろだよ」とはぐらかされたものだが、ブラウスだとか、ベストだとか、トレーナーとか、セーター、その上にマフラーとジャンパーと、平安時代の貴族女性も驚きの着膨れの程であった。十二分という意味で。

「しかし、だ。仁美が手袋をしてなくて、俺が着けて来る日がまさか来るなんてな」

「本当だよね。それも半日もなかったのよね」

「だから、仁美が原因なの。そろそろ自覚しようね!」

「でもね、女の子は手先を冷やしちゃダメなんだよ」

 そっぽを向いて、頬を膨らませる仕草はまさに仁美らしいと瞳の裏に映すも、それとこれとは別と、徹は誤魔化されなかった。

「それを言うなら手先じゃなくて、足先じゃないのか?」

「フンだ。徹ちゃんのいじわるっ!」

 ベーッと舌を出す様は堂に入った、よく知る子供の頃の仁美であったが、徹はその目まぐるしく喜怒哀楽の移り変わる様を懐かしく見ていた。

 そして、飲み物の一本でも奢ろうものならば、たちどころに機嫌を治すのは実証済みだった。

「今は温かいから、冷たいジュースがいいな」

「奢るなんていつ言ったよ?」

「ケチィ」

「ケチって、奢るのはいいんだけど……ね」

 徹はたったの半日で随分と薄く、軽くなった財布に、やれやれと手を伸ばす。紙袋を見ておくように仁美に頼むと、数メートル先の自動販売機まで足を運び、慣れた手付きでジュースを買う。

「あったと、あった。あったか、冷たいの……うー(つめ)た」愚痴とも違う、妙な調子で呟き慣れたぼやきを溢す。

 ホットとコールドの缶を手に入れたところで、仁美を残した辺りに人の気配を感じて、当たりをつけて戻った。


 案の定、それは仁美の母親の仁枝(ひとえ)に間違いなく、徹は缶を上着のポケットに仕舞って声を掛けた。

 この寒い時期に冷たいジュースを好き好んで買う変わり者とは思われたくない、そんな一心からである。

「仁枝さん、お帰りなさい」

「何だ。徹君のだったか、この荷物は」

「あたしは何度も言ったんだよ。けど信じてくれないの、お母さんったら」

 ひどいよね、と話し掛けてくる仁美の直ぐ隣りに立つ仁枝。後頭部で団子状にまとめた髪が、より仁美の短めの髪と似て、数十年老けさせた仁美を彷彿させる。

 徹の母親の香純と共に仁美を引き合わせてくれた(ほか)にも何かと世話になっており、第二の母とも呼べる存在である。

「足元ならともかく、こんな道端に荷物は置かないものよ」

「視界の端に映ってたから大丈夫だよ、仁枝さん」

「そう言うものじゃないのよ。それに相変わらず女物ばっかり。徹君、大丈夫?」

 小言が続くかと思いきや、袋の中身を目にした仁枝に心配される。

「大丈夫ですよ。暖かそうな服やら、あいつに似合いそうなアクセサリーやらは約束なんですよ、明日渡す――」

「そっか。もう、そんな時期なんだね。明日はイヴか。早いね、本当に。……じゃあ、見逃してあげないと母親失格かな。夕御飯には帰ってくるのよ」

 仁枝はそう徹に告げ、先に家路に着いた。

「俺らも帰りますか?」

 すっかりコールドでなくなった缶を取り出し、ホットだった缶と比べてより冷たい方を仁美に渡す。

「んーとね、優しい仁美ちゃんは徹ちゃんにあげちゃいましょう!」

「ハハハ……何をトンチンカンなことを言っているのかな? ええい! それじゃあ、奢ったことにならんだろうが」

 徹はにこやかに缶を押し付けた。

「徹ちゃんの気持ちは受け取ったよ?」

「奢りを断るなんて、それは薄情なんじゃないか、仁美さんや? いいから、飲みなさいって」

「むぅ。あたしはキンキンに冷えたのが飲みたかったのにぃ」

 しぶしぶ缶を受け取る様を、徹は見る。

「仁枝さんの前で渡されなかったことを感謝されても、渋られる理由はないはずなんだがな」

 あまりにも寒さに弱い為、本当に仁枝さんの娘かと疑い、もしかしたら変温動物なのでは、と慌てて仁枝に訊いたのは徹の忘れがたい思い出だった。

 しかし、寒さ対策をほぼ完璧にしておきながら、冷えた飲み物を口にする姿を仁枝も目にすれば、きっと防寒具の一つや二つは取り上げるはずだと徹が考えていると、仁美は「でも」と切り出した。

「お母さんだったら、『病弱なら、何でも通ると思わないの』――そう言うわね、きっと」

 正面に人差し指を立てて声音を真似る仁美を映した徹は、およそ外れではない想像に「うしっ」と満足を表す。

 そして、「俺たちも帰るか」と一気に熱い息を吐くや、徹の頭上にある街灯が同時に点灯した。

「さすがは徹ちゃん。だけど……スポットライトを浴びて言うようなセリフじゃないよ?」

「だよなぁ」

 いつかのようにお腹を抱えて笑いに涙する仁美に、徹は肩を落として、この二度目の奇跡にため息を吐いた。


 商店街から住宅地に向かって街灯が足早に(とも)る中を、荷物両手に徹は小股に歩いていた。

「あー、もう! 指先がイカれるからっ」

「なら、手袋とかして来なさいよ」

「いや、だからさ……捕られたの。仁美に。覚えてない?」

 原因を華麗に棚に上げる仁美の声を頭に響かせる中、かじかんだ両手はそろって血の気が引き、徹は言葉も引き上げた。十分に手袋の有用性を理解していたが、普段はポケットに手を入れて何とかしのいできた。買う余裕がなかったというのは、理由の一つだが、仁美にわざわざ言うことはなかった。

「風邪ひいても知らないわよ」

「そう言う仁美は、いつ見てもぽかぽかだな」

 少し前を歩く仁美は見ただけでも丸い毛の玉のついたニット帽にマフラー、トレーナーにジャンパー、手袋と完璧なまでの防寒対策をしていた。

「普通でしょ、これくらい?」

「いいや、やり過ぎだな」

 徹は滑舌よくキッパリ返す。

 商店街は明日という日を控えて賑わいと共にあったが、仁美は不満そうな顔であるのを、徹は見た。

「寒いんだから、どんな格好をしようとあたしの勝手だよ。そんなことよりも、どうして、あたしが徹ちゃん個人の買い物に付き合わされたのかな?」

「どうしても何も、理由は昼間言ったろ。明日のイヴに、女の子にプレゼントを贈りたいって」

「ええ、そうね。それで?」

「それだけだけど?」

「だから、なんであたしもなのよ!」

 合点がいったとばかりに、徹は仁美を正面に捉える。

「暇そうに、部屋でゴロゴロしているのを見たからだな」

「レディーの部屋を覗くなんて、犯罪だわ!」

 仁美は憤然と怒るが、徹は余裕綽々に時代劇風におどける。

「覗きではございませぬよ、お代官様。……仁枝さんにことわってから部屋を見たからな。携帯にも撮ってあるぞ」

「盗撮なんて本当に犯罪じゃない!」

「仁美からの返事も入ってるぞ。『ふにゃ~』って。かわいかったぞ、そこで赤くなっても駄目なんだからな。言質は撮ってあるから、ハハハ言い逃れも出来まい」

 さあ、どうだと、徹は口早に探偵か刑事風に指を突き付ける。

「……し、知らないわよ、そんなこと。それよりも知らないからね」

「ん? 何の事だ?」

「プレゼントのこと。徹ちゃんが教えてくれなかったから、あたしの趣味になってるわよ」

 徹は仕方ないんじゃない、と笑う。

「普通、女の子は嫌がるわよ。他の女の選んだものなんか貰ったら」

 しかし、徹はやはり仕方がない、と笑った。

「まだ脈はあるからな。とりあえず物量作戦みたいな?」

「徹、それサイテーの考え方だよ。一つ忠告するけどねぇ、心はお金じゃ買えないの」

 仁美の冷たい言葉に、つい徹は冗談を返していた。

「ん、体は良いのか?」

「なっ――駄目に決まってるじゃない! バカじゃないの、徹ちゃん?」

「でも、大人は」

「でもも、なんででもないの! あたしも徹ちゃんもまだ学生だよ、そこんとこ分かってるの?」

 徹は「寒いのぅ寒いのぅ」と身を震わせて仁美に別れを告げた。

「……今日はありがとな。で、よろしければ明日も買い物に付き合ってくれはしないか?」

「何よ、ふざけているの? まだ買い足りないの? 両手いっぱいに紙袋釣って?」

 仁美の呆れる様を瞳に映し込み、徹は苦笑、鼻頭を掻きながら答えた。

「一番大切なものをこの手に掴み損ねているんだ。大切だから機会を伺っていたんだけど……俺が優柔不断だからかな。見つからなかった」

 大量に買い込んだ包装も碌にされていない剥き出しの衣服やアクセサリーなどのプレゼントを示して、仁美にアイコンタクトを飛ばす。

「それが理由? 言い訳にもならないと思うけど?」

「ダメか?」

「それが理由になるなら、あたしが家でぬくぬくするのも立派な理由になるけど?」

「『ふにゃ~』って?」

 徹の見る仁美は再び頬を赤らめ、声を上擦らせた。

「そ、そうよ! な、何か悪いわけ?」

「そんな滅相も」

「じゃあ、繰り返さないの! あたし、帰る! 手袋は、あったかかった」

 徹のお願いには答えずに、チカチカと切れかかった街灯の下で、仁美は手袋を投げ返すや姿をくらませた。

「本当に。繰り返してばっかだな、俺」

 仁美から返された手袋を落とさず受け取ると、徹もゆっくりと仁美の消えた先の街灯を通り過ぎた。

 しかし、今日まではある意味で日常の続きに過ぎないことを、数年掛けて身に染みて知る徹であり、部屋に入るなり、手袋を放り、机の上に置かれたノートを(めく)った。

 それは、まだ求めるものがいつでも手に入ると勘違いしていた頃の一昔前の日記。

 明日が駄目だった時、その時はどうしようもないのだといい加減に認めなくてはならない。

 考えていれば良い時間は疾うに過ぎ、行動してきた徹が迎える明日も、とにかく行動でなければならない。そうでなければ、徹は何度目かの惨めな時間を、また独りで送らなければならない。

 何度も繰り返し読み直してきた日記を改めて目で追い、徹は思いを新たにする。

 その一方で、これまでのどうしようもない結末に、指はいつまでも冷えたまま、徹はただ吐息を当て続ける。

 (くる)まる布団の中で、――くん、ごくんと嗚咽をひたすらに我慢して、徹は其の日を迎えた。




   12月22日(過日)、日記冒頭


 ――明日からは休み。

 ――今日は終業式。

 ――昨日までの日常。



   第二節 冷たいもの、温かいもの


 幼馴染みだからと、ずっと仲が良いとは言えないし、仲が良くても自然に恋仲まで進展するなんて、現実にそうはない。

 夏休みに短くしたという仁美の髪は、余程思いきったらしく、冬休みを前にしてようやく首筋を隠せるまで伸びてきた。

 友達と前を歩く仁美の襟足から(つや)やかな黒髪を伝って背中まで追いながら、徹は自身の(から)の左手に目を落としていた。

 徹にも気恥ずかしさを覚えたことはあった。それでも、常には隣りにいなくなったのは、仁美からだった。徹は、それを女の子の方が()せているから仕方のないことだと本気で思った。自分の採った小事は、そのことに事実ととして何も影響していなかったからだ。

「徹~、この間のテストの出来は?」

「驚け、正解率は前代未聞の半分未満」

「よっしゃ! なら、徹にゃあ勝ったぜ」

 後ろから飛び付いてきたクラスメートを振り払い、天にまで(とどろ)けと誇らしげに答えてみると、彼は勝ち鬨を上げる勢いでガッツポーズを取った。

 反対に、仁美の肩はビクリと跳ねた。振り向くや、徹だけを見据えた。

「渡辺君?」

「徹よ、俺ぁ退散するな」

「おう、またな」

「岡本さんも程々に。じゃあな」

 クラスメートはまだ近付くこと数歩の、上擦る仁美の声に反応して、軽やかに逃げていった。

 徹にはそれをすることに意味がない。口内の唾をごくりと飲み込んで、仁美を待つ。

 初動に合わせて徹は四股(しこ)を踏むも、仁美の手の方が早かった。

 肩に掛けていた鞄を下ろしつつ、力に頼らず勢いそのままに、下方から徹の顎に向かって、仁美の鞄がきれいに決まった。

「あ、……が」

 重心を落としきっていたら気絶していたかも知れない鈍い音も、仁美の鞄に振り回される様子も、後ろに飛ばされる徹は流れる廊下の天井に星を見ていた。


 半開きの口を閉じると、徹の瞳は生気を(とも)らせて、その鼻先に凶悪犯を映した。

「徹ぅ。向かってくる鞄は受け止めるものじゃないんだよ、ちゃんとお腹に当てないと。痛かったでしょ?」

「ああ痛かったよ。ただ、腹も十分痛いからな。いい加減、学ぼうな?」

 放課後の学生が少ないことに感謝しながら、一応は横にいる仁美に確認する。

「どのくらい寝てた?」

「んーと、五分は経ってないかな」

 顎に決まったのだから受け身も間に合わなかったのだろう、徹は起き上がる時に後頭部に痛みを覚えた。

「仁美さんや。やけに衝撃が重かったんだけど、終業式に何を持ってきたのかな?」

 どうせ、ろくなものではあるまいと、今日は何だと、徹は指を立てる用意をする。

「昨日忘れたお弁当箱とマイ古語ディクショナリーでしょう」

「…………」

 指を二本立てるが、この位の突っ込みどころは見送る。若干、兎耳のようにピクピクと前に垂れるのは愛嬌というものだ。いちいち反応していては、手が二本では足りなくなる。足を加えても、四本にしかならない。指はそれだけ貴重なものだ。

「成績表に筆箱。ノートに下敷き、それから放置気味の諸々だよ」

「一番重そうなのは古語辞典だけど、あの音はおかしくないか?」

「そうかな? あ、でも、花瓶が割れちゃったよ、徹ぅ」

「あれは、お前のか!」

 仁美が「どうしよう?」と鞄から取り出す欠片は、間違いなく教室で異彩を放ってきた青磁の花瓶だった。

 それには、さすがの徹も我を忘れて鋭く返していた。

「うん。あたしの、というよりお父さんのだね? ところでさ、テストが何て?」

弘光(ひろみつ)さんごめんなさい、って何故、俺が謝る? テストについては、受けなかった人にとかく言われるのは嫌いなんだが」

 徹は下駄箱へ向かい、一歩。仁美が着いてくるのを確認して歩き出す。

「あたしは仕方ないじゃない。夏休みまでの内容がスカスカなんだよ? それなのに実力を見せられないまま学年順位が公表されるテストなんて受ける意味ないよ」

 期末試験前の危機感を(あお)る実力試験は、春から秋までの学習内容が出題される。

 まさに、その春から夏に掛けての期間に欠席することの多かった仁美は、潔く白紙提出をするどころか常套手段の自主休校してすり抜けた。

「はいはい。俺も身が入らなかったんだよ。これでも誤答はなかったんだぜ、すごくない?」

「それでも、徹はいつだって同じような点数じゃない。大学行く気あるの?」

「仁美の先輩にも後輩にもならない自信があるぞ」

「それは志望校を無断で変えたってことかな?」

「暗に同期生になるって言ったんだよ」

 信じられないよ、と仁美の(またた)く目は雄弁に語る。

 上履きを脱ぎ、革靴に履き替える。校舎を出て、部活動に汗流すグラウンドの学生を横目に、すぐさま正門に辿り着く。

「仁美。人間は予測を立てて、現実のものにする為に頑張れるんだよ」

「そうだね?」

「俺は仁美と同じ大学に行きたいとずっと思ってきた」

「うん」

「家から近い、仁枝さんに負担を掛けずに済む大学であり、超難関でもないな」

「うん」

 何が言いたいのか、果たして徹が結論付けられるのか、仁美は耳を傾ける。

「だから、俺はお前が長期休学に入った時から、計画を一年上乗せしたんだ。このまま独りにはしないよ」

「徹ちゃん……」

 学校の敷地を出たことを受けて、仁美が元の呼び方で徹を呼ぶ。

「安心してくれ。俺も進級できないかぶっ――」

 振り返った直後、徹は再度仁美の鞄の強襲に遭った。顎の次は脳天だ。

「徹ちゃんが三年生を二度やるくらいでないと、あたしの不安は無くならないんだよ!」

「ど、鈍器だから! 心配してくれるなら、頭は止めて」

「あ、ごめんね」

 中に入っている花瓶のことなど毛程も頭に残っていなかった仁美は、徹の必死な痛がりで思い出した。

「とにかく、徹ちゃんは三年生を二回、あたしは二年生を二回やるの。決定だからね」

「約束じゃないのか?」

「出来ない約束はしないよ。あたしが先輩になったら、勉強を見てあげる――これは約束だよ。望まないけど、可能性高いよね?」

「何てこった。俺の四ヶ年進学計画は、無謀だというのか」

 両手で頭を抱えて大仰に苦悩する徹に、笑う仁美。二人の関係はずっとこんなだった。近過ぎず、遠過ぎず。近付くと離れるだけの間のある友人関係は、進展を望む徹と望まない仁美が二人の親によって引き合わされた運命だったのだろう。

「で、徹ちゃん。そろそろ、あたしに言いたくてたまらないことがあるんじゃないのかな?」

「んぁ……。……おめでとさん。お婆ちゃんまでまた一歩近付いたな。つうことで、プレゼントはこの間の快気祝いで終わりに――」

「徹ちゃん」

「何だよ? ぶるぶる震えて、まさか具合がっ――」

「あたしを苛めて、そんなに楽しい? わざと言い澱んだ気もしたんだけど」

「仁美様、失礼致しました!」

「約束……」

「明後日、一緒に買いませう。で、一緒に髪束ねるわしゃくしゃしたヤツでも」

「徹ちゃん。それとこれは約束が違うんだよ。明日はあたしへの贈り物を買いに、明後日は徹ちゃんと……ううん、香純(かすみ)さんを安心させてあげるんだよ。大体、どうしてシュシュ?」

 わざとらしい涙を目元に(たた)えて、鼻を(すす)る仁美に、徹は祝いの言葉を告げる時から身に纏っていた白旗を大きくはためかせた。ただ、それでも負けを素直に認めないのが徹だ。

「そりゃあ、シングルテールに憧れるから」

「え? あ、あたしには似合わないよ」

「何、赤くなってんだよ、仁美? そもそもその髪の長さじゃ、テールにならないだろう」

「むぅ。じゃあ、何でプレゼントに贈ろうなんて」

「俺のセンスを磨く為だな」

「徹ちゃん」

「何だよ? ぶるぶる震えて、まさか――」

「ん、もぅ……。繰り返してるじゃない。いいよ、あたしに似合うシュシュを選んでね。但し、プレゼントは別によろしくね」

「え……」

 年末を迎えて出費が(かさ)む中、自らの言葉が招く悲惨な財布事情に、徹は気が付いた。

「ひ、仁美さん。束ねるヤツは髪がもっと伸びた時に改めてでもよろしいでしょうか?」

「男の子に二言はないって聞いたけど……。まっ、しょうがないか。徹ちゃんだもんね」

 そんなこんなの会話を二人は日々重ねる。つまらないことで約束を繰り返し徹と結んでは、なんやかんやで仁美に約束を叶えていく日常がまた過ぎていく。

 徹はこんな日常がこれから先も続くのだと、何の根拠もなく信じていた。




   12月24日、日記冒頭


 ――今日はこの間の約束を。

 ――昨日はずっと前の約束を。

 ――明日は二人で聖誕祭を。



   第三節 つめたいもの、温かいもの


「というわけで――、元気ですか?」

 スパンッと良い音をたてて、衾が開け放たれた先には、音にびくり布団から身体を起こしたところの仁美が現れた。

「何ナニ、何事――って、徹ちゃん? あれ、どうして?」

「それは仁枝さんが『あらあら、まあまあ、さあさあ、どうぞ』とまあ、お約束?」

「レディーが寝てるっていうのに、お母さんは」

 仁美は自分の母親の調子の良さを思い出して、こめかみを押さえる。

「俺にしてみれば役得ってもんだ。いいじゃん、減るものでもないし」

(けが)れたわ!」

「おいおい、ひどい言いようだな。役得とかフォローしてみたけど、正直なところ髪はぼさぼさ、寝間着はよれよれのパジャマ。まさかとは思うが、ドテラは標準装備じゃないだろうな? レディーとはよく言ったもんだな」

「うるさいな、もう」

 頭を掻く仁美の寝起きから、低血圧であることが容易に想像できる。

「あたしは行かないからね」

「そうそう、その事で伝えることがあって来たんだ」

「……何よ」

「あれから仁美に言われたことを考えたんだ。そして、気が付いた。大切なものだから、見られたらいけないんだな」

 徹は窓の外に目を向けた。

「一人で探せるの?」

「その方が渡されて、断れないだろ。……おいおい、何でそう憐れそうに見るんだよ。大丈夫だって。約束には間に合ってみせるから」

 遠く、窓向こうに視線を合わせる徹に、仁美の態度は軟化していた。

「ただ、徹ちゃんに呆れてるだけだよ。でも一言だけ。徹は女の子に夢見過ぎだと思う。女の子はリアリストだから、要らないものにはバッサリだよ」

「それは仁美にも当てはまったり?」

「あたしは……分かんない、かな。貰った縫いぐるみとか、だけじゃないけど、いつも手に届くところにあってほしいから。うん、一途なんだと思う」

「確かに仁美は頑固だよな」

「フンッ。言って置くけど、相手を間違えないでよ。徹ちゃんも分かっているみたいだし、あたしは今日はのんびりと部屋で過ごすんだからね!」

「つまり、商店街の頑張りを真っ向から否定するということか?」

「か、関係ないでしょ、徹ちゃんには」

 ふむ、と頷くと徹は「まったくな」と笑う。

「けどな、そこは怒るところじゃないか」

「怒ってるじゃない」

「そうじゃない。頼んでおいて、反古(ほご)にする俺に怒るところであって、人の予定を狂わせたことに怒るところだろ?」

 徹は仁美の諦めの良さに、そう言った。仁美は強いと思っているから、一層気持ちも入り、理不尽な言葉に聞こえたかも知れない。

「……な、何よ。勝手ばかり言って」

 そして、今度は何も言わないのだ。反応があることを信じているから。

「ひ、人を誘っといて、連絡もしないで。全面的に自分が悪いって決め付けて……」

 仁美は言いながら頭を垂れ、それ以上先を伝えなかった。弱々しく、徹にも届かない言葉で呟きはしたが、それは誰かに聞き届けられたのだろうか。


「……わりぃ。でも、休日祝日に関係無く寝るなんて、仁美らしいよな」

 自分でもその言葉をきっかけにどんな切り返しになるか分かっていても、徹は沈黙が続くことを嫌がり、心にもないことを言う。

「うるさいな」

 しかし、いつもなら間髪入れずに「それは徹ちゃんが」と言い返す仁美も、一息置いてから語気に気を付けながら答えた。

 徹は手応えを感じて、手のひらを返した。

「俺、バカだからさ。さっきの言葉は撤回するわ。やっぱし買い物には付き合ってくれ」

「でも……」

 仁美は徹から断られた、その理由に納得していた。だから、その返事には躊躇した。

 だが、徹は改めて手を差し伸べる。

「確かに、俺と仁美は幼馴染みなだけだ。でも、だから頼めるんだ」

「…………」

「一緒に来てくれ。その代わり、買い物には口をはさませないけどな」

「じゃあ、何の為よ?」

「強いて言うなら、つまらないから」

 徹は今一度、窓の外に目を向ける。そして、一人でその彼女へ上げる大切なものを探すことを「つまらない」と言いきった。

「そ、そりゃ徹ちゃんはいいでしょうね。でも相手はどうなるの?」

 仁美は徹の袖を引っ張って、自分の方に徹を向かせた。

「ただ付いて行くだけにしろ、それを目にした彼女はどうなるの?」

 プレゼントの贈り先である彼女の側にたって考えたらしく、仁美は続ける。

「徹ちゃんの言う女の子がどんな人か知らないよ。でも、あたしなら嫌だよ」

「でも、プレゼントはいつも一緒に買ってたじゃないか」

 徹は、バカだから違いが分からないと言い加えた。

「あれは、徹ちゃんにセンスがなかったから、あたしへのプレゼントになりそうなものを教えてあげてたの。でも、今日はそうじゃないんでしょ?」

「ああ。お前へのプレゼントじゃない」

 目の前の仁美以外に、プレゼントを買った覚えのない徹は、ただ俯いて応えた。

「一人で考えてよ」

「問題ないから、来てくれよ」

「どういう意味よ?」

 徹の答えがいまいち分からず、仁美は訊くも、望んだ説明は返ってこなかった。

「彼女は強いから大丈夫だよ」

「大丈夫なんかじゃないよ! きっと誰も見てない所で泣いてる」

「そうだったかもしれない。でも……、来てくれ!」

 一向に理解を示してもらえない仁美に、ついに徹は語気を荒げた。

「う、うん」

 突然怒鳴られ、仁美は瞬くと共に頷いてしまった。

「じゃあ外で待ってるから早くな。いつまでも寝間着だと風邪引くし。着替えまでは覗かないから、なるべく速くな」

「え、あ? ちょっとぉ、いつまで女の子の……って、居ないじゃない!」

 徹の言葉を受けるまで、仁美はその格好に何も思わなかったらしい。

 徹は用件を済ますと、捨て台詞を掛けて、さっさと背を向けて仁美の部屋を後にしていた。

「ころころと考えを変えるんじゃないわよ、バカ」

 仁美の、毒づくも心なしか口元を綻ばせているような声音を壁越しに、徹は静かに階段を下る。

 そして、昨日とそう変わらない服装で現れる仁美を待つだけと外に立つ。

 仁美いわく、一応外を歩ける程度の格好である――らしいことを思い出す。


 見るものに寒さを覚えさせる白い息を吐き、徹は冷え切った塀に寄りかかっていた。

 そこへ仁美が姿を見せる。やはり昨日と大して差のない色褪せたジーンズに、上はジャンパーを羽織っている。首回りはマフラーを巻き付け、腰辺りにはサイズが大きいのか白いトレーナーの裾が見える。加えて手には毛の玉の付いたニット帽を用意していた。

「お待たせ~」

 その言葉には、先程の遣り取りに垣間見せた頑なさは鳴りを潜め、お楽しみを待つ女の子のような明るさを覗かせていた。

 徹は紫色に変わりつつある唇を開いた。

(おせ)ぇ」

「お、女の子は支度に準備がかかるのよ」

「昨日とほとんど同じ服装に一時間もかけんなよな。雪でも降りそうな天気でマジ寒いんだからな」

「そんな徹ちゃんに優しい仁美さんからプレゼントです。はい、手袋。貸したげる」

 両手に息を吹きかけていた徹に、仁美は帽子の中から紺色の手袋を差し出した。

「お父さんの部屋にお古があったから使っていいよ。何でか机の上にあったの」

 仁美は徹が黙って手袋を取ったのが何故か面白く、くすりと笑った。

「何が面白いか!」

「全部。強いて言えば、徹ちゃんの顔が面白かったかな」

「面白くて当然だ! これは俺の手袋だ。イニシャルもここに……『T・W』と」

 徹はムッとしつつ、手袋の裏地を見せる。

「あれ~、何で徹ちゃんのが?」

 理由は徹こそ聞きたいだろうが、徹はさっさと手袋を着け、「行くぞ」と仁美の手首を取って引っ張った。

「待ってよ、帽子がまだ……」

 帽子を(かぶ)ってから、徹の引っ張るままにさせて数分。行き先を知らないことに気が付いた仁美は、徹の手を振り払って(たず)ねた。

「どこに行くの?」

「どこに行きたい?」

 今さらそれなの、と仁美は肩を落とす。

「方面は良いと思うんだよ」

「方面って、じゃあ、どこに向かっていたのよ。先にあたしが訊いたんだから、きびきび答えてよ」

 しかし、徹は頭を掻いて苦笑した。

「本当に決めてなかったり。こんなこと初めてだから。なあ、どこに行ったらいいと思う? 少なくとも、プレゼントって、ショーウィンドウに並んでいる物ばかりじゃないだろ?」

「まあ徹ちゃんにしては、良い着眼点かも」

「そうだろう?」

 プレゼントが商品を指す言葉でないことに気が付いたのは、本当に初めてのことだった。歳の差が毎年開いていく中で、年頃の女の子から少し距離が生まれて、贈られて喜ばれるものこそがプレゼントなのだと理解したのだ。

「この方角ということは……じゃあ、公園だね」

 指定の公園は、徹と仁美が通うことを志望していた大学に隣接する比較的広い公園。そこには仁美が贔屓にしていた自動販売機が設置されている。

「よし、分かった」

「あたしを休日にわざわざ外出させたんだから、飲み物くらい奢りなさいよ」

「仁美の、土気色の、いやいや緑色の青春の一コマを預かった身としては、その青春に色を添えますとも」

「何よ、その青春に似つかわしい色は?」

 土気色もとい濃緑色に添えて綺麗な色……果たして何色か。

「買ってくるぞ。何が飲みたい?」

 ちょくちょく買っていただけに、徹も仁美も何が並んでいるか、把握している。

「冷たいものなら何でもいい」

 仁美の漠然とした回答も、徹には「キンキンだな。了解だ」と応じて買いに行く。

「何でも、か。相変わらずだな、暑いなら減らせばいいのに」

 チラリと仁美の顔を見て、呟く。

 毎回同じ物を買う仁美は、友人から『はっち』の愛称で慕われているが、徹はそう思うのだ。

「……大切なもの、か」

 徹の心を空に映し出したように晴れない雲模様に、徹はため息を漏らした。


「ホラよ」

「キャッ!」

 仁美の後ろに回って、徹は頬に缶を当てた。デフォルメの施された蜜蜂がレモンを運んでいる絵がプリントされている。

「いっつもやってたのに、本当にダメなんだな」

「こんなの慣れるはずないじゃない!」

 仁美は怒って乱暴に缶を奪い取る。

「なら、いつも自分で買えよな。品を変えないからって頼むなよ」

「嫌よ。動くと暑いから」

「お、おい……」

「何よ」

「もういい。で、次はどこ行く?」

「あたしが全部決めるの?」

「ああ、決めてくれ。次はどこに行きたい? 約束は日没だからな、まだまだ大丈夫だぞ」

 日没までは、あと八時間はある。

「あたしを八時間も連れ回す――ううん、あたしが連れ回すの、八時間も? 長過ぎだよ、徹ちゃん。あたしの思いつく場所なんかぁぁぁぁ、少ないから……」

 徹は仁美の方に、じと目を向ける。

「俺は、行きたい場所を訊いたはずだけど?」

「あ、うん。そ、それはね」

「な~んてな。仁美が思いつく場所なんだろ、きっと意味はあるんだよ。八時間だって、悩む時間も考慮しているんだ」

「徹ちゃん、それどういうこと?」

 仁美には、自分の希望通りの場所に行くことで、大切なものが手にはいるか経緯がまったく分からないと首を傾げる。

「気にするなよ。おかげで仁美に飲み物を奢ってあげられたから」

「嬉しいの? 奢らされたのに?」

 仁美は徹を不思議なものを見つけたかのように、目を見張った。

「そんなに珍しいかよ」

 徹に言われても、仁美はうんうんと頷く。間を置いてから慌てて視線をそらした。僅かな時間だったが、徹は長く感じたようだ。

「カエルになった気分だったぞ」

「ガマの油?」

 徹がその通りと鼻息を荒くする一方で、「けろけろ。徹ガマけろ」とか何やらおどけて笑う仁美の姿。

「さて。で、次はどうする、仁美?」

「…………」

 仁美は目を落として考えるが、この時間にもう一人絡んでいることを思い出して、答える代わりに問う。

「あたしの行きたいところに連れて行ってくれるのは、この後にあたしをどこかに連れて行くつもりだからかな?」

 仁美は訊くが、返事は無かった。仕方なく、嘆息してから言った。

「……学校、屋上に行きたい、かな」

「高校、だよな」

「うん。それでね、景色を見るの」

「今日から冬休みに入ってると思ったんだけど、入れると思うか?」

 徹は今日という日を思い出して、仁美に尋ねる。

「そう言われてみれば。じゃあ、校門か柵を越えて行こうよ、徹ちゃん?」

「あれ、仁美さん。何か怒ってるのかな?」

「それはねぇ」

「いや、それ以上は言わなくていい。壁は高いけど、駄目もとで行ってみるか」

「じゃあ、バスで行こうよ」

「いつもそうだったからな。分かったよ」

 仁美に行き先を任せたのだから、それに従うまでと、徹は了承した。

 今、徹のいる場所からバス停までは大した距離ではなかった。時間だって、四年間世話になった経験から急ぐ理由はなかった。

 だから、少しばかり先のバス停に目を遣り、そのまま目を剥き、駆け出した。

「徹ちゃん。今日は祝日ダイヤだよ?」

 仁美に呆れられながら、徹はどうにか間に合ったが、運転手の好意による部分が大きいことも疑う余地はなかった。

「乗り賃は貸しな」

「明日は大雪かな」

「このどんよりとした雲を見て、その予測は普通じゃないか?」

 二人分の運賃を投入し、隣りの仁美に話し掛ける。

 表示された投入運賃を見て運転士は何かを言っていたが、徹は仁美との会話に一所懸命になって「いいですから」と適当に応えた。

 この時期に登校する奇特な者などいないかと思えば、スポーツバックを背負うジャージ姿の学生が数人いた。

 徹は「あー……」と視線を惑わせ、振り払うかのように左右に顔を振った。

「徹ちゃん。どうしたの?」

「俺は危なくない。危なくないんだ」

「何のことか分からないけど、その言葉がスッゴく危ないよね」


 結果から言うと、徹は屋上には行けなかった。校門は開いていたが、グラウンドを一部学生に利用させていただけで校舎内へ繋がる扉、手の届く窓は全て施錠されていた為だ。

 バスに揺すられること、数十分間――高校までやって来た徹は手の届く範囲の確認を成果のないまま終わらせた。

 仁美はいつの間にか離されていた手を胸の辺りで組み、かすかに震える手を押さえていた。

「……ごめんな、仁美」

 徹はあえてその様子には触れなかった。代わりに、仁美には届かないほど小さな声で呟いた。

 小学生の頃に病気を患った仁美に自分が思わず口にしてしまった汚い言葉と、手を払い除けてしまった行動に、そして自分のわがままに振り回され続ける仁美に、加えて仁美たっての願いの一つも叶えられないことに、徹は背を向けて唇を噛んで謝った。

 その間に、仁美の髪の毛がわずかに長くなる。マフラーに掛かるか掛からないかの長さから、覆う程になっていた。

 この時が来ることを学んでいた徹は、これより先、如何なる恥も甘んじて受けなければいけない分水嶺に、またやって来ていた。

「やっぱり駄目だったか。ごめんね。じゃあ、まだ早いけど、次はお墓に行こうよ」

 駆け出そうとした仁美の裾を、また掴み損ねることのないように、慎重でありながら大胆に、徹はようやく取った。

「いや、先に女の子のところに行くから、お墓はいつもの時間に」

「じゃあ時間まであたしはどこに居れば良いかな?」

「俺と一緒に来てほしい」

「ちょっとぉ。待って。待ってよ。あたしと徹ちゃんはただの幼馴染みじゃない。何で、あたしが着いていかなきゃいけないのよ」

「仁美にも、聞いてほしいからだよ」

 徹は白い息で頬の赤みを隠そうとする。

「なによ、徹ちゃんは自分の気持ちも一人じゃ伝えられないの?」

「そんなにお子ちゃまなの?」と追い討ちを掛けるように下から徹を覗き込んだ。

 対して、徹はそっぽを向いても、震える声で、途切れ途切れでも黙らずに答えた。

「恐、いよ。だって、俺の、せいで。俺は、だって。いつも……に、逃げてたから」

 徹は言葉にならない多くの気持ちを熱い吐息として漏らした。その全ては自身の鼻を、目元を湿らせる。その後も口ぱくは続いたが、そんな徹の姿を知らない仁美は、その様子に何もなかった。

「――だから。仁美、次は病院に行かないと」

「病院に? どうして?」

「覚えてるだろ、仁枝さんの入院した病院だから」

「え? お母さんは……そうだよ! あたし、過労で倒れて入院したお母さんにお遣い頼まれてたんだよ。着替え取りに――って。徹ちゃん、ごめん。先行くね。お墓はその後に一緒に行くから」

「ありがとうな。俺も後から行くよ」

「ううん。だって、あたしも約束したから。ちゃんと守りたいの」

 徹の言葉を受けて、仁美は急に取り乱した。どうして、こんな取り返しの付かないことを忘れていたのだろうか、と。

 そして、「約束は守りたい」と告げて、手にしていた着替えを入れた鞄をいつの間にか抱えて曲がり角の向こうに消えるのを、徹は見送った。その後で、電柱に寄り掛かり、空を仰ぐ。

 相変わらず、かなりの厚みのありそうな灰色の雲が立ち込めている。夜は雪か、さもなければ冷たい雨かという空模様だ。

「謝ってばっかりだな、俺たち。でも、俺よりはずっとマシなんだよな、仁美は。大体が、俺が誤ってばかりいたせいなんだから」

 徹にとって、クリスマス・イヴは楽しみに待つ日ではなかった。

「仁枝さんと居た方が良かったんだ、家族なんだから」

 家族が一緒に過ごせるのならば、幼馴染みの仁美を巻き込むのはおかしい。仁枝の元に居候し、留守にして長い弘光の部屋を借りる徹も、家族の一人として数えられていることを知っていても――。

 徹は首を振る。

「やっぱり恐いんだ。でも、駄目なんだよ。それじゃぁ、駄目なんだよ。俺は。もう目を覚さないと」


 昨晩とは違う仁美の様子を、見る以上に感じた徹は、一足早く墓前にやって来ていた。

 そして、『渡辺家之墓』と彫られた石に、徹は手を合わせて話し掛ける。

「母さん。毎年毎年みっともない姿を見せてごめん。でも、今年は安心してよ」

「信じられるものですか」――そう母親に言われている気がして、徹は十数年前に亡くなった香純のことを思い出していた。

 髪をゴムバンドで纏めては、後ろに流していた香純は、重い病気にあっても接触や空気では感染しないことを盾に、徹に毅然(きぜん)とした母親の姿を見せていた。

「母さんには甘えていたのに、同じ病気を患った仁美の手を払い除けた時の母さんは本当に怖かった……」

 徹は、香純から頭に拳骨を落とされた箇所を触れる。

「今もことあるごと、というか名前を語気荒く呼ばれると夢現に関係なく、押さえちゃうんだ」

「それは、あなたがバカだからよ? もう分かっているんでしょう?」

 徹は、香純の言葉を幻聴し、苦笑する。

「だから、そろそろ行くよ。たまには来てくれると楽なんだけど」

「お母さんにはこの石をどける力なんて無いんだよ。呼吸する筋力も無かったんだから、あなたが来なさい。手を繋いでもらってね」

「またまた。本当に痛かったんだぞ、拳骨」

「骨張ってはいたかもね。でも仕方なかったの、そういう病気だし、あなたが悪いんだし」

「じゃあ、また後で」

 良いように会話を交わし、気持ちを(やわ)らげた徹は、仁美の後を追うように病院に向かって駆け出した。上着ポケットから取り出したワシャクシャとした髪留めを右手に握り込んで。


「徹ちゃん。あたしの離れていた間に何かあったのかな?」

 疾うに病室に着いて、仁枝を見つけていても良い頃合いだというのに、病院の玄関近くの横断歩道で、仁美は足を止めていた。

 徹を見つけて駆け寄った仁美は強張(こわば)る顔から一変して、徹の良く知る表情になった。

「ああ、何年前だったかな。女の子が車のサイドミラーに引っ掛けられたんだ」

「そんなのあたし、知らないよ? 何で病院に近付こうともしなかった徹ちゃんが知ってるの?」

「仁枝さんが教えてくれたんだよ」

「でも……。お母さんはどうして知ってたんだろう?」

「病室が同じだったらしい」

「そっか、それなら――って。そんな話、徹ちゃんにしなくてもいいのに」

 何でだろうと、なお徹に理由を問おうとするのを、徹は仁美の左手首を掴んで、病室に向かった。


「仁枝さん」

「あら、珍しいわね、徹君」

「お母さん? ベッドにいなくて良いの?」

 扉脇のプレートに『岡本様』とある部屋にノックして入ると、ちょうど仁枝が花を差し替えているところだった。

 仁美はそんな仁枝の様子に驚き、近付き、ベッドに視線を向けて、息を飲み込んだ。

「徹君は、確か二度目よね。私の退院後は初めて」

「はい。いつもは、約束に翻弄されていたから」

「今年は良いの?」

「いえ、ここに来て、伝えることが一番大切なことだと分かったんです。繰り返して、ようやくだけど」

「それはごめんなさいね。あら?」

 仁枝は、徹の右手に暖かみのあるチェック柄のそれを見つける。

「その手にあるのは、シュシュかしら?」

「髪が伸びた時に買うって、約束していたんです。俺のセンス、どうかな?」

「そうなの。その色なら、あの子にも合うと思うわ」

「良かった。ここにきて、仁枝さんに駄目出しされたら、どうしようかと思ったんだけど」

「杞憂よ。徹君はずっと磨いてきたんだから、色は問題ないわよ」

 仁枝の評価に、徹は安堵した。

「でも、本当にあなたたちは約束ばかりね」

「それを言うなら、『私たち』じゃない?」

「――そうね。約束を結んでいれば、弘光さんは(そば)にいないといけないからね」

「俺もそれは思ってました。でも、(むな)しくなって……」

「徹ちゃん。あたし、ここに……」

 ベッドの向かい側で、仁美は透けていた。ニット帽、ジャンパー、マフラー、手袋が見えなくなっていた。

「さっきの運ばれた女の子って……」

「仁枝さん。話し掛けても大丈夫かな」

「あの子も喜ぶと思うわ」

「いや、たぶん驚かれるかも」

「それならそれで良いじゃない」

「ですね」

 徹は仁枝にことわり、ベッドに寄った。膝を折り、急に回らなくなる口に、ひと呼吸置いて、話し出す。

「ずっと、ごめんな。仁枝さんが倒れて大変な時期だったのに、自分のことしか考えられなかった。整理の付かないまま、俺の気持ちを積んじまって、今までのような日常に逃げたかったんじゃないか?」

「分かったよ、徹ちゃん。そっか。事故に遭ったのは、あたしなんだ……」

「約束をしたんだ、仁枝さんと。入院中はなるべく二人でいたいって。家族だもんな。当然だと思って、俺頷いたんだけど、いつも近くにいた仁美がこのまま戻って来ないんじゃないか、って恐かったんだ」

「そっか」と、一段と透けた仁美が(こた)える。

「それで、話せるうちと早まったことを。俺――」

「今もそう思ってる?」

 仁美の言葉に応じるように間を置いて、徹は続けた。

「仁美。俺な、やっぱりお前のことが好きなんだわ。仁枝さんも元気になったから、じっくり考えてくれよ。もう、人の目を気にして気持ちを誤魔化すのは止めるから」

「お母さんね。三年が経った辺りで心棒(しんぼう)が折れそうになったの。お父さんも戻ってこない上に、あなたもでしょう? でも、それを伝えたら徹君が言ったのよ」

 仁枝の言葉を継ぐように、徹が直ぐに震える口を開く。

「『仁美なら、俺のそばで笑っている。事故に遭ったことなんか知らないと、毎年プレゼントをねだりに来るんだ』」

「って。お母さんね。それを聞いて、バカらしくなっちゃったわ。カエルの子はカエルって、言葉の通りで。だから、仁美。あなたも私の子らしく、約束は守りなさい。で、徹君は、もっと気持ちに自信を持ちなさい。そもそもお寝坊のこの子がいけないんだから」

 仁枝の涙混じりの言葉の終わりを待って、さらに徹がしっかりとした言葉で継ぐ。

「だからさ、そろそろ起きろよ。母さんとの約束を守らせてくれよ」

「いつも四人で囲んだパーティーで、香純さんに向かって見せていた、恒例の『お手手つなぎ』のことかしら? 二人してはにかむ姿が微笑ましかったのよね」

 徹は仁枝の確認に、目を覚まさない仁美から視線を外さずに頷いた。

「香純さんの性格からすると、背中を押したのかな。きっかけ作りだったのかも知れないわ。だから、わざわざお墓まで見せることはないと思うわ。でもね、仁美。徹君は私との約束も守ってくれたんだからね。あなたが約束を守らないなんて、お母さん許さないんだから」


 その晩が如何に聖夜であろうと、徹や仁枝の言葉を受けて仁美が涙を流すことも、目蓋(まぶた)を開くような奇跡は起きることはなかった。

 ただ、脳波計を刻む針の動きが前日までよりも単純かつ規則正しくなっていたことに、翌朝になってから巡回の医師が気が付いた。

 仁枝に代わり、一晩を隣りで過ごした徹は、それがどういうことか分からなかったが、良いことなのだろうと漠然と受け止めた。

 そして、それが気のせいなどではないことに気が付くや、(はや)る気持ちを押さえ込んで、神妙な面持ちで医師の退室を心待ちにした。

 静かに繰り返されていた呼吸に、小さく「ん」と音が(こぼ)れたのを徹の耳朶(じだ)が触れた。徹は仁美の口元をじっと見つめて、そのシュシュの飾られた右側に、仁美の立ち姿を再び見た。

「もう。やっと気が付いたんだ、徹ちゃん」

「え、仁美?」

 昨日まで一緒だった仁美とは、その装いは全く違っていた。とくに、シュシュを着けているところなど。

 しかし、首肯する仁美に、徹はその理解を超えて「何で? あれ? だって」と(こわ)れかけていた。

「ふふ。徹ちゃんのバカは安心するなぁ。体が硬いの。寝過ぎだよね、きっと」

「だ、だからって誰かに見られたら」

「大丈夫だよ。あたしは事故に遭ったの。徹ちゃんだけがそれを知らないで、あたしを見つけてくれた」

「そ、それは仁枝さんが教えてくれなかったからで――」

「うん。だから、あたしは徹ちゃんにしか見つからないよ」

「そう、だな」

「でね、お母さんはああ言ったけど、やっぱり香純さんに見せに行こう? いっぱい大切な服で厚着してさ。一日遅れちゃうけど、許してくれるよね?」

 仁枝にベッドで眠る仁美の左手を繋がされた徹は、この一連の驚きにも(ほど)くことなく、ただ握る力を込めた。

「……美ぃには母さん、優しかったからな」

「うん。温かい……徹ちゃんの手だね」

 恥ずかしがりながらも、喜色満面に破顔した徹は、ナースコールをしようと立ち上がろうとした。

 しかし、仁美が僅かに左手を引き、待ったを掛けた。

「何で? 皆に知らせないと」

 医師の退室を待ったことを棚に上げて正論を告げる。

「頭の中がスッキリしているの。本当に、安心してるんだと思う。バカとかが理由じゃないよ」

「仁美?」

「あたしね。徹ちゃんと手を繋ぐの、嫌じゃないよ。でも、恥ずかしがりだったから、女の子と手を繋いでばかりいるの、嫌なのかな、って。その上、病気にもなっちゃったから」

 突然訥々(とつとつ)と打ち明け始める仁美に、徹は姿勢を正すとその他一切のことはまとめて棚に陳列させた。

「だから、香純さんから『徹とお手手繋いでやって』なんて言われた時は、慌てちゃった」

「いや、あれは俺が悪かったから」

「ううん。違うの」

 果たして、クリスマス――その昼に仁枝がやって来るまで、徹は仁美の病室で過ごし、その後は大目玉を喰らった。

 一旦徹に席を外させ、仁美を抱きしめながら、駄目な母親だと泣いて謝った。

「バカ。あなたがいつまでも起きないから、お母さん諦めちゃいそうだった。でも徹君が待って欲しいって。進学もやめて、バイトで治療費の一部と約束をずっと……」

「……ん」

「仁美のバカァ……」

 その後、医師と看護士が仁美の状態を検査に遁走し、慌しい時間は数日に渡って続いたものの、瞬く間に過ぎていった。


「ごめんね、徹。……結局、一日どころじゃなかったね。それに着膨れることも、約束守れなかった」

 病院に来た徹に、開口一番に仁美は謝り、仁枝は(たしな)めた。

「徹君。服はね、色を変えれば良いってものでもないの。成人している娘に、ジャンパーはセンスがなさ過ぎ。色はすっごく良いのよ。だから、もっと精進なさい」

 仁美の服装は、肌着はともかく、上はタートルネックの服に、ファーの付いたダウンジャケット、下は綿パンに、ムートンブーツという珍しく薄めのもので、一つ一つの細かな名称を知らない徹が思ったことは、とにかく軽そうだな、であった。

「仁枝さんにも言われたけど、墓の前に行かないと駄目なんて、母さんは言ってないし。そもそも出来ない約束はしないんだろ? この間のは、母さんなら許してくれるだろうって、俺は同意しただけだよ」

「そうだよ。でも、徹は覚えていないんでしょう? 違うの」

 何日遅れようとも、歩き出さないことには進まない。徹はぶっきらぼうに右手を差し出すが、手袋を取って差し出した仁美の手もまた同じだった。自身の右手をポケットに収め、真っ赤に顔を染め上げて歩き出す。

「クリスマスとは誰も言ってなかったと思うけど、お墓まで手を繋いで行くのはね、徹ちゃんとの約束なんだよ。だから、あたしは必ず守りたいんだよ」

「そんな約束……いつ?」

 初めて聞くことだと、徹は――サイドにまとめた髪にシュシュが映えている――仁美を見て、頭を右斜め上に捻った。

「本当に覚えてないんだ、徹。香純さんが亡くなった年のことだよ。『付き合って』って、あたしに言ったんだよ。ドキッとしたのに」

「お、おい。それは、告白とかじゃなくて」

「分かってる。でも、寒いから『手を繋いで行こう』とか、あたしに向かって『近くに居て』って。覚えてない?」

「それは……言ったかも知れない」

 徹は仁美に()かれて、当時の心うちを思い出す。

「母さんと同じ病気で、あの頃はまだ手術のずっと前だったから、恐かったんだ。だから」

「うん。あたしも徹と一緒にいたかった。あたしに何かあっても、大丈夫なように」

「じゃあ……」

「あたしの気持ちがいつでも届くように。それは、病気で弱っていたからじゃない。あたしも大好きだよ、徹ちゃん」


 徹は母親の墓前に立つ。隣りには長く伸びた髪をシュシュで纏めた仁美を連れ、繋ぎ合った手底(たなそこ)の温もりを互いの心と共に、通い合わせる。

 掌中(しょうちゅう)の珠を確かに見出だし、二人はこの春を迎えた。


お読み頂き、ありがとうございました。


活動報告にて、作者の苦労云々を色々と書いています。



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