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第3話 命の等価交換

第3話です。


これまでは「自分の何か」を差し出すだけでした。 ですが、システムは次のフェーズへと進化します。


――世界を書き換えるための燃料は、生身の人間。


倫理が崩壊し、日常が「選別」へと変わる瞬間を描きます。




 その日の朝、世界は決定的に「色」を変えていた。

 

 空はどんよりと濁り、街を流れる空気は重く湿っている。どこか鉄錆のような、あるいは乾いた血のような臭いが鼻腔にこびりついて離れない。昨日までスマホの画面を見て一喜一憂し、この「権利」を宝くじの当選発表か何かのように楽しんでいた人々の顔からは、例外なく余裕が消え去っていた。

 

 駅のホーム、満員電車、そして通学路。

 すれ違う全員が、言葉を交わす代わりに、互いの「首筋」を値踏みするように見つめている気がしてならない。

 

 昨夜、日付が変わった瞬間に更新された、あの戦慄のルール。

 それが、一晩でこの星の倫理を根底から塗り替えてしまったのだ。

『次回以降の書き換えには、生身の人間一名の供出が必要です』

 

 この通知を受け取ったのは、僕だけではない。世界中の全人類が、自分の「権利」を行使するために必要な「コスト」の正体を知ってしまった。

 世界を書き換えるための燃料は、もう記憶や感情といった抽象的なものじゃない。

 自分以外の、誰かの命。それそのものだ。

 

 僕は通学電車の吊り革を握り、指先が白くなるほど力を込めた。震えが止まらないのだ。

 向かい側に座っている中年のサラリーマンは、血走った目でスマホを凝視し、ぶつぶつと何かを呪文のように呟いている。隣に立つ女子高生は、震える指で誰かと執拗にメッセージをやり取りしていた。

 

 誰もが、脳内の天秤を揺らしている。

 

「あいつ一人死ねば、俺の借金はすべて消える」

「あの子さえいなくなれば、私は誰よりも愛されるはずなのに」

「この見知らぬ誰かを差し出せば、病気で死んだあの人が生き返るかもしれない」

 

 それは被害妄想ではなかった。現に、車窓から見える景色は、数秒おきに「不自然な変貌」を繰り返していた。

 

 さっきまでそこにあったはずの古い木造アパートが、瞬きをした間に豪奢な高層マンションに書き換わる。ガードレールに激突して大破していたはずの軽トラックが、次の瞬間には新車のような輝きを放つスポーツカーに化けている。

 

 その「奇跡」が起きるたびに。

 この世界のどこかで、誰かが一人、物理的な質量として消滅しているのだ。

 

 駅に着くと、改札前では獣のような怒号が響き渡っていた。

 

「離せ! 俺じゃない! 俺はボタンなんて押してない!」

 

 数人の男たちが、一人の若い男を地面に押し付け、その顔にスマホを突きつけていた。

 

「嘘をつけ! お前のスマホに使用履歴が出てるんだよ! お前が権利を使ったせいで、俺の娘が……今朝起きたら、娘が部屋から消えてたんだよ!」

 

 地面に擦りつけられた男の顔が、恐怖で土色に歪む。

 

「知らないんだ……俺はただ、寝たきりのお袋を治したかっただけだ! 誰が消えるかなんて、俺が選んだわけじゃない!」

 

 周囲の人々は、その光景を助けようとはしなかった。ただ、自分に火の粉が飛ばないように、冷めた、あるいは怯えた視線で距離を置いて通り過ぎていく。

 その視線には、被害者への同情など微塵もなかった。あるのは「自分もいつ、誰に選ばれるかわからない」という剥き出しの生存本能だけだ。

 

     *

 

 学校に着くと、そこはもはや学び舎の機能を失っていた。

 

 校門には昨日までなかった検問所のようなテントが張られ、教師たちが死んだ魚のような目で生徒のスマホを一台ずつチェックしている。

 

「――よし、次。使用履歴なし。入れ」

 

 誰かが権利を使えば、コミュニティの誰かが消える。それを防ぐための、あまりにも無力で、それでいて互いを監視し合う歪な自警団。昨日までは生徒のプライバシーを尊重していた教師たちが、今はなりふり構わず僕たちの「秘密」を暴こうとしている。

 

 自分の席に座ると、隣から重苦しい視線を感じた。

 結城颯太だ。

 

 昨日、僕が「最も古い記憶」という代償を払って救ったはずの、かつての親友。

 

「……よう。お前、大丈夫か?」

 

 結城が声をかけてくるが、僕は彼を直視できなかった。

 彼に関するプロフィールは、知識としては覚えている。でも、そこに「体温」が伴わない。彼と泥だらけになって笑い合ったはずの何千時間という記憶が、僕の脳からゴッソリと削ぎ落とされているせいだ。彼を見ても、ただの「記録上の知人」にしか思えない。

 

「ああ。……結城こそ、バイクは見つかったのか?」

 

 精一杯の言葉を投げかけると、結城は顔をしかめて首を振った。

 

「見つかるわけねえよ。それどころじゃない。……なあ、聞いたか? 隣のクラスの佐々木。あいつ、今朝来なかったんだ。親の話じゃ、部屋のドアを開けたら、服だけがベッドに残ってたらしい。人間一人、まるごと消えちまったんだよ。神隠しみたいにな」

 

 胃の奥に冷たい石を詰め込まれたような感覚がした。

 佐々木。確か、いつも賑やかで、不器用に笑う奴だった。

 

 彼を「供出」して、何を得た誰かが、この世界のどこかにいる。

 

「如月は……?」

 

 僕が窓際の席へ視線を向けると、彼女は昨日と同じように、ただ静かに校舎の外を眺めていた。その横顔は、神話の彫刻のように美しく、それでいて絶望的なまでに感情が欠落していた。

 

「……どうなってるんだよ、これ。みんな、一晩で狂い始めてる」

 

 僕が隣まで歩み寄り、声を殺して呟くと、如月は視線を動かさないまま、唇だけを僅かに動かした。

 

「予想より早かったわね。人間は、自分の利益のためなら他人の命に平気で値段をつけられる生き物だってこと。このシステムは、それを可視化しただけよ」

 

 彼女はスマホを机の上に滑らせた。画面には、昨日よりさらに跳ね上がった数字が表示されている。

 

『現在、書き換えられた事象:12,093,481件』

 

「この数字が増えるたびに、誰かが死んで、誰かの我儘が現実になっている。……でもね、君。本当の地獄は、これからよ」

 

「……これ以上、何があるって言うんだ。もう十分地獄だろう」

 

 如月は、初めて僕の方を見た。その瞳の奥に、一瞬だけ、消えかかった炎のような揺らぎが見えた。

 

「これまでは『一対一』の交換だった。でも、システムは学習しているわ。より巨大な願い……例えば『国家の再建』や『不治の病の根絶』。そういう膨大なリソースを必要とする書き換えには、一人の命じゃ足りなくなる」

 

 彼女の細い指が、僕の胸ポケットにあるスマホを指差した。

 

「次のフェーズは、『集団供出』よ」

 

 その不吉な予言が教室に響いたわけではないはずなのに。

 なぜか、教室中の空気がピタリと止まり、全員が息を呑む音が聞こえた気がした。

 

     *

 

 四時間目が終わる頃、全校放送が流れた。

 いつもなら昼休みの喧騒を告げるはずの爽やかなチャイムの代わりに、ノイズの混じった不快な機械音がスピーカーから溢れ出した。

 

『――全生徒に通知します。領域の競合が発生しました』

 

 生徒たちが一斉に自分のスマホを取り出す。僕の手の中でも、あの心臓を逆撫でするような嫌な振動が始まった。

 

――

【一斉決選投票】

現在、市内の「電力インフラの維持」と、当該学区の「全住民の健康維持」という二つの書き換え要求が競合しています。

これらを同時に成立させるためのリソースが不足しています。

不足分を補うため、本校の生徒・職員から計42名の供出が必要です。

――

 

 教室内を、氷のような静寂が支配した。

 

「……42名?」

 

 誰かの掠れた声。通知はまだ終わらない。画面の下には、禍々しい赤い文字で「ボタン」が出現していた。

 

――

【投票:誰を供出しますか?】

※制限時間:60分

※投票数が多い順に42名が選出されます。

※未投票の場合、ランダムで選出対象となります。

――

 

 それは、究極の民主主義を装った、史上最悪の殺し合いの合図だった。

 

 クラスメイトたちの目が、一変した。

 さっきまで一緒に弁当を食べようとしていた友達。昨日まで冗談を言い合っていた仲間。その全員が、自分が「生き残る」ために、隣の誰かを「殺す」ためのボタンを押さなければならない。

 

「……おい、これ。冗談だよな? なあ!」

 

 結城が僕の腕を掴んだ。その手は、かつてないほど激しく震えていた。

 

「冗談じゃないわ。……始まったのよ。自分たちのコミュニティの中で、誰を『不要』とするかの選別が」

 

 如月は淡々と自分のスマホをポケットにしまった。画面には、すでに「投票済み」の文字が冷たく浮かんでいた。

 

「……如月、お前。誰に入れたんだよ。まさか」

 

 結城の声が、怒りと恐怖で尖る。

 

「適当よ。出席番号順か、あるいは成績順か。……何にせよ、誰かが選ばれなきゃ、私たちが全員ランダムで消されるだけ。これ以上に合理的な判断があるかしら?」

 

「ふざけるな! 命を合理性で片付けるなよ!」

 

 結城の叫びを合図に、教室内で怒号と悲鳴が爆発した。

 

「おい、あいつ不登校でどうせ来ないんだから、あいつに入れようぜ!」

「うるせえ! 俺に入れるな! お前こそ、いつも授業をサボってただろ!」

「先生はどうなんだ! 大人から先に死ぬべきだろ!」

 

 醜い底意地が、剥き出しの言葉となって教室中に飛び交う。

 僕は、自分のスマホを見つめたまま立ち尽くした。画面には、クラスメイト全員の顔写真と名前がリストアップされている。その一人をタップして「確定」を押せば、その人の人生は今日ここで終わる。

 

「……ねえ、君」

 

 如月が僕の耳元で囁いた。その吐息は氷のように冷たく、それでいてどこか誘惑的な甘い香りがした。

 

「君は、誰を消す? それとも、自分を消してほしいと願う? ……あ、そういえば、君にはまだ『もう一つの選択肢』があったわね」

 

「もう一つの……?」

 

「この一斉投票そのものを、君の権利で『無効化』することよ。……代償に、君の『視覚』か『聴覚』。そのどちらかを今すぐ差し出せば、42人の命は救えるかもしれないわ」

 

 目の前が真っ暗になった。

 42人を救うために、自分の五感の半分を捨てるか。それとも、42人が消えていくのを、この目で見届けるか。

 

 制限時間のタイマーが、非情な速度でカウントダウンを刻む。残り、54分。

 教室の隅では、ついに掴み合いの喧嘩が始まった。親友だと信じていた者同士が、互いのスマホを奪い合い、無理やり相手を投票させようとしている。

 

 僕は、スマホを握りしめた。指が画面の上で彷徨い、震える。

 

 救いたい。でも、失いたくない。

 誰かを殺したくない。でも、自分が殺されるのはもっと嫌だ。

 

 ピコン。

 

 新しい通知が届いた。

 

――

※現在の得票数1位:【宮城香】(54票)

――

 

 頭の中で、何かが音を立てて千切れた。

 

 顔を上げると、さっきまで罵り合っていたクラスメイトたちが、一斉に、静かに、僕の方を見ていた。

 

 その瞳に宿っているのは、敵意ではない。

 ただの「安堵」だった。

 

 誰か一人の生贄が決まれば、自分たちは救われる。その生贄に、昨日、親友を救ったばかりの「お人好しの僕」が選ばれた。

 ただ、それだけのことだ。

 

「……選ばれたわね。世界に」

 

 如月の声が、やけに鮮明に聞こえた。

 

 僕はスマホを強く握り直した。画面の光が、網膜を刺す。

 

 僕らは、世界を選べない。

 そして世界もまた、僕らを「人間」としては選んでくれない。

 

 あと29日と、14時間。

 僕の手の中で、スマホが死神の鎌のように、冷たく、静かに光っていた。

(第3話:完)

最後までお読みいただきありがとうございます。


クラスメイト全員からの「54票」。 信じていた日常が、ただの数字とボタンによって裏切られる絶望。 自分が生き残るために隣の誰かを指名する……これが、この権利がもたらした「究極の民主主義」の姿です。


主人公はこの後、どう動くのか。


もし「この絶望感、たまらない」と思っていただけたら、ページ下部の【☆☆☆☆☆】をポチッと押して応援いただけると、執筆の燃料になります!


引き続き、第4話もお楽しみください

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