これは暗い話ではありません
「これは暗い話じゃありません」
女が言った。
グラスの水滴をなぞりながら、女は続ける。
「そんな話じゃないんです。暗いとか、明るいとか、そんな話じゃないんです」
細い指先が上下して、それを伝って水滴が流れて落ちていく。一口飲んでそのままにされているアイスコーヒーは、氷が溶けて、きっと美味くはないだろう。
昼時を過ぎた喫茶店の中はやけに静かで、奥にいる客がパソコンを叩く音が店内に響いている。課題なのか仕事なのかは分からないが、喫茶店で作業できるなんて気がしれない。
「あの、聞いてます?」
女が遠慮がちに顔を覗き込んでくる。
「はい、聞いてますよ」
当然でしょう、という顔で返してやると、女は納得したように(あるいは自分を納得させるように)頷いた。
「ですからね、その…あなたと交際することはできないんです」
濡れた指先はそのままに、拳を握りしめながら女は言う。予想通りの言葉に、俺はさも残念そうにため息をついてみせた。
「そうですか…」
「だって、そうでしょう…?こんなの…」
声を震わせながら俯く。ゆるくパーマのかかった長い髪が、肩からするりと流れた。その様子を、俺は自分自身の斜め後ろあたりから見ている気分でいる。さっきからやけに店の中が気になるのは、きっと目の前のこの女を見ていたくないからだ。
意識をしっかりさせようとカップを手に取ったものの、底の溝に茶褐色の液体が僅かに残っているだけだった。平気なふりをしてそれを呷る。一瞬口の中に苦味が広がった気がしたが、当然鼻から抜けるほどの香りは感じられない。
「それで…。…今まで、ありがとうございました」
一瞬顔を上げたあと、女はまた俯くように頭を下げた。
「楽しかったです、あなたとやり取りをしていて。…なんていうか、世界が綺麗に見えたんです。ああ、いや…元々綺麗だったのかもしれないですけど…。あなたの事を思うと、雨に濡れた古本屋の看板すら、本当に綺麗に見えたんです」
そう言って小さく微笑む姿に、女にとってはもう、自分とのやり取りは過去のことなのだと分かった。もうすでに、覚悟を決めてここに来ているのだ。それはずるいだろ、と叫びたい気持ちを抑え、静かに頷く。
「俺もですよ」
思っていたより淡白な口調になったが、女はさらに口角を上げて俺の目を見つめてきた。
「はい。そうだと思いました」
いたずらっぽく笑うその姿が、風になびくたんぽぽの綿毛のようだった。ふと、その綿毛が風に飛ばされていく様子が頭に浮かんできた。
ああ、だめだ。
頭の中にチープな警告音が鳴り響く。
この女は、…彼女は、もう飛ばされていく運命なんだ。俺がそれを掴めるはずがないのに。手を伸ばしても、きっと意味はないのに。
「あなたが…」
意味はないのに。
「…はい?」
「あなたがもし、」
聞き返してきた声に被せるように口を開く。
「もし医者の宣告通り、たった3年で死んでしまっても、きっと世界は何一つ変わらず回っていきます」
「…」
大きな瞳が俺を見つめたまま、パチパチと瞬きをした。気を悪くした様子はなく、ただ俺の言葉を待っている。
「なにも変わらないんだ。それで多分、俺の世界も、…俺の人生も、きっと何一つ変わらずに回っていくはずです」
「…はい」
様子を伺うように見つめ返すと、彼女は真剣な眼差しのまま頷いて、もう一度
「はい」
と相槌を打った。
大きく息を吸う。
「あなたが死んだ後、俺はなにも変わらずに生きていきます。きっとあなたの周りの人達もそうだ。最初はみんな悲しんだり、立ち直るのに時間がかかるかもしれない。でもきっといつか、なにもなかったように生きていくようになる。あなたがいない世界を当然のように生きていく」
口が乾いて、喉が鳴る。
「でも、俺はきっと、ふとした時に思い出します。雨上がりの日、濡れた古本屋の看板を見た時なんかにきっと、あなたを思い出す。それできっと、あなたに連絡したくなるんです」
スマートフォンに視線をやる。彼女も俺の視線を追ってくる。
「『雨が上がりましたね』なんてメッセージと共に、あの古びた看板の写真を送ろうとするんです。でもそこで、」
声が震えるのを抑え込む。
「そこで、あなたが死んだ事を思い出す」
彼女の口からふっと息が漏れ、涙がぽたりとテーブルに落ちた。口元を押さえている手が震えていて、もう片方の手、テーブルに置かれている右手を握ってみる。少し間を開けて、彼女が手を引っ込めようとした。でももう俺は決めた。そう、遅ればせながら覚悟を決めたのだ。
手を固く握り、離さない。
「あなたが死んだ事を思い出した俺は、あなたのお墓に行くんです」
彼女が首を振る。
「お墓に行った俺は、眠っているあなたに言います。『雨が上がりましたね』『俺もそのうち同じお墓に入るから、待っててください』って。そう言って、あなたが好きな花を供えます」
すすり泣く彼女と目は合わない。それでも、手の中の細い指先が、ほんの少し握り返してくるのを感じる。
「何年でも、何十年でも俺は同じ事をするでしょう。晴れの日は道に咲くたんぽぽを見てあなたを思い出し、雨の日は、湿気でうねったあなたの癖毛を思い出します。帽子をかぶって不機嫌そうなあなたの顔も」
ふふ、と彼女が微笑み、涙で濡れた瞳がこちらを向いた。文句を言う代わりに、手をぎゅっと握られる。
この綿毛はいつまでこうしていてくれるだろう。
ふとそんな事を考えたが、考えたって意味はない。今はただ、この手に彼女の手を握っている。その事実が大切なのだ。
これはきっと暗い話じゃない。




