『死者の道』
南米で伝承される民話『死者の道』。
いわば、南米版の『三途の川』『神曲』である。
風が吹いていた。
―― 否、それは風ではない。
死者の囁きが、風のふりをして、峡谷を抜けていたのである。
山の裂け目のようなその谷を、ひとりの魂が歩いていた。名を持たぬ、影を持たぬ、生を離れたばかりの者である。
「……わたしは、どこへ行くのだろう」
答える者はいない。
ただ、谷の奥からひゅうと長く、細い声が聞こえてきた。それは、かつて母が遠くで呼んだ声のようでもあり、夜の井戸の底から響く音のようでもあった。
峡谷の両脇には、女たちが立っている。
顔は見えぬ。髪が風に踊っている。
その声が、魂の耳をつかみ、立ち止まらせようとする。
「戻りなさい……あなたはまだ、生きていられる……」
「忘れてはなりません……あの人のことを……」
だが魂は立ち止まらない。
というより、立ち止まったつもりが、足が勝手に前へ進んでいる。
◇
谷を抜けると、そこに一匹の犬がいた。
黒い犬だった。
骨が浮き、肋が数えられそうな痩せ犬である。しかし、目が、異様であった。
―― 鏡、である。
犬の両の眼は、曇りなき銀の鏡のごとく、魂の全てを映していた。
そして、その犬が言った。
「おまえは、生きているとき、わたしの子を、石で殺した」
魂の足が、止まった。
記憶のなかで、一つの光景が甦る。
石ころを投げる幼い手。
泣き叫ぶ仔犬。笑う子供。
「……それは、わたし……だったか」
犬は、黙って道をふさいでいる。
その鏡の眼には、いまの魂の形が、しずかに映っている。
―― この者、許すべきか。
―― この者、渡すべきか。
犬が吠えた。
風が止み、峡谷の声も消えた。
魂は、深く頭を垂れた。
そして、犬の脇をすり抜け、次の道へと進んでいった。
それが、赦しだったのか、それとも忘却だったのか、誰にもわからぬ。
犬の姿が霧に溶けるように消えてゆくと、道は開け、音が聞こえた。
◇
ざあ、ざあ、と、耳の奥をなぞるような音。
水音である。
しかし、その音には重さがあった。
記憶のような、過去のような。
眼前に、九つの川が流れていた。
一本ごとに色が異なっていた。
紅の川、墨の川、青白き光を放つ川。
中には、銀の魚が空に向かって泳ぐ川もあった。
「これは……?」
声が漏れた。
すると、後ろから影のように、誰かが囁いた。
「九つの川は、九つの感情。おぬしが生において落とし、拾い、流したものの行方じゃ」
魂は、一の川の岸辺に立った。
それは怒りの川であった。
濁って赤黒く、川底には怒鳴り声が泡立っていた。
魂は、衣を脱ぐように、皮膚の記憶を剥ぎ取るようにして、川を渡った。渡りきると、少し身体が軽くなっていた。
次は、哀しみの川であった。
水面に、かつて見送った人々の顔が浮かんでは沈む。母、友、愛した者、殺した者 ―― どの顔も、微笑んでいたが、次の瞬間には水に溶けた。
三の川、嘘の川。
四の川、欲の川。
それぞれを渡るたびに、魂からなにかが剥がれていく。
七つ目の川にたどり着いたとき、魂は、もはや生前の自分の名を思い出せなくなっていた。
八つ目の川、愛執の川。
水は静かで、透明であった。
だが、その中には手があった。
無数の手が、川底から伸びて、魂の足首をつかもうとする。その手に触れれば、過去の愛が、重石となって沈めるのだ。
魂は目を閉じて、風のように、ただ川を渡った。
そして、最後の九の川 ―― それは、忘却の川であった。
この川だけは、色がなかった。
水音もなかった。
ただ、川に足を入れると、魂が急に空洞になった。
川を渡る途中、魂は、自分が誰で、どこから来たのか、何を失ったのかさえ、
何ひとつ思い出せなくなった。
けれど、不思議と、それを惜しいとは思わなかった。
◇
川を越えると、そこには誰もおらず、音もなかった。あるのは、空だけであった。
空を仰いだ魂の耳に、誰のものとも知れぬ声が、遠くから届いた。
「よく、ここまで来たな……だが、道は、まだ続いておる」
そして魂は、次なる地、骨の鳥の平原へと歩を進めた。
九つの川を越えた魂は、風のない地に出た。
そこは『骨の鳥の平原(El Llano de los Pájaros de Hueso)』と呼ばれる場所であった。
地は白く、乾ききってひび割れ、どこまでも広がっていた。空は低く、色はない。音もなかった。
だが、空を見上げると、何かが飛んでいた。
それは ―― 鳥であった。
鳥のようであったが、翼も嘴も、羽根すらも、すべて骨でできていた。乾いた羽ばたきの音が、空間を裂くように響いた。
魂は、一歩、平原に踏み出した。
その瞬間、骨の鳥たちが、一斉に旋回した。
そして、空から言葉が降りてきた。
「おまえは、生きていたとき、何を餌にしていた?」
魂は立ち尽くす。
鳥たちは、翼を斜めに傾け、上空で円を描いていた。
「おまえの嘘は、骨を白くし、
おまえの哀しみは、骨に空洞をつくった。
だが、おまえの飢えは、まだその骨の奥に、腐った肉を残している」
その言葉とともに、骨の鳥のひとつが、空からすっと舞い降り、魂の前に降り立った。
くちばしで、魂の胸をつい、とつついた。
―― 肉が剥がれた。
もうひとつの鳥が来て、左肩をついばむ。
―― 罪が、風化した。
次々と鳥たちが降りてきて、魂を食むようにつつきはじめた。だがそれは苦痛ではなかった。
痛みではなく、むしろ軽さが増してゆく。
やがて、最後の鳥が魂の眉間をつつき、
そこから小さな羽根がひとひら、空へと昇った。
骨の鳥たちは、その羽根を追って再び高く舞い上がり、そのままどこかへ去っていった。
魂は、そこに立っていた。
かつての重さの半分も、もう残っていなかった。
そして、視界の先にひとつの裂け目が見えた。
―― 『反転の谷(El Valle Invertido)』である。
◇
その谷は、奇妙であった。
谷でありながら、まるで空に向かって落ち込んでいるような ―― 見れば見るほど、目が狂う。地面が上へと傾き、空が谷底のように見えてくる。
谷の入り口には、一枚の布が垂れていた。
布には、魂の顔が映っていた。
だが、それは反転した顔だった。
左右が逆なのではない。
笑えば泣き、目を閉じれば見開く、そんな顔であった。
谷に踏み込むと、空間が裏返った。
右足を出せば左へ進み、声を発せば他人の声で返ってくる。
「これは……わたし……か?」
魂が言うと、目の前に、もう一人の魂が立っていた。
それは、かつて生の中で否定してきたもうひとつの自分であった。
怒り、憎しみ、恐れ、偽り ―― すべてを受け入れなかった影が、今、対峙する。
「おまえは、わたしではない」
「いや、おまえこそ、わたしではない」
二人の魂が争うのではない。
ただ、存在を突きつけあう。
やがて、沈黙が谷を満たし、二つの魂はひとつに重なった。
―― 統合。
その瞬間、谷が反転した。
空と地が入れ替わり、重力が解かれた。
魂は浮かんだ。
重さも、名も、性別さえ持たない存在となって。
そして、谷の向こうに、最後の門が見えた。
門の名は『忘れの門(La Puerta del Olvido)』。
その先にあるのが「死後の世界」なのか、
それとも「もう一つの生」なのか。
誰も知らぬ。
―― だが、魂は進む。
進むことだけが、答えだった。
◇
門はあった。
―― 門であるはずなのに、扉はなかった。
門は枠だけであった。
けれど、その向こうには何もなかった。
光もなければ闇もない。
音も匂いもない。
そこには、「ある」も「ない」も存在しない、ただの無があった。
そして、その「無」こそが、
忘れの門と呼ばれる場所であった。
魂は、その前に立つ。
何も問われない。何も選べない。
ここでは、「選ぶ」ということすら、意味を持たない。
ただ、門をくぐるか、くぐらぬか。
そのどちらも、正しさでも、間違いでもなかった。
風が吹いた ―― ような気がした。
その風には、かつて自分が忘れたはずの名の響きが混じっていた。
「……エル……」
声にならぬ声が、どこかで鳴った。
それは、幼い頃の名であったのかもしれないし、恋人にだけ呼ばれていた名だったのかもしれない。
けれど、その名が、最後に消える記憶であった。
魂は、ゆっくりと、門の枠をくぐった。
その瞬間、世界が ――
音もなく、崩れた。
地も空も自己も、すべてが薄れていった。
「我思う、ゆえに……」
―― 思う者が、いなくなった。
思念が溶け、時間が解け、意味が消えた。
魂は、無になった。
―― それが、死であったのか。
―― それが、生の反復であったのか。
もはや、知る者はいない。
だが、どこかで、新しい何かが息をした。
それは、ひとひらの葉かもしれない。
あるいは、遠い惑星で産声をあげた、まだ名も持たぬ生命かもしれない。
魂の旅が終わったとき、宇宙のどこかで、別のものが目を開いた。
―― 風が吹いた。
それが、魂が生きていたことの、唯一の痕跡であった。
さて、本文は全文、ChatGPTによる『死者の道』の物語化である。何か南米の民話でも読んでみたくなり、いくつかの候補の中から、書かせてみた。
他にも『ヤクルナの精霊(Yacuruna)』『太陽と月の嫉妬(El Sol y la Luna)』『ジャガーと火(El Jaguar y el Fuego)』『カエルの王と飢えた村』なども候補に。本作が好評なようなら、また書かせてみるのも面白い。
今回、ChatGPTの文体には、ひとつの魔法がかけられている。そのレシピに勘づいた読者は、感想欄にてコメントを頂けるとありがたい。答え合わせをしましょう。