黒蜻蛉
それから数日間、何事も無いいつも通りの日常が続いた。
あの数日前の「人では無いもの」は一番最初におかしくなった死者の記録者で間違いないと思っている。
記録者の死に様は、俺しか見てないが、村ではそれきり見かけない。
極めつけに最後に辛うじて残った黒い染みと身にまとっていた布切れの中に、彼の妻の名が刻まれた石の指輪があったそうだ。
あの記録者がおかしくなった時の様子は正直思い返すだけでゾッとする。でもそれから村に「そういう系」の音沙汰がなく俺も特に異常は起きていないので今のところ大丈夫なんだろう。
「……ま、何もなけりゃそれで良いんだけどな」
週一の露天商が休みの今日、俺はやっと目を覚ますと、ギシギシと階段を軋ませて下に降りる。
「あ……おはよ母さん」
まだ少し眠たい目を擦りながら居間に降りると母さんが朝食の準備をしていた。
俺の母さんと俺は血が繋がっていない。でも我が子のように面倒を見てくれる、物好きな人だ。
「おはようペトラ、朝ごはんできてるよ。早く食べな」
俺は母さんに促されて席に着く。寝癖がついていたのか母さんに優しく梳かされた。
ここの人達は褐色肌なのに俺は全然白い肌だし、それに母さんみたいにアンバーカラーの瞳でもなく黄色だ。
「今日は村長さんが来る日だから朝食の後片付けしとくね」
「……ん、ありがと」
眠たい目を擦りながら俺は朝食に手をつける。
「そういえばペトラ、あんた最近変な夢とか見たりしない?」
「……いや?特に見てない」
「なら良いんだけど……なんかね、最近村で変な噂がたってるのよ」
「噂?どんな?」
眠気が嘘みたいに覚めた俺は母さんに聞き返す。
「なんかね、黒い蜻蛉みたいな虫が人の皮膚に触れると、黒い虫が皮膚から溶けるみたいに吸い込まれるみたいな話なんだけど……」
「……」
「あんたも気をつけなよ?ひょんなことで吸い込んでも誰も助けてくれないんだから」
「……あぁ。」
事も無げに返したが脳裏に浮かぶのは、最後肉片が虫になって消えてった記録者。
「……その噂っていつ頃の話?」
「うーん……私も今日の朝聞いたからねぇ……」
「ふーん……」
「ま、そんな虫がいたら今頃村は大騒ぎよ!だからあんたは安心してなさい!」
そう言って母さんは笑う。俺も少し笑ってみせておいた。
───それから朝食の後片付けをして、顔を洗いに井戸まで向かう。
暑い地域なだけあって井戸水を頭から被るとすぐ目が覚めた。
「ぷはー……やっぱ今日もあっちぃー」
やっぱ地下は偉大だな……水がつめてぇ。
口元を拭った時だった。
ピチョン……と少し遠くで水が跳ねた様な音がした。
「……?」
俺は周りを見渡すが近くに水の類はない。そして今度は水を弾く音まで聞こえてきた。
「……は?」
何かきてる、そう思った矢先だ。
俺の直ぐ背後から水も無いのにゴボゴボと水量が増えて弾ける様な音が響いたのは。
「……ッ!!!」
俺は慌てて振り返るとそこには。
満遍なく黒色を身に纏った蜻蛉が、厭らしい目でこちらを見ていた。
それも前とは段違いの大きさで、奴は俺と視線が合うとカサカサカサっと異常な速さで壁を伝ってあっという間目の前までやってきた。
「な……なんだよこれ……つっ」
ぐんっと目の前に迫ったボウリングボール位の頭が迫る。
生暖かく、甘ったるくて腐敗臭を孕んだ息が顔にかかる。
「この匂い……っ、うぇ」
嫌でも思い出さないようにしていた数日前の1枚絵が脳裏に浮かぶ。
──やばい。
くるっと踵を返してすぐそこの家のドア横に立てかけていた儀式用の剣を乱暴に掴み取り構える。
井戸水を浴びてから刃を研ぐつもりで持ち出したのだが……そんな事は言ってられない。
「来んじゃねえよ……っ!ここは、母さんが……村が」
数日前と言い今この現状といい、「闘え」と俺の身体は言うものの脳がどうにも拒む。
俺は職業柄何人も人を斬ってきた。でもそれは「仕事」だ。
こいつは違う、殺らなきゃ俺が死ぬと解るが、それでも。
黒蜻蛉は俺のすぐ目の前まで来てその羽を広げると、牙を剥いた。
「キシャァァァ!」
「つっ……るっせーなぁ!」
俺は狙いをその腹に向けて、剣を振り下ろす。
「うぉ……っ」
虫だからか、ぐにゃり。とやたら柔らかい皮膚を突き刺した感覚が右手に伝わってくる。その刺激のせいか少しよろけてしまった。……でもそれだけだった。黒蜻蛉は刺された痛みを感じてないのか、お構い無しにその羽をバタバタと閉じながら俺に向かって突進してくる。
「くそっ!こんの……っ!」
刺して駄目なら刃先でぶった切れ!と俺は自分に言い聞かす様に心の中で叫んでまた狙いを定める。
そして今度はぶつ切りにする勢いで腕を振り下ろした。
鈍い音を立てて俺の思い描く軌道で刀が落ちてゆく。
しかし。
「な……っ」
確かに切った、と思った。
なのに目の前の黒蜻蛉はそんな傷を受けてもピンピンと動いていた。
「そ……ん……っ」
しかし、見たところ奴に痛みこそないものの、動きは格段に鈍くなった。それもそのはずで、俺が突き刺した箇所からだくだくと流れる黒い粘着質の液体が地面を黒く染めていく。あの記録者の血を連想して吐き気を催しそうになる。
「あっ、う……っ」
呆然とする俺に対して、黒蜻蛉は目のない顔を向けて翼を振りかざした。
「ぐっ!」
バシン!!と顔面にクリーンヒットしたせいで持っていた剣を落としてしまった。俺は慌てて後ろに飛び退くが痺れる様な痛みが顎を襲った。その痛みでかっと頭に血が上って興奮状態になる。
「くそ……」
刺激で涙が出そうな視界に未だに羽を動かす虫の姿が映る。
こうなれば……
「もう……どうにでもなれっ!」
俺は覚悟を決めて右腕を思いっきり振りかざした。そしてそのまま左腕でその虫の首をがしっと掴む。
「この野郎っ……!!」
俺は奴を掴んだ手を思い切り自分の方に引き込んだ。
ブチブチと肉が千切れる音がして、手にぬるりとした液体の感覚が伝わる。首の千切れた胴体は俺の手を振り解いて地面に落ちた。
ぼとり。と音がしてドクドクと黒い粘着質の液体が流れる。
首と胴をちぎられてもう動く気配は無さそうだ。
「はぁっ、はぁ……っ……やった、のか?」
緊張と開放感に息を荒らげながら、俺は改めてまじまじと自身の右腕にべっとりとついた黒い液体を見る。そして先程千切ったギョロリと濁った目玉の着いたボーリング大の虫の頭部も。
「……うぇぇ……きも」
即、側溝に捨てた。




