第6話 衝突
「ああ、根倉。待ってくれ。もう一つ伝えなければならないことがある」
職員室を出ていこうとする俺を、曙先生は呼び止めた。
「今日の体育の授業で体力測定があっただろう。どうやらお前と不知火だけ記録がうまく取れていなかったらしくてな。この後再テストをやると体育教師が言っていた。だからこれから体操着に着替えてグラウンドに行ってくれ」
……おい、嘘だろ?
今日はただでさえいろいろあっておなか一杯だってのに、まだイベント発生すんのかよ。。。
「ちょっと待ってください。どういうことです?俺は授業中、確かに記録を取りましたけど」
「私も知らんよ。何せ体育教師からお前らを呼び出すように言われただけだからな」
俺に言うだけ言った先生はいそいそと身支度を始めた。
「先生はもう帰るんですか?」
「ああ、今日やるべきことは全て済ませたからな。これから行きつけの店で一杯やるんだ」
満面の笑みでおちょこを持つしぐさをする先生。
この人、今朝も二日酔いみたいな顔してたのに今日も飲むのかよ。
てかまだ16時前だぞ。早すぎんだろ。
「ん、なんだその目は」
やべっ。
あきれてジト目を向けているのがばれてしまった。
「まあお前も大人になればこの喜びがわかるさ。さあ、とっととグラウンド行ってこい!」
ポンっと俺の背中を押す先生。
どうしよう、バックレて帰りたい。
でも結局先延ばしになるだけなんだよな。。。
そんなことを考えながら職員室を後にする俺の背中は、いつも以上に丸まって見えたことだろう。
一度着た体操着に再び袖を通すと、ほのかに湿っていて気分が悪くなった。
ただでさえ体力測定の再テストで憂鬱だというのに。
後ろ向きな感情をどうにか引っ張ってグラウンドに行くと、すでに不知火がいた。
曙先生と同様、不知火に対する遠慮は不要であると内なる俺は判断している。
どうせ再テスト中は嫌でも関わることになるんだし、現状の手持無沙汰を解消しようと俺は声をかけてみた。
「よう。俺たちだけ再テストだってな。なんでこんなことになったか、知ってるか?」
俺の声は間違いなく届いているはずだが、不知火はぬぼーっと俺の方を見ているだけで返答はない。
何を考えてるかわからん奴だな、本当に。
無視された気まずさから逃れようとした俺の背中に、不知火は無感情な言葉をぶつけてきた。
「……アタシが白紙で提出したから」
「は?なんだって?」
「アタシが、アンタの成績表を白紙で提出したから」
……どういうことだ?
言っている意味はわかるが、行動の意味がわからない。
俺も不知火も、確かにシャーペンで成績表に記録を取っていたはずだ。それをわざわざ消しゴムで全部消したうえで提出したってことか?
そういや、あのときの不知火の行動は不可解だったな。
俺の分まで成績表を出すと自分から申し出てくるなんて、今思えばどう考えてもコイツのキャラじゃない。
「なんでそんなことを……」
「よし、集まったな2人とも」
不知火へ質問集中砲火してやろうというところで、曙先生が来てしまった。
「あれ?曙先生??」
てっきり体育教師が来るものと思っていたが、何かあったんだろうか。
すると、先生は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……野原先生も清水先生も部活の顧問で忙しいんだと。んで、再テストは2人だけだし、何の顧問もしてない私にやって欲しいんだと。大変不本意だが、顧問マウント取られて逃げきれなかったんだよ。……本当に不本意だがな」
さいで。
確か野原先生が肝っ玉母ちゃん風の体育教師で、清水先生が若手の体育教師だったか。
「サクッと終わらせてくれな?顧問やってないとはいえ、私も暇ではないからな」
「嘘つけこの後飲みに行くだけじゃねーか!」
「何を言うか!17時から店を予約してる。予定がちゃんとあるという意味で私は暇ではない!」
平日から予約してまで酒を飲みたいとか、大人になったら俺もそうなるんだろうか。
……そういえば今日は金曜日。社会人にとっては華金ってやつか。
ウチの兄貴も金曜日の夕方はテンションが高いことが多いし、先生が異常ということでもないのかもしれない。
先生に急かされながら俺たちは準備運動をし、測定の用意に入った。
不知火の意図は相変わらずさっぱりだが、割り切ってやるしかなさそうだな。
「体は温まったようだな。それじゃ50メートル走からな」
スタートラインに移動する不知火と俺。
さて。
再テストとて俺のスタンスは変わらない。
男子平均点を目指して走る。
先刻の授業で力加減は掴めているし、この点は問題ないだろう。
問題なのは、ともにスタートするのが不知火であるということ。
コイツの運動能力が女子どころか男子のトップレベルと遜色ないことはよく理解している。
となると、必然的に男子平均で走る俺はコイツに置いていかれることになる。
……それはなんかちょっと嫌だな。
俺にも男子としてのなけなしのプライドがあるということか。
今日の授業では一緒に走る奴に負けたくないとは思わなかったんだが。
自分の感情に若干の戸惑いを覚えつつ、俺はスタートラインに右足を合わせる。
そのつま先には、心なしか授業の時よりも力がこもっているような気がした。
測定者が曙先生しかいないので、スタートの合図は必然的にゴール地点からになる。
俺たちの準備が整ったことを確認し、曙先生はピストルを空に向けた。
「位置について、よーい」
パン!
ピストル音と同時に、俺は無心で地面を強く蹴りだした。
低い姿勢で地面からの反発力を推進力に変え、グングンと身体を加速させる。
久しく感じていなかった爽快感に、俺は我を忘れて酔いしれていた。
全力疾走なんていつぶりだろうか。
地面からの衝撃、自らの筋力、体重、それらすべてが一つの目的のために連結され、自分の思いのままに身体が動く感覚。
……あぁ、最高に気持ちいい。
自分だけの世界に入っていた俺は、いつもなら感じるはずのない気配によって我に返った。
それは俺の約2メートル後方から放たれる、獲物を猛追するオオカミの気配。
そうだ不知火だ。俺は不知火と一緒に走っていたんだった。
なんでこう、俺は一時の感情で我を忘れてしまうのか。。。
……それよりまずい。
あいつのタイムは確か6.9秒。
あいつよりも先行している俺は、このままゴールすれば間違いなく男子平均以上のタイムが出てしまう。
残りの距離はもう半分もない。
今から速度を落とせばどうにかなるか?
強引にストップをかけつつ、俺は速度を緩めた。
俺を抜き去りさらに加速する不知火を横目に、俺もゴールした。
「不知火6.7秒、根倉7.2秒」
ストップウォッチ片手にゴールで待っていた先生からタイムが告げられる。
前半トリップしたせいで予定よりもタイムが早まってしまった。
俺のおこちゃまな自制心をもっと鍛えなければなるまい。
それにしても不知火の奴、授業の時よりもタイムが伸びてやがる。
マジでどうなってるんだあいつのポテンシャルは。
「オイ」
背後から不機嫌そうな声が聞こえてきた。
振り返ると、想像通り不機嫌そうな顔の不知火が俺のことをにらみつけている。
「ん、なんだよ?タイム伸びて自慢でもしに来たか」
「アンタ、途中で手ぇ抜いただろ?」
なんだそのことか。
かなり強引にスピード落としたし、不自然すぎたかな。。。
とはいえ、一応ごまかしておく。
「いやー実は走ってる途中で足を痛めちまってな。別に手を抜いたわけじゃない」
「ふーん、そう。じゃあアンタの足が治るまで再テストは延期するように言ってくるわ」
……急になんだコイツ。俺に気ぃ遣ってるのか?
「別にそこまでしてもらわなくていいよ。全力は無理でもテストを受けられないほどじゃないし」
「それじゃ意味ないっての。とにかく、今日の再テストは中止してもらうように言ってくるから」
どうやら気を遣ってくれたわけではなさそうだ。
延期なんて面倒はごめんだ。勘弁してくれ。
「悪い、足痛めたってのはウソだ」
不承不承、俺は白状した。
「フン、やっぱりね。つまらないウソつくんじゃないっての」
コイツ、俺がウソついてるとわかっていてカマをかけてきたらしい。
「アンタ、何で手抜いてるワケ?授業でもずっと手抜いてたよな?」
……その通りなので何も言えない。まさか授業の時からすでに気づかれていたとは。
しかし、何を根拠にそう思ったのか。
今後の参考に、少し聞いてみたい。
ここは潔く白旗を上げることにする。
「……手を抜いてたことは否定しねえよ。理由はまあ、面倒くさいとか疲れるとかそんなとこだ。……お前さ、俺が手を抜いてるってどうして気づいた?確かにさっきのは露骨に不自然だったかもしんないけどよ、授業では不自然な瞬間なんてなかっただろ?」
「何言ってんの?アタシから見たらアンタはずっと不自然。ていうか変よ。それにキモい」
……青天の霹靂とはこういう時に使うのだろうか。
俺の目指す"無色透明"なモブ生徒は、クラスメートから「不自然」とか「変」とかそんな印象は持たれない。
そもそも誰かの意識に残ってはいけないのだ。
俺が悪いのか、それとも不知火の感覚が鋭すぎるのか。
一つ確かなことは、少なくとも不知火に目をつけられているようでは、俺の目指すスクールライフをつかみ取ることはできないということだ。
「……俺ほど普通で平凡で、可もなく不可もなく、人並で月並な人間はいねえよ。そんな俺に向かって変とか、自分の目を疑ったほうがいいぜ。緑内障かもしんないから眼科行って来い。……あとキモい言うな」
あきれた様子で不知火は続ける。
「アタシの目は節穴じゃないし、わかる奴にはわかる。一目瞭然なんだっての。アンタの動きが変なのは」
「……俺の動き、そんなにキモかったか?」
だとしたらちょっとショックだ。目立たないフォームを意識したんだが。
「むしろ逆。アンタの動きにはまったく無駄がなくて、クラスの誰よりもきれいな力場を生んでた」
褒められた、のか?
ここは喜んでいいとこ、なんだよな?
独特な言い回しのせいでよくわかんなかったぜ。
あと力場ってワードの使い方が正しいのかもよくわかんねえ。
「なのに。……なのに!」
不知火が語気を強める。
「そんなヘボい結果しか出てねえのは、アンタが力場に自分の力を乗っけてないから、つまり手を抜いてるからだろうが!」
苛立ちを隠そうともせず、そう言い放った。
「アタシには何でそんなことをするのか理解できない。面倒?疲れる?何よそのしょーもない理由は。だったらアンタは人生のどこで全力を出すってのよ?自分の人生を思い通りにできる時間は有限なの……。アタシはね、アンタのそういう腐った性根がキモいって言ってんのよ」
コイツには俺のことがそんな風に見えていたのか。
だが不知火よ。お前にはわかるまい。
ただ足が速いだけで人の妬み嫉みの対象になる辛さが。
全力を尽くしただけで人の恨みを買ってしまうことの怖さが。
人はな、些細なことで簡単に”出る杭”になっちまうんだよ。
「確かにお前の見立ては正しい。まさかそこまで俺に熱視線を注いでくれてるとは思わなかったぜ。その上で言わせてもらう。……お前には関係ねえ。勝手に言ってろ。
大体、たかが授業で全力出すことに何の意味がある?俺にとっちゃ学校の成績なんてどうでもいい。学校生活なんて何の価値もない。ただ波風立てずに平穏に過ごせれば、俺はそれでいいんだ」
学校なんて黒歴史トラウマPTSD精神的苦痛の温床でしかない。
少なくとも俺にとってはそうだ。
学校なんて、卒業証明書をもらえさえすればそれでいい。
「不知火。俺のやり方を、お前にとやかく言われる筋合いはねえ」
「……だったら、アンタにとって意味があることって何?価値があることってなんなワケ??」
そう言いながら不知火はゆっくりと俺に近づいてきた。
「少なくとも、いまこの瞬間を本気で生きれないような奴の人生に意味も価値もあるワケないっての。……アンタみたいな奴は一生背中丸めて生き恥さらすだけの人生を送りゃあいい」
そして俺の目の前で止まった不知火は、俺の胸倉をねじりあげ、顔を目いっぱい近づけてこう言った。
「そのかわり!アタシの前に二度とそんなしょうもないツラ見せんじゃねえ!!アタシの前でこれ以上生き恥さらすつもりなら、目障りだから死んでくれ!!!」
絶世の美少女から打ち下ろされる暴言の鈍器。
視覚と聴覚でとらえた情報が交錯し、頭がバグりそうだ。
なぜ俺は、コイツにそんなこと言われなきゃいけないんだろう。
俺がコイツに何したっていうんだ??
「あのー……」
不知火ではない誰かの声が聞こえる。
「盛り上がってるとこ悪いんだが、早く次の種目やってくんない?じゃないと予約に間に合わなくなっちゃうから……」
ボロカス言いやがる不知火。
どこまでもマイペースな曙先生。
どいつもこいつも……。
プチンっ、と俺の頭の中で何かが切れる音がした。