第2話 見知らぬ天井と妄想、ネコを愛する不知火小雪
「……んあ?」
見覚えのない天井の下で目が覚めた。
どうやら俺は不知火にぶん殴られて気絶したらしい。
保険医によると、俺をここまで運んだのは不知火本人であるとのこと。
『アタシとしたことが、堅気に手ぇ出しちまった』
と反省した様子だったという。
……堅気って、ヤクザもんかよ。
美少女の皮をかぶったヤクザだということはこの身をもって体感したが。
保険医は今回の件を暴力沙汰として問題にしようか検討しているようだ。
「あっ、いや、あれは俺にも非があるのでそんな大事にしなくても、、、」
「あら、そう?まあ、あなたがそういうならいいんだけど」
保険医に礼を言い、教室までの道のりをノロノロと歩く。
時刻は9時10分。
1時間目の授業が始まってちょっと経ったくらいか。
授業中の教室に戻ることを考えるとすごく憂鬱である。
みんなの視線が一斉にこっち向いてくる瞬間とか特に苦手だ。
何で自分の教室に戻るだけなのに、こんな後ろめたさを感じてしまうのか。
まったく、陰キャぼっちの性にも参ったものである。
……めちゃくちゃ脇汗出ることを覚悟しておこう。
いっそのこと、このまま仮病使って早退しちまうか?
……いやだめだ。荷物が教室にある以上、教室に入ることは避けられない。
そしたら結局大勢の視線にさらされ、気まずい思いをして脇汗ブシャることになる。
そのうえ授業を早退したら、欠席日数だけ増えてブシャり損だ。却下。
俺がリスクとリターンの計算を済ませたところで、ちょうど教室が見えてきた。
教室の前でふっと深呼吸をして、扉を開く。
すると、入ってすぐに担任と目が合った。
「おう、根倉、戻ったか。調子はどうだ?」
「あっはい、まあぼちぼちっす」
「そーか。今回のは遅刻にゃならんから安心しろ」
一時間目は現国。担任の曙小夜が受け持つ教科である。
「復帰早々悪いんだが、そこで突っ伏してる阿呆をたたき起こしてくれないか」
小夜の言っている阿呆。
それは言うまでもなく、俺の目の前で寝息を立てる不知火小雪。
この担任、ついさっきモメた当事者同士をまた絡ませようとしてやがる。
不知火も不知火だ。
モメ事起こした後もこうして平然と寝こけていられるとか神経太すぎだろ。
心臓にバオバブでも生えてんの?
そういえば、バオバブとバブバブって響きが似ててかわいいよね。
あー、マダガスカル行ってみてーなー。。。
現実逃避で思考を国外逃亡させても、現状が変わることはない。
とりあえず、俺は視線で抗議の意を示してみた。
じとり。曙先生と交錯する視線。
「ほれ、早くしてくれ。授業が続けられんだろう」
そういう曙先生の口元はニヤついていた。
……この人わざとやってるな。俺と不知火使って遊んでやがる。
気は進まないが、うろたえてこれ以上先生に面白がられるのも癪だ。
やってやろうじゃんか。
して、その方法やいかに。
今や、電車の座席で肩によりかかられただけで痴漢を疑われるようなご時世である。
男の俺に背後から肩を触られようものなら、痴漢セクハラ汚物変態など事実無根な罵声を浴びせられかねない。
よって、不知火に直接触れて起こすのはNGだ。
考えた結果、不知火の机の端をコンコンとノックすることにした。
「おっ、おい起きろ、しらぬ……」
その瞬間、雷に打たれたかの如くものすごい勢いで不知火の後頭部が起き上がってきた。
「うおっっっ」
ドゴン!!
「んあ?」
「グッモニン、不知火。私の授業で今度なめたマネしたら締め上げるから、覚悟しとくよーに。あと評価もな」
「……チッ。へいへい」
顔を起こした不知火は不機嫌を隠そうともしない。
そして後ろに吹っ飛んだ俺。
「何やってんだ根倉。早く席につけー」
「……はい、スミマセン」
何が起こったのか。
爆速で迫ってきた不知火の後頭部から逃れるため、俺は反射的に後ろに飛んだ。
その結果背中を後ろのロッカーに打ち付けたのだ。
それはもう強かに。めっちゃ痛い。
不知火の背中にはバネでも仕込んであるんだろうか。とんでもない背筋力である。
さすさす背中をいたわりながら席につくと、周囲からひそひそとしゃべり声が聞こえてきた。
「お嬢との第二ラウンド見たかったなぁ」
「あいつ、地味な見た目のわりにだいぶヤバくね?」
「不知火さんに喧嘩売るとか、あの人もそっち系なのかな。やだ怖い」
……俺の高校生活、終わったかも。
あの一件、俺が不知火に喧嘩売ったことになっているらしい。
ちょっとした出来心で不知火の寝顔覗いちゃっただけなんだけど。
……うん。客観的に女子の寝顔覗くとか、百パー俺が悪いわ。
喧嘩売ったかどうかはともかく。
学校内の噂って広まるの早いんだよな。
小学生の時だって、誰にも言わない条件で話した俺の好きな人が、次の日にはクラス全員に知れ渡ってたし。
そんで告ってもないのにフられたし。
ハァー、高校でもやっぱダメかぁ。。。
自暴自棄になった俺は、そうなったときの常として脳内現実逃避することにした。
頭に思い浮かべるのは、リングに立つ自分。
相対するは百戦錬磨のレジェンドボクサー。
今日は先日行われたボクシング世界タイトルマッチを脳内で再現することにする。
登場人物に自分を憑依させて。
俺がこの手法で現実逃避をするようになったのは小学四年生の頃からだ。
当時の俺はいじめっ子グループに目を付けられ、日々嫌がらせをされ、時には暴力を振るわれていた。
きっかけはクラスのかわいい女の子と仲良さそうにしててムカつくとか、リレーの選手に選ばれてムカつくとか、そんなことだった気がする。
されるがまま何もやり返せない自分の弱さが悔しくて、そんな自分が情けなくて、そんな自分を認めたくなくて。
当時の俺は、どこかの強者に自分を重ねて現実逃避し、毎日を何とかやり過ごすことしかできなかったのだ。
そんな絶望の日々は、小6の頃にいじめっ子らが大けがにあって唐突に終わった。
彼らは一週間ほど入院し、退院後は別の学校に転校していった。
これまでの人生であれほど安堵感を覚えたことはない。
当時のクラスメートは俺がいじめを受けていることを知っていて、いじめが終わった後、俺との距離を測りかねていた。
クラスで孤立した俺は、学校からの配慮なのか保健室で卒業まで過ごした。
中学に上がっても学区が変わらなかったこともあって、俺はずっと孤立したままだった。
辛いことが多かったせいか自分の中で忘れたい記憶になっていて、当時を詳細に思い出せないことが多い。
ただそんな日々の中で、数々のレジェンドボクサーや探検家、異世界の冒険者といった強者たちに心を支えてもらっていたことだけは鮮明に覚えている。
それにしても、先日の試合は本当にすごかった。
超速ジャブの差し合いから高度なカウンターの応酬は見ごたえがあったし、カウンターのカウンターとか、もう見聞色の覇気かよっていうレベル。
そんな激しい削りあいをフルラウンド続けられるタフネスには、感動させられた。
どれほどの時間を費やせばあの域まで行けるのだろう。
想像の中ですら、あれを再現するのは困難を極める。
よし、いったん基本に立ち返ろう。まずは高速ジャブからだな。
えーと、ジャブは「明日のために」の第何条だったっけ。
たしか右ストレートが第二条だったはずだからジャブは……。
ふと、先ほど顎に見舞われた右ストレートを思い出した。
あれは洗練されたなかなか見事な一撃だった。
それを放った張本人は俺の右隣りで懲りずに眠っている。
かと思いきや普通に起きてノートを広げていた。
さすがの不知火もあそこまで目をつけられたら従わざるを得ないようだ。
なんかちょっと残念だな。
……いや、待て。
板書しているように見えてノートに書いているのは落書きだ。
それは陰影から毛並みの一本に至るまでばっちり描かれたネコ。
毛繕いをするその仕草と表情はネコ特有の愛らしさにあふれており、今にも紙から飛び出してすり寄ってきそうなリアリティを感じさせる。
着席している姿勢が美しいことも相まって、はたから見たら真面目に授業を受けているようにしか見えないだろう。
……なんなんだコイツ。
不良が野良ネコに餌をあげるのを見てギャップ萌えみたいなのは知ってるけど、不良が授業中に野良ネコを写実してても別に萌えねえぞ。
当の本人は真剣な面持ちで眉一つ動かす様子もない。……いや若干口元が緩んでるな。
もしかしてコイツ、ネコ好きなのか?
ひょっとして、ネコ好きが高じて自分で描きたくなって、そんで自分で描いたネコに萌えてるのか?
自分で永久機関を作りやがって、変な奴である。
ふと絵描きに没頭している不知火の肘が、机の上にある消しゴムに当たった。
落下していく消しゴム……。
『ジャブだけで落ちてくる木の葉を10枚キャッチするんだ』
刹那、ピーンと俺の脳内に電撃が走った。
そうだ。これだ。
『肘を脇から離さぬ心構えでやや内角をえぐりこむように打つべし!』
ジャブの打ち方、思い出した。
シュッ。
反射的に放たれた俺のジャブは、見事に自由落下する消しゴムを捕らえた。
……やべぇ、どうしようこれ。