第13話 救済
目の前の化け物を殺せ。
血が上ってパンパンになった俺の脳みそからシンプル極まりない指令が下された。
それに従って、俺は拳にひとかけらの慈悲も込めずに右、左、右、左と腕を振り下ろす。
拳から肘、肩を通り、脳にまで伝わる衝撃。
この振動が俺をとても甘美な気持ちにしてくれる。
俺は日ごろから体を鍛えているが、やはりこの体に伝わってくる衝撃はいつ味わってもよいものだ。
だが今日は、いつにも増して心地よい。
暖かいからだろうか。
奴らから溢れ出る血液の温度で。
醜い怪物を破壊するまで、自分の頭が空っぽになるまで、俺は腕を拳を落とし続けた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。
「おい」
その声は、がらんどうな俺の頭蓋に優しく響いた。
今日、何度も俺の耳を煩わせた、透き通ったアルトの声。
なぜか今は、乾いた大地に降り注ぐ雨のようにじんわりと俺の中に染み渡っていく。。。
はっ、と俺の頭に再び血が通い始めた。
眼前には倒れてうずくまるAとB。
俺と奴らの間には若干の距離があり、俺の拳は握りこまれたまま。
どうやらさっきの感覚は俺の脳が見せた幻覚によるもので、現実ではまだ奴らに拳を振り下ろしてはいないようだった。
……?
じゃあ、俺の右手首から伝わるこの感触はなんだ?
この暖かくて心地よい感覚は、幻覚ではない。
この優しく包まれるような感触だけは、確かに現実だ。
振り向くと、不知火の右手が俺の右手首を握っていた。
「……なん、で……何で、不知火がここに?」
不知火は、何も言わない。
ただ、少し驚いたように目を開いて、俺の顔を見ていた。
そして、右手を引っ張るように俺を引き寄せ、そのまま俺を抱き締めた。
「……⁉な、んで、こんな……?」
決して力が込められているわけではないのに、俺はこの腕の中から抜け出せる気が全くしなかった。
「……アタシだって、よくわかんない。ただ、アンタが、悲しそうなツラしてたから」
「……え?」
つーっと頬を伝う水滴。
自分が涙を流していることに、俺はいま気が付いた。
「……あれ?おれ……どうして?」
「今は、何も聞かねぇよ。だから、何も言わなくていい」
すごく、懐かしさを感じた。
こうしてよく、俺を抱き締めてくれた母。
何か言葉をかけるでもなく、優しく、温かく。
ただ、俺が存在するという事実を祝福するかのように。
この時間は、俺にとっての幸福の象徴だった。
そんな母は、俺が小学3年生の頃に病気で亡くなってしまったが。
どれくらいの間、そうしていただろう。
「おい、お前らいつまで寝てんだっての。さっさと起きな」
半ば放心状態だった俺は、不知火の声で我に返った。
「アタシ、一部始終見てたから。……こんなしょーもないこともうやめたら?バレたらお前ら一発で退学になるでしょ」
「……ハハハ、何もわかってないみたいだな」
「わかってないって、何がよ?」
抱き締めてくれていた不知火から離れ、俺は不知火に並び立ってAとBを見下ろした。
「本当にそうなら、俺たちはとっくの昔にこの学校から追い出されてるだろうぜ」
そう話すAは不敵な笑みを浮かべている。
「俺たちがどれだけこの学校に寄付してると思ってる。最新鋭の設備、高水準の教育、うまい学食。全部俺らの寄付のおかげだ。中にはポッケにしまってる先公もいるかもな。だから学校側も俺たちを無碍にはできねえのさ……。これまでいろいろやってきた。学校にバレたこともあった。でもこうやって何不自由なく学校生活を送れてる。お前にチクられようが、俺達には何の影響もねえんだよ!」
つくづく腐ってやがる。こいつらも、学校も。
……まともだと思って高偏差値の私立高を選んだのに、早くも転校を考えるべきかもな。
「それに、お前は学校にチクれねえよ」
「なんで」
「これから俺たちが口封じするからだよ」
物騒なことを言うAだが、俺たちを殺そうとでも言うのだろうか。
「今ここに俺たちの仲間が向かってる。大津って奴だ。そいつは格闘技経験のある奴でな。これまで荒事はそいつの腕っぷしで全部ねじ伏せてきた。あいつが暴れれば大人が数人でかかったって止めらんねえ」
なるほど。
こいつらどこか余裕げだと思っていたが、まだボスが控えていたのか。
「お前は終わりだ。これからお前は大津にボコられて俺たちに辱められる。その様子を動画に撮ってやるから、拡散されたくなけりゃおとなしくしとけや。まあ、一生俺たちのおもちゃになることは確定してるけどな!」
……やばいどうしよう。
不知火の登場と抱擁で気が動転して、体に力が入らない。
そんな状態で奴らの親玉を制圧できるのか?
「大津って、あいつのこと?」
こともなげにそう言って、倉庫の外を指さす不知火。
そちらを見やると、地面に大男が倒れていた。
「……おっ、大津……?大津なのか??」
辛そうに体を起こし外をみたAは、戸惑いと驚きが混じった声を上げた。
「なっ、どうして?何が起こってる??」
「あいつがこの中入ろうとしてたから、呼び止めて寝かしただけ」
「……は?……お前が?」
「アタシが」
「いや、だって、そんなこと……。だって、あの大津だぞ?」
「知らないよそんなこと。アタシだって驚いたさ。まさか一撃で伸びるなんて思わなかったし」
「そんなことできるわけない。おまえに、おまえなんかに……⁉」
そういってこちらを凝視したAは目を見開いて固まってしまった。
Aの両目にはっきりと”驚”と”愕”の二文字が浮かんでいるのを、俺は見て取った。
「……こ、金色の長髪に、あ、あの大津を倒すほどの戦闘力、、、。ま、まさかお前、不知火小雪……?」
「ん、そうだけど?……ああ、大津ってなんか聞いたことあると思ったけど、お前らあのときの大馬鹿トリオか。なんだ、懲りずにまだこんなことしてんのかよ。ほんっとうにくだらない奴らだね」
俺と不知火が入り口を背にしていたため、逆光だったのだろう。
今更不知火のことを認識したようだ。
不知火の奴、巷じゃスーパーサイヤ人みたいな扱いになってんのな。
まあコイツならそれも納得だ。
そこからのこいつらは、まるで借りてきた猫のように俺たちの言うことに従った。
外で伸びている大津、A改め馬場、B改め鹿浜の大馬鹿トリオを後ろ手で縛り、職員室まで連れて行った。
ちょうどそこには曙先生とワタベがいたので、状況を説明した。
「このデカいの、アゴに左フック一発入れただけで伸びちまいやがった。もうちょっと楽しめると思ったのに」
そう話す不知火は至極残念そうに見えた。
おい、こっちを見るな。消化不良だからって俺は相手しねえぞ。
ワタベをいじめる様子を鹿浜が撮っていたが、俺が乗り込んだ後もこいつは録画を停止していなかったらしい。
音声がばっちり残っており、俺が説明した状況を裏付ける証拠となったため、大馬鹿トリオは言い逃れができなくなった。
大馬鹿トリオがワタベに謝罪する様子を俺は見届けた。
今後こいつらにどのような処分が言い渡されるのかはわからない。
「今度同じようなことをしてみな?お前らはもちろん、お前らの実家も会社も、ぜ・ん・ぶ、すり潰してやるから」
成り行きで職員室についてきただけの不知火は、帰り際にこんなことを言い放ちやがった。
できるわけないと思いつつ、コイツならやりかねないのではと思わされる。
怖ろしい奴だ。前に怖ろしくないと言ったことは撤回する。
大馬鹿トリオも、本気で怯えているようだった。
「根倉。それと不知火」
事態が落ち着き、そろそろ帰ろうと思っていたところを曙先生に呼び止められた。
「今回の件、ご苦労だった。現場に居合わせたのがお前たちだったのが僥倖だった」
「い、いや大したことはしていないっす。ホントあいつら大したことなかったんで、俺以外の奴が居合わせても同じことしたと思いますよ」
「アンタ顔に出すぎ。ホントは大したことしたと思ってるくせに。こういうときは素直に褒められときゃいいんだっての」
曙先生からの言葉にキョドってしまったのを不知火に揶揄された。
しょうがねえだろ、褒められ慣れてないんだから。
「私は世辞は言わん。あの3人によるいじめはずいぶん前から問題になっていてな。ただ、決定的な証拠がないことや多くの教師からの口添えもあって、学校側も厳しく追及することができていなかったのだ」
なるほど。
馬場もそんなことを言っていたな。
奴らは学校側の事情を理解したうえで陰湿ないじめを繰り返していたわけだ。
つくづく許しがたい奴らだな、まったく。
「誰にでもできることじゃあない。私はお前たちを誇りに思うよ」
そう言って、曙先生は慈愛に満ちた微笑みを湛えた。
今日一日、ガラにもないことをした報酬としては十分すぎるモノを受け取った気がする。
「……じゃ、じゃあ俺、そろそろ帰りますね。体操着早く着替えたいし」
「ちょっと待て」
気恥ずかしさから頬をポリポリとかきつつこの場を後にしようとする俺を、再び曙先生が呼び止めた。
「まだ何か?」
「道具の片づけは終わったのか?」
「……へ?」
「体力測定の道具の片づけだよ。私はそれが終わるのを今か今かとずっと待っていたんだぞ。……もう、店の予約時間はとうに過ぎてしまっているがな」
やべえ、すっかり忘れてた。