第10話 小さな一歩
「……ここ、どこだ?」
走りながら思考の沼にハマってしまった俺は、気づくと見覚えのない場所に来ていた。
入学して間もないということもあるが、この学校は広すぎる。
さすがは都内有数の進学校である。
俺は状況の整理と休憩を兼ねて、目の前にある倉庫のような建物の陰にしゃがみ込んだ。
さて、この後どうしようか。
逃げ出した勢いのままここまで来てしまった手前、戻るのもなんだか気まずい。
それに、これ以上不知火にかかわって自分を見失うようなことはしたくない。
不知火には今日一日さんざん振り回されたし、このまま片づけをバックレて帰ってもおあいこだろ。
……よし決めた。見つかる前にさっさと着替えて帰る。
思考とタスクが整理できてちょっと落ち着いた。はー、良かった良かった。
それにしてもこの場所は穴場だな。
校内でも目立たなそうだし、昼間の人気も少ないかもしれない。
ぼっち飯スポットとして今度使ってみよう。
「……しに乗ってるよなこいつ」
「……ジでムカつく」
「……い、ごめんなさい」
何か聞こえる。
どうやらこの倉庫の中からのようだ。
ちょうど窓があったので、そっと中を覗いてみた。
倉庫内は暗く、俺がのぞいている窓と、今は締め切られている入り口の扉のみが光源のようである。
確認できる限り、中にはうずくまっている男子一人と、それを見下ろすように囲んでいる男子二人がいるようだ。
「キミさ、外部生のぽっと出のくせに何なのマジで。調子乗ってダンクなんかしちゃって、レギュラー狙ってんの?」
「なれるわけねえだろぉがおめぇがよぉ。だからぁ、おとなしくしときゃいいんだ、よッ!」
「うっ」
うずくまっている生徒の腹に蹴りが入る。
おいおいマジか。
モロいじめられてんじゃねえか、あいつ。
こんな進学校でもやっぱりいじめってあるんだな。
うずくまっている生徒の制服は砂埃にまみれ汚れていた。
会話から察するに部活内でのいじめのようだ。
ダンクがどうのと言ってたから十中八九バスケ部。
外部生として入ってきた奴が目立っていたことに、中学から続けてきた内部生が腹を立てたっていうところだろうか。
……マジでしょうもねぇ。
おそらくいじめられてる奴は、俺と同じくこの春から入学してきた高1の外部生。
ご愁傷様なこった。
「ごめんなさい。もう部活は辞めます。金輪際バスケとは関わりません。だから許してください」
うずくまっていた生徒はそういいながら土下座に姿勢を変えた。
刈り上げられた頭を地面にこすりつけている。
……あいつ、もしかして同じクラスの渡辺か?
あれは先日行われたクラスでの自己紹介のこと。
「渡辺大地です!神高のバスケ部に入りたくて、和歌山県から上京してきました!みんな仲良くしてください!」
起立して元気よく自己紹介した渡辺は、パッと見180cmは優に超えそうな長身で、気合の入った五厘刈りだった。
いかにもスポーツ男子といった雰囲気で見た目も非常に目立つ、モブとは対極のような存在。
俺は、コイツには近寄らないようにしようとひそかに注意していたのだ。
やはり俺は間違っていなかった。
『出る杭は打たれる』んだ。
頭のいい人間が集まるこの進学校ですら、それは変わらなかった。
もしかしたら、と俺はどこか期待していたのかもしれない。
でも、環境が変わったとしても結局人間の本質は変わらない。
目の前の光景を見て、それがよくわかった。
俺は間違っていない。
……なのに、どうしてこんなにも心が落ち着かないんだろう。
ふつふつと沸き立つ何かを、頭でどうにか押さえつけているような感覚。
怖い。
今度は自分から湧き出る感情を直視することが怖い。
自分の本音に気づいてしまうことが怖い。
……俺は本当にどうしようもなく臆病な人間だ。
自分の本音なんて、本当はずっと前から気づいている。
気づいていないフリをしていただけだ。
「ん?なにかな?もっと大きな声でしゃべってくれないと聞こえないんだけど」
「これ、動画でとっとこうぜ(笑)」
渡辺の頭をパシパシはたく男子Aとスマホを構える男子B。
眼前の光景に、俺は強烈なめまいを覚えた。
……渡辺がお前らに何したっていうんだ?
渡辺はただ、ここで思いっきりバスケをしたかっただけじゃねえか。
そのために和歌山から受験して、はるばるここまで来たんだぞ?
……お前らはなんだ?そんなことをして何の意味がある?
ちっぽけなプライドが傷つけられたからって、こんなことで満たしてなんになるっていうんだよ。
その傷つけられたプライドだって、お前らの実力不足が原因じゃねえか。
……俺はこんなところで何してんだ?
自分を守るために、自分を偽って、本音を隠して、不知火から逃げて。
その結果がこれかよ。
自分可愛さに目の前であいつがいじめられているのを見て見ぬふりすんのか?
俺はいまだに過去のしがらみにこだわっている。憑りつかれている。
いじめられていたあの頃。
調子に乗っていた俺が悪いんだ。
こんな目に合うのは当然の報いなんだ。
もうやらないから許してください。
ごめんなさい。
頭の中で自分にそう言い聞かせていた。
そうすることでしか自分を守れなかった。
でも、俺の心はずっと納得していなかった。
俺がお前らに何をした?
何でこんな理不尽な目に合う?
許せない。
許せるわけが、ない。
だから俺は、万一面倒に巻き込まれても大丈夫なように、独りでずっと準備してきたんじゃないのか?
現実逃避だなんだと言いつつ本当は、あの時何もできなかった自分を変えたかったんじゃなかったのか?
あの時、俺を助けてくれる人間は誰もいなかった。
助けるに値する価値が、俺にはなかっただけ。
そう言い聞かせて自分を納得させた。
その事実を呪ったこともあった。
じゃあ、目の前のあいつは?
あいつは、あの時の俺だ。
いま、あいつに手を差し伸べられるのは俺しかいない。
『アンタにとって意味があることって何?価値があることってなんなワケ??』
『少なくとも、いまこの瞬間を本気で生きれないような奴の人生に意味も価値もあるワケないっての。……アンタみたいな奴は一生背中丸めて生き恥さらすだけの人生を送りゃあいい』
『そのかわり!アタシの前に二度とそんなしょうもないツラ見せんじゃねえ!!アタシの前でこれ以上生き恥さらすつもりなら、目障りだから死んでくれ!!!』
鈍器のように振り下ろされた不知火の暴言が、再度俺の心臓を強く打ち付ける。
その言葉が動脈を通して、全身へと行き渡っていく。
俺は震える体そのままに、影の中から一歩、力を込めて踏み出した。