08.パン屋とオーブン
パン屋では、夜明け前あるいは朝になってからパンを焼いた。昼前の正餐に間に合うことが求められていたため、都市では夜間労働が認められていた。
フランスでは聖人の日の前日や日曜日にパンを焼いてはならなかった。
イングランドでは1266年の法律以降、フランスでは15世紀後半になって、パンを焼く前にめいめいの店舗の刻印をパンに刻むことが義務づけられる。
捏ねる部屋とオーブンの部屋が別々のときもある。火災対策のために、オーブン部屋には漆喰が塗られていた。
農村では、捏ねたパンを共同パン焼き窯に持っていった。共同パン焼き窯は領主の所有物で、パン焼き職人が領主に賃料を支払って運用していた。共用のパン焼き窯すら無ければ鍋を重ねたりして蓋をして、炭の中に潜らせて焼いた。
都市でも地域によっては共用のオーブンが使われた。教会所有のオーブンが教区民に有償で提供されることもあった。領主だけでなく、市民や小作人が単独あるいは共同で所有することもあった。
既製品のパンの需要は14世紀から徐々に増加して自宅で捏ねなくなっていき、パンも次第に白くなっていく。地方であればあるほど遅れてその影響を受ける。
裕福な家庭ではパン職人を雇って私用のオーブンで焼く場合もあるが、自宅で作らずにパン屋から仕入れる場合もあった。自宅で焼くにしても数日おきに焼いた。パンはパン用倉庫に保管された。
城のパン焼き場には、複数のオーブンが設置されていることもあった。多くのパンを焼くためだろう。キッチンとは部屋を分けられていて、独立した建物を焼き場としていることもあった。
多くの場合、醸造の温度を保つためにオーブンの熱を利用したことから醸造部屋と隣り合っている。市内のパン屋でも同様の傾向があり、兼業が認められている都市では兼業していることもある。
パンをオーブンに入れるためにシャベルpeleを使った。シャベルには先端が角型になっているものと丸くなっているものがあり、また1つだけパンを載せられるものと、2つから4つ載せられるヘッドの長いものがある。
柄は木製で1m前後のものが多いが、倍くらい長いものもあり、ヘッドは金属製のものと木製のものがあった。
価格は16世紀後半のフランスで3スー9ドゥニエのもの、同時期のロンドンで1本1ペニーのものが確認できる。価格差は仕様の差だろう。
シャベルは一人で扱ったが、シャベルの上に生地を乗せるサポート役が傍にいることが多い。オーブンが熱いために半裸で作業する者もいた。
オーブンはレンガまたは石造り、あるいは粘土造りで、タイルが張られていることもあった。
出し入れ口が一つだけのオーブンbeehiveは、炉石を含めて高さ2m、幅は1.2m程度でサイロ型をしていた。また炉石の代わりにテーブルの上に載せた半球状のオーブンもある。オーブン後部が建物からはみ出ていることもあった。
パンを焼くときには、まず薪を入れてオーブンを十分に熱した後、残り火を消してから薪や炭を掻き出し、底を濡れた布で拭いてからパンを入れて鉄製の蓋を閉め、余熱で焼いた。移動式オーブンも同様の仕様で、二輪の荷車に半球状のオーブンを搭載していて、運ぶ係が前後に1名ずつ、焼く係1名で運用していた。
燃焼室と焼成室が分かれている二段式オーブンの場合は、一段目には薪を入れる穴があり、二段目の穴にパンを入れて焼いた。熱効率は二段式より一段式の方が良かったが、二段式は同じものを連続で焼くことができた。
一段式を使うときには高温で短時間焼くものを先に焼いて、低温で長時間焼くものを後で焼いた。領主の屋敷では使用人用の全粒粉パンを先に焼いて、次に主人のための小さく白いパンを焼き、ケーキをその後で焼いた。
薪束は小枝にしろ割って積んで乾燥させた薪にしろ14世紀まで一束100本で2シリングで売られていたが、15世紀には8シリング程度まで上がる。木炭価格は13世紀から16世紀半ばまで横ばいで、1クオーター分入った袋が10ペニー前後で売られていたが、一般的にはパン作りに使わず、麦芽やビスケットなどを乾燥させたりするときに使った。
薪が10本あれば何十個もパンを焼けた。小枝の方は細くて1m以上の長さがあり、着火し易かっただろう。16世紀のパン屋の絵画には薪と小枝の両方が併用されているように描かれているものもある。
薪の産地は近場の森であることが多い。オーク、トネリコ、ニレの枝や小枝が適当で、権利を取得して採取するか、販売されている木材を買った。病院には国王の承認によって無償で提供された。
薪以外にも藁や樹皮も使われていたが、ロンドンでは1212年の火災以後、夜間には使用を禁止された。
パイや肉をオーブン焼きにするときもパン屋のオーブンが有償利用された。依頼主は材料をパン屋に提供し、パン屋はパイの製造作業を請け負って対価を受け取った。イングランドでは不衛生であるとして料理人から残り物の兎肉や鶏肉を貰ってパイを作ることが1379年に禁止された。
ヴィアンディエには、魚やエビをオーブンで焼くレシピも提案されている。
パン屋の徒弟はイングランドでは2年、フランスでは4年で徒弟の修行を終える。親方が雇える徒弟の数は定められていなかったが、大抵の作業場では少なくとも親方のほかに2人、多ければ10人近くの職人がいた。発酵したパンを発酵台ごとオーブンの傍に持って行く作業は徒弟の役割だった。
徒弟の修行修めにパン作りの試験を受ける地域もある。時間内に一定水準のパンを焼かなければならなかったが、試験がない地域もある。どちらにせよギルドで宣誓をして一人前になった。
パン屋には女性も少数いたが、記録上は白パンではなく黒パンや馬が食べる豆パン作り、オート麦のケーキによく関連付けられている。ただ絵画には白くて丸いパンを作る姿も描かれている。
修道院では担当の修道士が焼くか、地元からパン焼きのための使用人を雇ってパンを焼いていたが、女子修道院でも同様に女使用人が雇われてパンを焼いていた。
焼きあがったパンは、パンかごの中にあふれるほど沢山入れた。かごはバスケットのようなものもあり、また笊のようなものもある。材質はヤナギの小枝で、価格は1ブッシェル用のもので6,7ペニー程度。
パンかごは頭の上に乗せて運んだ。片手でかごが落ちないよう補助していたようだ。
かごは、かご職人がヤナギosier(Salix viminalis)を編んで作っていた。ヤナギは湿地帯の植物で、テムズなど川沿いに植林され、林地の所有者がコストを掛けて維持管理──つまり剪定や警備をさせていた。15世紀のいくつかの記録にあるように他人の土地の柳の木を勝手に伐採した場合は訴訟された。
ヤナギは数年かけて育った後に刈り取る。そして剥けるようになるまで水に漬けてから皮を剥き、湾曲を整えて束ね、暗所で何か月か乾燥させてから籠に加工する。
ヤナギの皮むきが女性の仕事だったという言及は近世から近代にかけて見られる。
基本的にはヤナギの産地がかごの生産拠点だったが、ヤナギを輸入して加工する地域もあった。16世紀のロンドンではヤナギ1束1シリングで売られている。ヤナギはかご以外にも杖やウナギ用の罠、竈の燃料、ゆりかごなどに使われた。
パン屋は大体人口比で、都市において100人から1000人につき1軒存在した。パンは都市から5~10マイル離れた近郊のパン屋が持ち込むこともあった。パリでは土曜日を除いて郊外のパン屋は市内にパンを運んだり販売してはならなかった。
町のパン屋には店頭販売をしない卸売業者もいる。イングランドではパンを店で売ることが禁止されていた。
フランスでパンを購入するときは店舗に入らず、店先に張り出した板の上に陳列されたパンを購入した。並べられたパンには、かご入りのものと、かごから出された単品がある。客は購入するときパンの重量を測ることができた。
顧客の生地を焼いてパンにする業者もいれば、市場でパンを売る業者もいた。市場ではパンかごに入れられた状態で売られていた。そして市場で仕入れたパンを店で顧客に売るパン屋や、路上でかごに入ったパンを売る女行商人もいて、近くの農村まで行ってパンを売ることもあったという。
パンは荷馬車で運ばれることもあった。ロンドンではステップニー教区にパン屋が密集していたが、前述のように店頭販売が禁止されていたので、ブレッドストリートにあるパン屋市場で販売するために荷馬車で運ばれていた。
パリではグレーヴ広場やモーベール広場にパン屋があった。焼きすぎ硬すぎ膨らみすぎなど失敗作の廃棄パンは、毎週日曜日に聖イノセン墓地の傍やノートルダム大聖堂門前の広場で開かれるパン市場で売られた。
パンの価格は平時はサイズや品質に応じて固定されていて、普通のやつは1ペニーで二斤、また2ドゥニエで一斤。前述のように穀物価格次第で、価格ではなく重さの方が変動する。小麦が高騰したときには質の低いパンが出回るし、輸入も検討される。
半ペニーで一斤買うこともあるが、1/4ペニーとか3/4ペニーとかで売ってる商品があるように基本的に現金払いはせず、まとめて付けで払う。今そうであるように昔はどこでもそうだった。