07.パン作り──篩って捏ねて丸めて休めて──
挽いた小麦粉はパン屋に持ち込まれたり、あるいは自宅で捏ねた。
最初の作業は篩い分けで、前述のように馬の毛や亜麻を使った円形の篩でふるい分ける。篩を大きな箱のへりに固定し、袋に入った小麦粉をボウルで掬って篩に注ぐと、ふるい分けられた小麦粉が箱の中に納まった。より細かいものが必要な時は複数回篩にかけた。
箱には蓋があって、使うときに開けた。
篩い分けない小麦粉は全粒粉と呼ぶが、今と違って粗悪なものとして扱われていた。
パンを捏ねる際には、木製または石造りの底の浅い長方形の捏ね桶kneading tubの中で捏ねた。
捏ね桶は少なくとも人の背くらいの長さだったが、もっと長いこともあった。幅はその1/4程度、深さは手首が埋まる程度だったが、その大きな桶にいっぱいになるくらいの量の生地を入れて捏ねたようだ。また両端に取っ手がついていて、使わないときに吊るしたり、二人がかりで持ち上げることができた。
木桶の価格は1シリング前後。木製ではあるが、一本の木をくりぬいて作られていたため高価だった。鉢の方が安いからか(※第5部分の乳鉢と同程度だろう)、家庭では捏ね鉢を使うこともあった。
パン職人は、捏ね桶を机や台あるいは支柱の上に置いて腰の高さで捏ねていた。
しかし石造りの捏ね桶には持ち手がなく、台に乗せることが出来ないようで、古代エジプトのパン職人のように足で踏んで捏ねていたかもしれない。
パンを捏ねるための麺棒は16世紀になるまで確認できない。16世紀後半にはバルトロメオ・スカッピがパスタ作りの道具の一つにとてもシンプルな形状の麺棒を紹介している。
水を加えるときには三脚付きの水差しや、脚の無い水差しを使う。三脚があればそのまま温め、脚がなければ鍋で温めておく。またオーブンの傍に桶を置いて水を温めているような挿絵もある。となると、ぬるま湯程度だっただろうか。
井戸水を使うパン屋もあったし、川の傍にパン屋があることもあった。ロンドンでは品質の異なる小麦粉を混ぜてはならなかったし、湧き水をパン作りに使ってはならないという規則もあった。
ただ中世において入れる水の量は明確でない。近世の末にはパルマンティエが小麦粉の1/3の量が良いと言い、近代以降は5割から6割の水を入れた。
家庭では裕福ならば塩を加えたし、そうでなければ入れなかった。高級なパンを作るパン屋では入れていただろうが、イングランドではあまり入れない。
発酵させるためにパン種──サワードウも混ぜた。サワードウは捏ね桶に残った古いパン生地を漉き取り器で削り取って丸めたもの。サワーsourというだけあって生地を寝かせすぎたり、パンに入れすぎると酸味が付くことになる。家庭やパン屋がそれぞれ自家製のパン種を使っていた。
16世紀頃にはビールから酵母を取るようになる。
捏ね終えたら、次は切り分けて成形する。パン桶から小麦粉を塗した台の上に移して、手を使って切り分けた。パン桶に板を乗せて台にすることもあった。
販売するパンの重さは厳格に規定されていたので、パン屋は生地を天秤で測る必要があった。天秤の把手を片方の手で持って測るか、または天秤の把手を吊るして測った。
天秤の価格は7ペニーから10ペニー程度。
分銅に使われる鉛pile weightはコインや楔の形をしていて、対象の規定重量に合わせて乗せる種類や数を調整した。イングランドでは16世紀になって全都市で共通のものが支給されるようになる。
平均的な完成したパンの重さはイングランドもフランスも一斤(※450グラム)程度だった。水分が抜ける前はもっと重い。
またパンには産地や材料、挽き方によって等級があるが、それぞれ材料価格や品質が異なるので、それぞれに重量の規定があった。
細挽きして篩にかけた小麦粉から作る白パンmanchet/wastelは、粉の細かさで2,3種類くらいに分かれる。また粗挽きにして篩い分けずにふすまや胚芽を分離せず捏ねた全粒粉パンravel、ライ麦粉と小麦粉を混ぜたパンmaslin、トレンチャーにも使われるライ麦の黒パン(※全粒粉パンもトレンチャーに使う)や、田舎の人々の大麦パン、貧者が食べるオート麦のパン。穀物ではないが豆の粉を混ぜたりもした。
各種のパンは、フランスでは領主のパンとか騎士のパンとか従者のパンとか庶民のパンとか、あるいは一日オーブンに忘れられたパンoublieréとか、ふすまパンautopyrus、灰色のパンgrisとかそういった風に呼ばれていた。
イングランドでは1266年のパンとビール法に基づいて細挽き小麦粉のパン、粗挽き小麦粉のパン、全粒小麦粉のパンの三種類の重量規定を設けたが、実際は七種類の区分があったという。
同じ素材のパンでも倍のサイズだっり、半分のサイズのパンがあるのでややこしい。
パン屋は、特定の種類だけを専門にしているのが普通だったが、複数の種類を焼くこともあったようで、15世紀から16世紀にかけてのイングランドでは小麦粉パン作りとライ麦パン作りの兼業についての禁止令が出されるようになる。複数の種類を焼くならば、捏ね桶や作業台などの備品も複数所有する必要があった。
さらに各年の穀物価格によって規定の重量は変動した。パンの価格は常に一定であるべきという規定があったためだ。パンは質の悪いものほど重くなり、全粒粉のパンは小麦粉の倍近くの重さの規定があった。良い小麦粉のパンは一般的なパンの半分くらいになる。
ただし戦時の物資不足は品質を低下させ重量を減少させるだけでなく、パン自体の価格も値上がりさせた。
パンの重量審査は都市に応じて定期的、あるいは穀物価格の変動の度に選出された委員によって一斉に行われる。役人からの推薦だったり、パン屋ギルド内の推薦だったりするし、パン屋の親方の中から、またはパン屋でないギルドから複数人選ばれる。
重量不足のパンを作った際は、そのパンを取りつけた首輪をかけられ、台車hurdleに乗せられて市中引き回しの上で晒し台の刑に処された。ロンドンでは三回台車に乗せられたらオーブンを破壊された上に市内で商売できなくなった。重量不足のパンは処分せず、古いパンや焦げたパンと同じく特定の市場で安く売ることになっていたが、悪質であれば全て没収されて貧者に配られた。
パンに砂などの不純物が入っていたり腐敗していた場合も同様だが、こちらは売り物にされなかった。
市民から受け取った小麦粉を捏ねる際に、一部をちょろまかした場合も同様の刑罰を受けた。
パンの成形は基本的に上が丸くて下が平らなブールBoule状で、台の上にパン生地をいくつも並べて、度々ひっくり返した。両手で一つの生地を丸める者もいれば、器用に片手で一つずつ丸める者もいた。常に同じ重量のパンを作ることはできないことから、小売業者向け12個セットを適正重量で売るために重量を調整するための追加の小さなパンもついでに作られたが、こちらは全体的に丸かった。
祝祭のために特別な成形をすることもあった。
装飾的なパンには、例えば12世紀にはプレッツェルが現れ、15世紀にはブリオッシュが登場している。またベルギーにキュイネcuignetsと呼ばれる降誕祭の日に食べるパンがあり、楔cuneorumの形をしていた。フランスには生地を茹でてから焼くエシュドéchaudéがあり、また二度bis焼いたcuitビスケットbiscuitが作られた。
16世紀の良き家政婦の本には、おそらく特別な、酵母入りパンの作り方がある。この高級なパンは「卵の黄身に火を通して、クルミ大のバター、よく挽いた小麦粉一掴みを混ぜ、麵棒で紙のように薄くなるまで叩く。つぎに溶かしバターを塗りつけ、生地を柔らかく巻き上げて、3インチの長さに切って手で平らにする。それから紙の上に並べてフライパンまたはオーブンで30分焼く。このときオーブンは熱くなりすぎないようにする。続いて溶かした無塩バターの中には生地を入れ、十分にバターを吸ったら取り出して皿に盛り、砂糖を少々塗して、好みに応じてショウガやシナモンを加える」という。
またおいしいビスケットの作り方もあり、「1ポンドの小麦粉に1ポンドの砂糖を混ぜ、1/4ポンドのアニスシード、卵4つ、2/3匙のローズウォーターを加えて土鍋で混ぜる。木製の型に半分くらいまで入れて、オーブンに1時間半ほど置く。それからバターを塗り、薄く切って再びオーブンで焼く」という。
パンは発酵するまで寝かせた。成形用の台から発酵させるための板に移して、オーブンの傍まで運んだ。ドライイーストと違って発酵にはとても時間がかかった。そして何時間もかけて膨らんだパン生地が、オーブンの中に迎えられる。