06.パンを挽く技法
小麦やライ麦は8月から9月に鎌を使って収穫し、束ねて乾燥させる。それから殻竿で叩いて篩にかけて、藁と穀物を分ける。収穫作業はとにかく人手がいるので家族総出でやるだけでなく、収穫人を雇った。高めに刈り込まれた農地は放牧地になり、藁と籾殻は乾燥させて冬の飼料にしたり、寝具に加工したり、火種として使ったり、そのまま農地に放置して肥料にした。
穀物を粉にする作業には、前項で触れた碾き臼が必要だった。
初期中世において、小麦粉は女たちが手挽きの石臼で粉にしていた。この技術はずっと昔──紀元前4~5世紀頃からあった。
手挽きの石臼は前述のように直径10~30cm程度のサイズだが、大半の石臼は直径10cm程度。比重を3程度として重さは1~2kg程度だが、回すのに必要な力はもっと少なくて片手で回せる程度にはなる。しかし必要な量を得るのには、何時間も回さなければならなかった。
水車が普及するとともに粉屋で挽いてもらう制度が作られた。粉屋は領主あるいは都市共同体の雇われだが、給与を受け取ることもあれば、客の持ってきた小麦粉の一部を受け取って領主に数ポンドの賃貸料を支払うこともあった。粉屋の取り分は大体が13分の1、16分の1、20分の1、24分の1のいずれかで、挽いた後に取り分けた。
一日で挽く小麦の量は3ブッシェルから100ブッシェル近くまで水車によってまちまちだった。1ブッシェルの小麦で2ポンドのパンが30個くらい出来た。
粉屋は粉挽きをするだけでなく水車の管理と整備も担当していて、石臼や水車を洗ったり、車軸に獣脂を塗ったり、摩耗した石臼の歯を刻み直していたが、大規模な補修が必要なときは(※契約に基づいて)所有者あるいは粉屋の負担で車大工や何人もの人夫を雇って修理した。大きくすり減った石臼(※一年で5~10cmすり減ったという)は新しいものと交換せねばならず、所有者と粉屋とで市場に買いに行った。
また粉屋は農地を所有していたり、小屋沿いの川に魚やウナギ用の罠を設置したり、水車池で魚を育てたりしていて、その一部を領主に税として支払っていた。
領主は水車によって大きな利益を得たため、14世紀イングランドでは穀物製造のためには過剰な数の水車が建造された。
水車の運用によって何時間も仕事の時間が削減された女たちだが、粉屋への支払いを補うために働く必要はあっただろう。当初は主に繊維業や醸造業に従事したように思うが明確でない。
粉屋に粉袋を運ぶ作業は男も女もやった。量が多ければロバや馬、ときには馬車を使って運んだ。彼らは挽く順番が来るまで製粉所に留まり、挽くのを待つ間はカンタベリー物語にあるように粉屋がちょろまかさないよう監視していた。また都市部ではパン屋が優先的に粉を挽いてもらう権利があったり、粉屋の使いが顧客の家を訪問して穀物を受け取り小麦粉を配送している場合もあった。粉屋の所有者や職人には男も女もいた。女の所有者は勿論相続しただけだったこともあるが、直接経営していたこともあった。
製粉所は共同体内に複数あることもあった。もともと小作人は使用料を支払った上で領主の製粉所を利用しなければならなかったが、13世紀には小作人に譲渡されるようになり、農家兼粉屋として水車を経営するようになった。のちに領主の製粉所は領主に再び接収されたり、新興ジェントリに製粉所が7年間かそれ以上の期間貸与されるようになるが、同様に期限付きで小作人(※主に粉屋)に貸与されることもあった。
一方、自由民は安い製粉所を探した。
都市の製粉所は都市共同体から個人に有償の短期間契約で貸与された。そして所有者や、所有者の雇った職人が粉を挽いた。職人や徒弟は何人雇ってもよかった。日曜日に働いてはならず、夜勤も禁止だった。都市部の粉屋はパン屋を兼ねることもあれば、兼業が禁止されているところもあった。
動物の力を使う石臼も古代からあり、主に馬とロバが使われていた。牽引用の動物は高価で8~30シリングほどだったが、農耕にも利用できる点や、飼料コストが人件費より安い点から有用とされていた。2頭セットで取引されているのを見ると、基本的には2頭立てだったようが、1頭立てのものや4頭立てのものもあった。中世においては主要なシステムではなかったが、急遽製粉需要が増えたときや、ほかの製粉施設が破損したときに必要とされた。
水車も帝政ローマの頃から知られていた。後期ローマから初期中世にかけての水車は主に水平式という歯車を使わない水車だった。これは横向きにした水車を水路に置くもので、水車上部に樋が設置されていて、桶から水を流して水車を回転させた。製造コストは低いものの小型で、また手で挽く石臼よりずっと高価だったため、私的利用に留まっていた。
11世紀のイングランドで記録されている膨大な数の水車はこちらだろう。
中世盛期には、水車は下掛け式──いわゆるウィルトウィウス式水車に移行する。都市部の水車は基本的にウィルトウィウス式だった。こちらも古代から技術はあったのだが、これまであまり作られなかった。
これは水受けの羽根つき車輪、縦回転を横回転に変えるための歯車が付いている2つの車軸、高さの調整できる直径0.8m~1m程の大きな石臼、粉を入れる投入口、篩のついた排出口で、車輪の大きさは1.8mから6mまで様々なものがあった。水車を運用するとき、石臼は0.5~1秒で一回転し、水車は5~10秒ほどで一周した。水流をせき止めれば水車は停止した。
中世においてウィルトウィウス式水車の製造や修理のための高いコストは領主や修道院、都市共同体によって賄われ、特に12世紀から13世紀にかけて急増した。
ジョゼフ・ギースはそれぞれの性能について、手挽きで0.5馬力、水平式がそれより少し多い程度、下掛け式で3馬力、上掛け式で40~60馬力だと書いている。
水車用の石臼は15~60シリングで、手挽きのものよりずっと高い。地方から陸路で運ばれるものは特に高く100シリングを超えることもある。フランス製は質が良く、ドイツ製は安価だった。また歯車は一つ6~10シリング、車輪は3~10シリングだった。ほかに歯車を取り付ける木工製品と細々とした金属製の部品。それに加えて建屋が要る。これは装置の振動に耐えうるほど強固でなくてはならなかったし、大抵は石材か木材の壁で囲っていた。ここまでで10~20ポンド(※200~400シリング)。さらに河川や水車池の整備が加わると100ポンドを超えることもある。
小舟に水車を乗せる近代の外輪船のような舟水車もこのウィルトウィウス式だったという。こちらは2つの水車を備えた推進力の無い係留された艀で、連環のように船と船同士を繋ぎ合わせて最も流れの速い場所に設置された。6世紀ごろから記録はあるものの、初期のものに水車の形式に関する言及は見えない。船に乗せる水車自体は近世末まで使われていたが、通常の水車と異なり、川の増水に強い一方で挽き具合が安定しなかった。
いずれにせよ水平式は13世紀から中世の終わりまでにかけて減少し、一般的ではなくなった。
水車小屋は大抵村か町あるいはその近くを流れる川沿いで、集落のより上流にあるか、または橋の下にあった。14世紀パリの橋の下に設置された水車の図版があり、粉挽きが小舟に乗って粉袋を担いで移送する様子が描かれている。
城の水車小屋は外郭の傍に置かれた。基本的に川沿いか用水路沿いにあり、周辺には池がある程度(※水車池であり、魚も育てた)で、他の施設はないように見える。城の水堀の水が使われることもあったようだ。
中世晩期には水門や水車池、調速機によって水量が調整されるようになり、また水車の構造は下掛け式から上掛け式や胸掛式に移行する。水車の板は羽根から桶状になった。そうして安定供給性が向上し、またそれまで水車が不適な場所でも使えるようになった。
安定した動力は粉挽きだけでなく、刃物の研磨、製鉄用のふいご、縮絨用のハンマー、皮鞣しにおけるタンニンの抽出などの産業に利用された。運用の始まった時期は異なり、縮絨は最も早くて11世紀、皮鞣しは12世紀から、研磨やふいごは13世紀からになる。
製粉用の水車が14世紀の流行病による人口減の影響による穀物需要の低下に伴い、工業用に転用されることもあった。
潮汐式の水車は7世紀頃に登場した。こちらは同時期に水平式とウィルトウィウス式の両方があった。海沿いに設置され、満潮時に引き入れた水を干潮時に放流することで水車を回転させた。
海沿いに造らなければならないために製造コストが高く、満ち潮のときには動かせないので実働時間は限られていたが、洪水によるリスクがなく(※嵐や高潮のリスクはあった)また一定した速度で放流することによって安定した稼働が保証されていた。
風車が登場するのは12世紀だった。当初は維持費もエネルギー効率も水車より悪く、また安定供給も不可能だったが、建造コストは安く(※10ポンド前後)、水資源の不足している地域で水平式に代わって利用されるようになり、また低地地方では潮汐式からこちらに置き換えられた。
巨大な柱を組んで風車の土台にした柱風車は12世紀から、レンガや石造りの建物に備えられた塔型の風車は14世紀に現れる。サイズはどちらも高さ10m程度。城壁あるいは都市壁沿いに建造された。
しかし前述のような水車性能の向上と、ペスト以降の製粉需要の低下は風車の投資的魅力(※特に領主層にとって)を引き下げ、風車は15世紀には使用されなくなった。
風車は16世紀半ばになって再び製粉に採用されるようになる。産業の需要の方に水車が求められ、穀物需要のために風車に投資が向けられたためだ。
風車の構造は風力を使うことを除けば大体逆さにしたウィルトウィウス式に似ている。ただ最適な効率にするために風車が風を受ける方角を調整する必要があり、そのためにロバや粉挽き自身が補助動力として使われた。風車の帆はとても重かったが、向きを変えるだけならば人力でもできたようだ。また帆の回転を止めるためのレバーがあり、下げるとブレーキホイールが引っ張っられて風車の回転が停止し、持ち上げると作動した(※上げた状態でレバー掛けに置く)。
中世の村では焼く直前に小麦を挽いて粉にした。都市では小麦も小麦粉もパンも売られていた。
都市の小麦は周縁地域や郊外から水路または陸路で搬入された。パリでは商人長官によって小麦を販売する権利を与えられた商人が販売し、購入する際は必要があれば計量官が計量器を使って計量し、国王の署名が与えられた。
イギリスでは14世紀に計量に関する統一的な規制が作られた。
近場で小麦を確保できるならば小麦商人をパン屋兼粉屋が兼ねることもあったし、そうでなければ専門に扱う商人もいた。
そして小麦粉が出来上がったら、次は捏ねて焼かなければならない。