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05.フライパンやその他の調理器具について

 フライパンは鉄製や真鍮製、銅製、青銅製、そして陶器製。語源は炒め物をするための皿または鍋。

 鍋と違って底が浅く、長い取っ手が片側についている。取っ手に木製の柄がリベットされることもあった。容器のサイズは15cmから35cmほどで形状も現代のフライパンに似ているが、現代のものよりずっと重くて3kgから5kgくらいある。100リットルの容量を持つ特に大きなサイズのものもあった。

 陶器製の価格は安くて、ほんの半ペニー程度。金属製フライパンの価格は3ペニーから2シリング。主に炒め物を作ったり、または蓋をして灰の中に入れてパンケーキを作るために使っていた。

 スキレットの価格も同じくらいで4ペニーから2シリング程度。金属製のもあれば陶器製のもある。中世においてスキレットの形状に見える調理器具はあったものの、ポスネット(※ピプキンの別名)との混同が見られる。

 どちらも鍋のように三脚が取り付けてあった。また三脚が無いこともあって、そのときは三脚金具の上に置いたり、火床にそのまま置いた。


 フライパンが使われるのは串焼きに出来ないようなものを焼く時で、水分の多いものや、細かく刻んだものなどが該当する。具体的には卵トーストやオムレツ的なものを作ったり、みじん切りにした玉葱、挽いたパンを炒める時や、パン生地でタルトなどのペストリー的なものを作る時だ。また200ml程度の豚脂を注いで揚げ物を作る時や、魚に小麦粉を振って脂を流出させないようにして焼くときにもフライパンを使った。焼き串でローストするときに、受け皿の代わりにフライパンを使うこともあった。

 揚げ物にはチェイファーchaferと呼ばれる陶器あるいは真鍮の容器が使われることもあったようだが、手を温めたりするのに使われているともあり、はっきりしない。



 魚を焼くときには焼き網を使うこともあった。現代でも使われるような四角い縦格子状をした鉄製または木製のグリルで、縦または横の片端に取っ手があった。三脚の上に置くことも出来ただろうが、四つの角にそれぞれ短い脚があり、鉄製ならそのまま火床に置けるようになっていた。ひっくり返すときにはトングや鉤が使われていたようで、中世の絵画にはたびたびセットで描かれている。

 焼き網のサイズには大きなムラがあり、少なくとも1kgから10kgのものまであった。価格も1ペニー半のものがある一方、10シリング近くするものまである。

 焼き網で焼く魚料理としては「あらゆる肉料理のための調理指南」に魚をグリルで焼くものがあり「焦げ付かないように弱火で焼いて、ヴェルジュースを掛ける」

 またブイヨンやワインに浸したパンをグリルで焼いてトーストにしたり、レバーを焼いた。



 初期中世の頃は、穀物を挽くために石臼を使っていた。

 手挽きの石臼は幅5cm~30cm程度、高さ5~10cmほどの円柱状の石材を二つ積み重ねたもので、挽くものを入れるための穴が上の石の中心にあり、手で回して挽くための垂直なハンドルが外周付近にある。花崗岩製で、産地が遠ければ輸入していた。

 価格は1~2シリング程度。大きければ大きいほど高いし重い。

 ハーブ、スパイスを挽くだけでなく、肉を細かく刻んだ後に磨り潰したり、骨を取った魚を摩り下ろしたりもした。


 12世紀頃から製粉用の水車小屋が各地で建てられるようになると、次第に農村で石臼の個人所有が禁じられるようになって(※2世紀ほど掛けて)乳鉢と乳棒への移行が進んだ。ハーブやスパイス、豆や麦、胡桃に栗に生姜やアーモンド、熟成させてないチーズのほか、豚挽肉を作るときに使うこともあったし、鶏ガラも肉ごと潰した。使われなくなった石臼は建物などの石材に流用された。

 乳鉢は石製か真鍮製か陶器製、乳棒は鉄製か木製。

 石製の乳鉢は石灰岩に10cm程度の穴を彫ったものだが、彫る石のサイズは一定でない。穴の底には刻みを付けていた。陶器製の乳鉢は口の大きい水差しに近い形状でサイズは幅20cm程度、高さは10cmから30cmくらい。磨り潰しやすいように砕いた石英を混ぜて焼成しており、取っ手が付いていることもあった。真鍮製のものはカップ状で10kgから15kg程度だが、80kgくらいの巨大なものもあった。

 ラトレル詩篇に描かれる乳棒は身長の二倍ほどの巨大な木製の棒で、両端が太く、昔の杵のようである(Luttrell Psalter, f.207)。鉄製の乳棒は4~5kgくらいで、どちらも磨り潰すというより突き潰す作業に向いていただろう。裕福であれば複数の乳鉢を所有していて、香りが混ざらないように潰すものによって使い分けた。古代より石臼挽きが女の仕事と結び付けられがちだったのに対して、乳鉢と乳棒の作業は主に男が担当しているようにみえる。

 真鍮製の乳鉢は4ペニーから7ペニーで、石材の乳鉢だと2~3シリングしたが、木製の乳鉢は1ペニー程度だった。乳棒は4~5ペニー程度。

 乳棒と乳鉢は1~2シリング程度のセットで売られることもあったが、合わせて10シリングや20シリングくらいの高価なものもあった。料理用だけでなく、薬を作ったり、染色するためのものも売られていた。

 パリでは石臼や乳鉢はモルタル職人Mortellierが作っていた。石材だけでなく様々な材料で乳鉢を作っていたようだが、ギルドは結成されなかった。


 すりおろしには下ろし金も使われた。下ろし金は、複数の突起がついた板と湾曲したハンドルで構成されている。下ろすものは主にパンや熟成チーズ、ナツメグで、削るものによって使う下ろし金を使い分けていた。

 パンを下ろすのはスープに入れてとろみをつけるためで、チーズは他の調味料と一緒に振りかけたり詰め物に入れたりするために粉にする必要があったし、ナツメグは固かった。

 下ろし金は基本的に金属製で、価格は4ペニー程度。大型のものもあって、そちらは1シリングを超えた。



 小麦粉を篩うための網目状のふるいには、主に馬の毛が使われていたようだ。挽いたハーブやスパイス、砂糖や塩やパン粉も篩った。

 ほかに干し魚を潰さずほぐすように叩くための木槌や、オレンジなどの果物を絞るのに使われる濾し器もあった。羊毛やリネンで作られた布製の濾し器は、ワインやビールを澄ませるときや、卵や豆やアーモンドやミルクなどをスープに加えるときにも使った。

 木槌は1-2ペニー程度。ふるいは1~4ペニーで、篩職人が作る。濾し器は1.5~4ペニー。

 また15世紀頃から水切り用の笊も見られるようになる。金属製または陶器製の無数の穴の開いた10~15cmのボウルで、使い勝手は悪そうに見える。



 やかんは形状や名称(※kettleの語源が鍋釜)からしてイングランドでは鍋釜と区別していなかったようだ。鉄兜のケトルハットはイングランドで採用され、鍋代わりにも使われた。

 一方でフランスではコクマールcoquemarと呼んだが、こちらはラテン語の壺が語源になる。形状は持ち手のある陶器の壺で、赤色で塗られていた。



 砥石は刃物の切れ味を維持するために必要な道具で、イングランドの砂岩製の砥石はドイツのモーゼル地方から輸入されていた。価格は1個1ペニー。用途によってサイズは異なるが、いずれも吊るすための穴が開いていた。

 中世では虚言の罪に問われた犯罪者は、首に砥石を掛けて市場の晒し台に立たされた。


 火を起こすのには火打石、火打石を叩きつける打ち金、そして火元が必要だった。中世の人々はナイフ同様、火打石と打ち金を携帯していた。

 メナジエ・ド・パリは煮沸した胡桃の木の灰を天日干しするか燻して乾燥させ、使うときには木槌で砕いて火元として使うよう薦める。

 火床を調整するトングは1mほどの長さで、大抵火元のそばに置かれていた。



 水差しは陶器製で、13世紀頃まで三脚が付いていた。15世紀には平底になり、注ぎ口を持つようになる。取っ手は片側か両側、ときには沢山ついていた。

 サイズは500ml入りのものから5リットル入りまである。14世紀イングランドにおける価格は0.5~3ペニー、同時期のディジョンでは5ドゥニエ。石器製に真鍮製やピューター製のもの、金銀で作られた高級品もあったし、13世紀頃からは鉛ガラス製も出てきた。ガラス製は専らワイン用に使われた。

 陶器の水差しは緑や赤のカラフルな釉薬で塗られただけでなく、櫛目文様や動植物の装飾が施された。

 水差しは庶民なら食器棚に、城ならば水差し用の倉庫に保管されていた。饗宴用のホールでは樽から水差しに移し替えてきたワインを客に注ぐために使われたり、客の手を洗うために井戸から汲んできた水を水差しでボウルに注いだ。


 キッチンでも水差しが使われていたが、鍋に注いだり調理道具を洗うため大量の水を用意するのにバケツが用いられた。木製のものと鉄製のものがあり、14世紀イングランドでは前者は1.5ペニーで、後者は5ペニー。

 バケツは絵画ではほとんど描写されないので、キッチンに持ってきて水差しに注いだのだろう。

 宮廷では饗宴の準備のために水を何度も井戸や川から汲み上げて運ぶ必要があり、そのための水運び職人が何人も雇われた。バケツは直径20cmくらいのサイズで、調理で出たゴミや食事の廃棄もバケツに入れた。

 フランスの都市では13世紀頃から19世紀の終わりまで、水運び人Porteur d'eauがバケツ2個をつけた天秤棒を担いで水を売っていた。水道開発は行われていたものの、人口増に追いつかなかったためである。

 イングランドでも十分な給水の得られない一部の都市では水運び職人Waterladerによって1ブッシェル単位で水が売られていた。

 水運び職人は組合を結成していて、必要があれば共同で作業し、共同でボイコットした。しかしイングランドでは17世紀頃までには導管が整備されて運び屋は見られなくなった。

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