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04.ぐるぐる回す肉焼き機

 いわゆるモンハンの肉焼きである。

 取っ手の付いた串に肉を刺し、Y字の支柱に掛けて回す。中世が終わるまでは裕福な家庭の大半と、一部の庶民が肉を回して焼いていた。ヴィヨンが肉屋で金持ちの振りをして焼き串を盗んだことを詩にしているから、肉屋でも売っていたようだ。


 肉を回す時間はといえば、メナジエ・ド・パリに脂が滴らなくなるまでとか、焼き色が付くまでとか、焦げ目がつくまでなどと書かれている。

 これでははっきりしないので、かなり時代を下って19世紀にはアントナン・カレームが豚の串焼きについては1時間15分、鶏は45分回し続けるようにと書いていて、またボーヴィリエは羊肉の串焼きについて1時間半から2時間、薄切りにした兎肉の串焼きは15分、鶏の丸焼きは1時間焼くと書いている。

 オーブンで焼くより串に刺して回した方が良いと主張した20世紀の料理人エスコフィエは食材やその大きさ、そして火力の強さによって異なるので経験に頼るようにとだけ書いた。

 また火力に関しては16世紀の料理人バルトロメオ・スカッピは多くの串焼きについて、最初は弱火でじっくりと火を通し、中まで火が通ったら火の勢いを強めるようにという。


 回す速度はそれ以上に明確でない。ダ・ヴィンチが考案した自動焼串回転機(スモークジャック)の説明では、ゆっくりadagioというテキストだけ確認できる(Codex Atlanticus,p21)。19世紀に造られた機械式の肉焼き機には、20秒で一周するものから12分で一周するものまであった。



 串は基本的に鉄製で、用途によっては木製も使っていた。裕福なら銀製の焼き串も使った。15世紀の料理人シカールは13フィートつまり4mの鉄串を使うことを推奨している。確かに中世の図版に描かれる串は明らかに長くて、鶏の丸焼きを五羽まとめて焼いているものまで有る。(Bodleian Library MS. Bodl. 264 fol.170v)

 しかし実際どこまで長かったのか。別の時代を見ると、古代ギリシャでは1m程度の焼き串を使っていて、初期中世には1.2mの鉄串が使われた。18世紀以降で残っている骨董品も同程度の長さである。とはいえ他の時代と食事のあり方は異なる。シカールの提案する4mの串も日曜日の饗宴用に必要な調理道具の一つとして書かれている。

 串には四角いものと丸いものがあって、それぞれ肉用と鳥肉用に用いられた。また詰め物を焼くために細い串を使っていた。

 串の一方の先端は尖っていて、もう片方は取っ手。取っ手がクランク状になっていることもあった。串を支える支柱は多様で、金属や陶器、そしてレンガだった。串の高さを変える機構は16世紀には見られるようになる。

 鉄製の焼き串の価格は14世紀から15世紀のイングランドで3ペニーから2シリング6ペニーまで幅広い。恐らく大きさによって価格が異なった。

 木製の焼き串の材料にはハシバミやセイヨウネズの枝が使われた。


 焼き串の下には、脂受けの為の皿が置かれていて、肉脂を集めていた。皿は陶器製か金属製。複数の肉を串に刺している場合、皿は横長のものが使われたり、あるいは同じ数の皿が並べられた。

 この肉脂を柄の長いお玉で掬って回している肉に何度も掛けたり、皿から鍋に移してソース作りに利用した。


 火の上で串を回すとき、脂を受ける皿は何処にあったのか。

 図版を見る限り、皿の真上で肉が回されているから、火の真上ではなく、火の側面や斜め上だったかもしれない。ときには鍋が煮られる横で、その火を借りて肉を回していた。


 そのほか回す人間が直接熱気を浴びないように串に盾が設置されることもあった。

 焼き串を回す作業は料理人の見習い徒弟が担当した。フランス国王シャルル5世の料理長タイユヴァンもかつては焼き串を回していた。

 イングランドの王室では王の小姓petit sergentが戴冠式の肉焼き係を担当していた。



 さて、ここから調理に移る。

 まず使う串は肉を刺す前に綺麗に洗うように、という指摘をシカールが行っている。洗い物も徒弟の仕事だが、焼き串係とは別の徒弟が担当することもある。

 豚肉や魚、一部の鳥には焼く前に予めお湯を通していた。湯通しは現代のように脂質を落とすのが目的ではなく、柔らかくするのが目的だったようだ。

 それから串に刺す前にラードを塗ったり、スパイスを振りかけた。鶏肉であれば皮を剥いだ。

 詰め物をするときはこのときに詰め込んだ。胡椒とサフランと卵、ナツメグと豚ひき肉と卵、チーズとサフランと栗と卵、チーズと骨髄、香草と酢、ヴェルジュースとニンニク、玉ねぎとハーブ、磨り潰したサーモンといった風に色々な組み合わせの詰め物を指で押し込んでから、木串で縫い合わせた。

 鶏レバーは切り分けてから串に刺して焼いた。またミンチにした豚肉を串焼きにすることもあった。この場合は挽き肉にスパイスと卵を混ぜて丸め、茹でてから木串に刺して焼き、仕上げに溶いた卵黄やパセリ粉を塗った。


 多くの中世の図版は鶏の丸焼きを描いている。また中世の料理書を見ると、野鳥や子豚の丸焼きについても書かれている。牛肉は薄く切って、羊肉や鹿肉は部位で切って焼いた。

 鶏肉にしろ子豚にしろ、丸焼きならば基本的には後方から頭部に向かって串を刺した。複数焼くときは前述のように同じ種類の肉を繋げて刺した。

 小姓は受け皿に溜まった脂を掛けながら肉を回した。回す役と脂掛けの役を複数人で分担することもあった。脂だけでなく、鶏肉に溶いた卵黄を少しずつ掛けて金色にすることもあった。


 魚やウナギも串で焼くことがあった。魚は一度煮てから串に刺して焼く。ウナギは皮を剥いで焼いた。

 そのほかに焼き串を使うものとして、潰した豆と卵を混ぜて炒めてから串に刺して焼いたり、林檎に砂糖を詰めて串に刺して焼いたりもした。



 焼き上がった肉に、様々なスパイスを混ぜたソースをかけたり、あるいはただ単に塩を振って完成。

 丸焼き用のソースには主にカメリナソースが使われていた。

 ヴィアンディエによれば、カメリナソースの作り方は、生姜にシナモン、クローブ、ギニアショウガ、メースを混ぜ、好みに応じて磨り潰したロングペッパーを加え、酢に浸したパンを絞ってから、全部まとめて濾して完成。必要なら塩を加える。

 またメナジエ・ド・パリのレシピを見ると、生姜、シナモン、サフラン、半分にしたナツメグをまとめて挽き、ワインと混ぜる。それから水に浸した白パン粉を乳鉢で磨り潰してからワインを加えて濾す。そして全部を鍋で煮て、最後に赤砂糖を加えて冬のカメリナソースが完成。夏のカメリナソースは煮ないだけで他は全て同じ。

 シカールの「料理について」にあるカメリナソースも似たようなレシピだが、アーモンドや豆を潰して加える点が異なる。

 スペインの料理人ルペルト・デ・ノラもカメリナソースについて言及しているが、こちらには普通のカメリナ、白カメリナ、雑なカメリナの三つがあり、いずれもザクロの粒や果汁を使う。

 他のソースとしては、焼き串の下に垂れた脂、微塵切りした玉葱、ワイン、ヴェルジュース、酢を混ぜたソピケソースや、生姜と酢を混ぜただけのシンプルなソースも使われた。



 16世紀には滑車と錘を使った機械式の大型肉焼き機のほかに、足の短いターンスピット犬やガチョウを使う回し車式肉焼き機が使われた。犬は吠えるし、延々と回すのを嫌がったりするのでガチョウのが良いとされていた。走らない犬に石炭を投げつけたこともあったという。また徐々に大衆が回した焼き肉を食べるようになった。16世紀半ばの画家ブリューゲルは「謝肉祭と四旬節の喧嘩」の中で豚の頭にソーセージ、鶏肉を串に刺す大衆の姿を描いている。

 後には水車や煙突効果、バネやゼンマイで回すものが出てきたり、黒人奴隷が犬の代わりに利用されたりしたが、19世紀にはとうとう電気やガスで串を回す機械が発明された。近代の機械式が均一の速度で回ることを称賛されているところを見ると、それまでのものは料理人の手による調理でない限り焼きムラが酷かったのだろう。

 しかし家庭用の肉焼き機は19世紀半ばには衰退する。ガスコンロの時代が始まったためだ。

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