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01.キッチンの場所と料理人


 中世の城のキッチンはもともと城内にある独立した木造の建築物だった。部屋の中心部に囲炉裏があり、その煙は屋根の開口部から排出されていた。

 また屋外に調理場が置かれることもあった。例えばバイユーのタペストリーには屋外調理の様子がある。そこでは二本の支柱に掛けられた吊り棒に大鍋を吊るして火で炙り、オーブンでパンを焼き、串の先端に鳥肉を括りつけて串焼きにしている。


 城に傾斜状の煙突が作られるようになった12-13世紀頃から、キッチンは城内の一階(※二階の場合もある)に配置されるようになる。キッチン塔というキッチン用のスペースや食料倉庫で構成される塔にキッチンが配置されることもあった。

 どちらにせよキッチンには宴会用の大広間が隣接していて(※あるいはキッチンのすぐ上の階)、完成した料理をすぐに提供することが出来た。また専用の螺旋階段を上がって、城主家族の部屋に食事を提供することもあった。


 キッチンには調理器具が置かれているが、食器類は近くの倉庫に置かれている。調理器具には例えばナイフと鍋が何種類か、フライパンやすり鉢、ボウルなど今でも珍しくないもののほか、大釜や水差し、肉を吊るすフック、石臼や桶、オーブンにオーブン用の鞴や薪などがあった。

 製粉所やパン焼き用のオーブンは別の部屋にあった。


 キッチン用の井戸は、キッチン近くの井戸小屋または隣接する井戸塔に設置されている。井戸塔ならば内部がシャフトになっていて城の各階層から井戸水を取水することができた。

 井戸のそばに石造りの流し台が附属していたり、パイプでキッチンの水周りと井戸が繋がっていることもあった。

 井戸は石積みで作られている。その深さは大抵は30~50m程度だが、数m程度の浅いものもあれば、ドーヴァー城の井戸など特に深いものは100mを超えた。基本的に地下水か湧き水を利用していたためだ。

 井戸自体は大抵一階または地下階に設置された。

 水の引き上げには滑車と鎖、金具の取りつけられた木製の桶が使われていて元々は人力で引き揚げていたが、15世紀にはウィンドラスwindlass(※クランク式の巻き上げ機)も使われるようになっていた。

 また補助システムとして雨水を利用するための貯水槽が設けられていた。近くに水源が無く、井戸が掘れない場合にはこの機能は必須だった。


 保存可能な食材や飲み物は、キッチン近くの倉庫または地下室に保管されていた。

 トレンチャーという皿代わりのパンを1~4日ほど保管する部屋や、肉を保存する部屋が別々にあった。また飲み物──ワインやエールも、キッチン近くの部屋にて樽で保存された。中世の始まりから終わりまでガラス製の瓶やコップは使用されてなかったし、コルクの栓も無かった。麦芽は小麦倉庫にしまっていた。



 城の料理人はみな男だった。料理長以下、全員が料理人ギルドに所属していて、スパイス係や串焼き係などから水汲み係までそれぞれに役割を分担していた。絵画を見ると料理人たちは長袖の服を着ていて、腰に前掛けを着けていたが、まだコック帽は無かった。

 また彼らとは別に何人かのパン焼き職人や粉屋がいた。


 一般的なギルドは夜勤禁止(※犯罪防止のため)。中世後期のロンドンでは夜九時までに店を閉めなければならなかった。見習いの徒弟には衣食住を保証していたし、高齢職人への金銭的支援もあったし、葬儀費用も工面していた。ギルド内では会則によって規律を維持し、技術開発とその情報の共有に努めていて、品質の保証もしていた。宴会を催したり、祝祭では町の広場で山車を見せびらかしたりもした。

 一方で、政治献金、長期的な訓練期間の強制、ギルド憲章による市場からの非ギルド会員の排斥、ギルド定員数あるいは入会員数の制限によって参入障壁を設けて市場や技術を独占していた。

 ギルドの収入は入会料金や年会費、会則違反の罰金からなる。

 ギルド長の長男がギルド長を引き継ぎやすい傾向にあったが、必ずしも長男が生まれるわけではないのでギルド員の中から選出されたり、ときにはギルド長の娘と結婚して引き継いだ。またギルド員同士も血縁関係またはメンバーの親族との結婚によって結びついていた。

 女性の所属するギルドは少ないが、主に小売業、繊維業で見られる。パリの絹織物ギルドのように繊維業ではまれに女性だけのギルドもあったし、他の様々な業種で相対的に少ないとはいえ存在は確認できる。豊かな職人ならば妻や娘が名義上親方を引き継ぐこともあるが立場は低く、ギルドの会議に参加することや祝祭に参加すること、ギルド長に就任することは滅多に出来なかった。


 料理人ギルドにおいて、徒弟の修業期間は二年間。市長や市議の前で宣誓し、手数料を支払うことによって(※血筋や縁故によっては無償になった)徒弟になれた。徒弟を辞める時は親方の了解が必要だった。

 ロンドンの料理人ギルドのギルド長は王宮の宴会で支度することが決まりになっていたが、15世紀にロンドン市長からの依頼が同時にブッキングされたため、あるいは当時二つあった料理人ギルドが合併したことから二人のギルド長が選ばれることになったという。



 都市に住む人々のキッチンは、経済状態によって大きく左右される。

 14世紀に書かれたメナジエ・ド・パリにあるように、とても裕福な家庭ならば料理人を雇うことも出来た。こうした家庭に給仕する料理人は、他の使用人よりも高い給金を受けていた。

 キッチンは、城と同様に食事をするホールの近くに配置されていることもあれば、離れた場所に配置されていることもあった。後者の場合、別棟として建てられていることもあった。そしてどちらにしても食糧倉庫はキッチンのすぐ近くに置かれていた。集合住宅であれば住居から離れたところにあるキッチンは共同で利用していた。

 キッチンには大抵は裏口があって、食材をそちらから運び入れていた。

 井戸は家と家の間や裏庭にあり、都市によっては各家がそれぞれ所有していたり、共同で所有していた。しかし大抵はトイレのそばにあったので容易に汚染された。公共の井戸を使うには使用料が必要だったし、汚染が酷いときには使用を制限された。

 チョーサーのカンタベリー物語には、郷士に雇われる料理人と裕福な職人に随行する料理人が描写されている。郷士の料理人が鳥小屋の鷓鴣や生簀の鯉や魳を調理したというように、裕福な家であればローマ貴族のように鳥小屋や生簀を所有していた。


 どんな家でもホールと私室はあったが、キッチンの有無は保障されない。15世紀の料理書ヴィアンディエに女性なら誰でも野菜の調理法を知っていると書かれているように、家にキッチンがあり、かつ料理人を雇えなければ家の女性が料理を担当したようだ。

 家にキッチンが無い場合、またキッチンの無い下宿に住む人々は、家のホールで調理するか、あるいは店で出来合いのものを購入したり、大衆食堂で食べていた。


 大衆食堂の料理人は、例えばカンタベリー物語の料理人の話において宿屋の主人が料理人をなじって言う描写の中にある。かの料理人は裕福な職人に随行する料理人で、ロンドンに店を構えていたようだ。宿屋の主人の言うことには、こうした食堂の料理人は肉入りのパイや鵞鳥を提供しているものらしい。さらに店にハエが集っていたり、腐ったパイを温め直している連中だとも言うが、実際に14世紀のロンドンの資料によれば古い食材を使った料理人は行政によって町の目立つ場所で一時間晒し台の刑を言い渡されている。14世紀から15世紀にかけて行政が生肉や生魚の販売に関する制限を加えるのに対して、商売人はパイの中に隠したり、ミンチにすることで抵抗した。


 出来合いの食事は、例えば農夫ピアズの夢に出てくるウエハース売り、あるいはヴィヨンの詩に出てくる卵を使った焼き菓子だったり、あるいはウサギや鶏の肉を詰めたパイ、リソルや炒めた豆を売っていた。

 彼らは食べ物を入れた籠を頭の上に載せていたり、あるいは荷車に小型の竈を載せて温かいパイを路上販売をしていた。


 14世紀に書かれた健康全書には調理をするメイドの姿が描かれていたり、14世紀初頭のヨークの労働規則違反に関する史料に女性の名前があるように、16世紀初頭のドイツの版画に描かれるように、女が職業料理人として働く機会は限定的ながらあったようだ。

 とはいえ基本的には前述のように小売りと繊維業が主であり、裁縫をするのでなければ、パンや牛乳、蝋燭や皿を売っていたりした。13世紀のパリのギルド規則によれば家禽を売る権利もあり、ヴィヨンは遺言詩集で家禽屋のマシュクー未亡人の名を挙げている。また酒類の販売は16世紀になるまで女の仕事で、農夫ピアズの夢でも女の酒売りが描写されている。



 農村では料理は妻の仕事だった。中世の人口の大半は農民なので、中世ではほぼ女性が料理を作っていたとみていい。勿論、富農は料理人を雇った。

 農村の家屋のキッチンは住居内の囲炉裏だった。農民の住居には、ホールを中央にして居住スペースと仕切りで隔てられた家畜部屋で構成されるノルマン式のロングハウスのほかに、家畜小屋を別棟にしてホールや居住スペースだけで構成される住居があり、ときには二階建ての住居もあり、貧しい農民のための1,2部屋だけのコテージもあるが、基本的に囲炉裏は建物の中心にあり(※2部屋なら片方の部屋の中心。もう片方の部屋は寝室)、煙は藁葺き屋根にある開口部から排気されていた。都市でも農村でも民家の煙突は16世紀から登場する。

 裕福な家ではキッチンの建物が別にあった。

 井戸は1つか2つ、多いときは4つくらいあって村全体で共有していて、立場によっては領主の所有する井戸を借りる権利があった。


 修道院の調理場は大食堂に隣り合っていた。

 料理人が雇われていて、僧侶が調理を手伝うこともあったという。修道院の一角にある部屋で暮らす隠者たちの食事は、修道院の使用人によって部屋まで運ばれた。

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