伝説の手作業
「壁越しの伊藤って子に、ボールを投げて上げて」
伊藤は思わず身構えた。ドアノブから手を離すことはなかったが、意識は壁の向こう側より、壁の上空に移っていた。いつ、どんな形状のボールが飛び込んでくるかわからないからだ。
「……ボールと見せかけて、バナナが飛んできたら、滑っちゃう。いやバナナというのは、アイテムの類じゃなく、パズルゲームにこんなタイトルつけてどうするんだって、ビクターのセンス疑いのゲームであって……。センスのないタイトルといえば、全米プロバスケットであり、NBAなる名称が当時の日本に浸透しきってなかった平成元年の頃だから、仕方ないとはいえ、WILLOWって字面はカッコいいけど、声に出して読んでみると、なんだか名古屋ぽくて台無しだね、キャプテンEDも当時はかっこよさげだったけど、今じゃEDってアレだし……。そんな事にうつつを抜かしてる場合じゃない。僕は備えるんだ。工藤と供にドアノブ握る誰かから、どんなボールが飛んでくるか分からないから」
「用意できた?」
工藤は、伊藤に話しかけたわけではない。伊藤もそれを承知しているのか、工藤にいちいち反応しないのだ。工藤の話しかける誰かは、うんともすんとも言わず、奇妙な鼻息を漏らした後、ドアノブから手を離しボールを投げる準備にとりかかった。
「ふ~ふ~?」
伊藤が初めて意識できた、誰かの実感が、鼻息であることは、不可思議な出会いと言えるだろうが、伊藤の身構えは解かれない。そしてチャンスが巡ってきたことを忘れてはいない。伊藤は飛んでくるボールに身構えつつ、戦力の薄まった扉防衛軍を打破する機会を虎視眈々と狙っているのだ。
ボールが飛んでくるのが早いか、それとも、伊藤が扉の向こう側に行けるのが早いか。名うての剣豪同士の剣の抜き合いのごとく、一枚の高い壁を隔てて、濃い緊張感で場は充満する。
「ボールは飛んできても、たかが知れている。ならば扉の向こう側に僕は行く!」
伊藤は賭けに出た。強行突破を狙ったのだ。防御の薄まった扉を押し込んで向こう側の世界に行くことを選択した。確かに、伊藤の言うとおり、飛んでくるボールはたかが知れているかも知れない。しかも飛んできたボールを律儀に返す必要もないのだ。ごっこ遊びに乗ったのは、あくまでもドアノブから手を離す可能性にかけたもの。伊藤の読みは、ズバリと当たり、ドアノブを握っていた誰かの離脱で、確実に戦力が薄まったのだ。工藤の策略を感じないわけでもないが、伊藤に絶好のチャンスが訪れたのは事実。
「僕は、チャンスを逃さない! 若貴人気で空前の相撲ブームの折に出たSDバトル大相撲 平成ヒーロー場所やら、ダッシュ四駆郎のミニ四駆人気にかこつけた普通のレースゲームであるダッシュ野郎みたく、格好のチャンスをのがなさい!」
伊藤は力をめいいっぱい込めてドアノブを押し込んだ。工藤だけが握るドアノブは、普通の男子高生である伊藤の力を込めれば、容易に押し返すはずだ。
「……どういうことだ? 押しても引いてもビクともしない?」
「うふふふ……。伊藤は固定観念に囚われていることがあるわ?」
「どういうことだ、工藤?」
「ドアノブに二人いた事は事実だし、その私に協力してくれた誰かが、ボールを用意するために、ドアノブから手を離したことも事実。でもねえ、伊藤は思い上がってることも事実なのよ。ぎゃんぶら自己中心派2ね。本当にさ」
「だからどうしてドアノブが開かない?」
「私の隠していたファミコンにとりつかれた話を聞きたい?」
「そりゃ聞きたいけど、今の優先事項じゃない。僕の知りたいことは、扉を押し込めない謎だ!」
「いいから聞いて、詳しくはあとで話けどさ。私の母親はある内職をやっていたの」
「内職?」
「そうよ、ファミリースタジアム87。賢明で聡明な伊藤ならこれだけで分かるわよね?」
「……もしかすると?」
「そうよ、私の母親は、えっちらとパッケージに87のシールを貼る内職をしていたのよ」
「……まさか、君の母親が、かの有名な……。だから、それと扉の開かない謎がどうしてつながる?」
「いいから聞いてよ。母親はね、あまりにも多くのシール貼りをしている内にね、一種の中毒になっちゃったの。87の受注が終わっても、中毒に収まりは見れなかった。その中毒は5年たっても治らず……」
「5年? 87年から5年後というと、僕と工藤が生まれた年?」
「そうよ、つまり私が母親のお腹にいるときも、母さんは、87のシールを貼り続けていたの……。私が生まれても収まりきらず、そして手の自由が効く頃になった私も母の見よう見まねでシールを貼りを真似しだした。あいにく私は中毒状態に陥ることはなかったけれど、幼き頃のシール貼りが、私の握力を女子の平均を遙か凌駕するほどに鍛えたみたいなの……」
「だからか! だから工藤、一人になっても、僕は扉の向こう側にオーバーホライゾンできず、悶々としているのか!」
「ええ。でもいくら私の握力がそのへんの女子高生といえど、この年まで来ると同年代の男の子、それが例え、伊藤みたく力強さと無縁の男の子としてもさ、力競べするとやっぱ叶わないワケよ。でも伊藤は、だいぶ力を消費している。一方の私は、伊藤のわからない誰かの協力の元、力を温存している。その差よ。その差が、扉の均衡につながっているのよ」
「……なんだと! 驚愕の事実!! 僕は、釣りキチ三平のドットの荒い釣り針の先がプルプルと震えるごとく、胸を震わせるしかない!」
伊藤は、もはや何もいいかせない。持久戦に持ち込んで、工藤の力が切れるのを待つこともできない。なぜなら伊藤には、壁越しに飛んでくるボールの恐怖が迫っているからだ!
「扉の開閉に時間がかかるとしたら、僕の注意の向ける先は上空だ。いったい工藤に協力する誰かは、どんな攻撃を仕掛けてくる?」