第一章9 偽りの物語
月明かりに照らされた山道を進む中、私はふと立ち止まった。
紅葉を背負う肩に、じわりと重さを感じる。
彼女の冷たさが徐々に体に沁み込むような気がして、無意識に背中の彼女を抱き直した。
「もう少しで魔術師の塔に着くから……」
自分に言い聞かせるように呟いたその時、森の奥から気配を感じた。
「ひひ……ひひひひひ……ひゃはははははッ!!」
それは喉の奥から絞り出されるような、濁った笑い声だった。
最初は小さく耳元で囁くように響き、次第に不自然に大きく膨れ上がる。
「ふふ……ふふふ……あは、あはは……ッ、ひゃあははははは!」
音程は不規則で、低い呟きから甲高い叫びへと変わる。
笑っているのか泣いているのか分からない。
声の震えが狂気そのものを感じさせ、空間の温度が急激に下がるような錯覚を覚える。
そしてその笑い声は、空間全体に反響し始める。
まるで四方八方から無数の声が同時に響いているようだった。
背後から、耳元から、頭の中から……逃げられない。
ーー気持ち悪い…
「……もう少しで、魔術師の塔だよ……紅葉。」
誰にともなく告げるその言葉は、虚空に吸い込まれるように消えた。
「――嫌だ! 絶対に、紅葉は渡さない!!」
吐き捨てるような声が響く。
怒りと焦りが入り混じった感情が胸を焼いている。
「――人間族なんか、この手で……すべて消し去ってやる!」
握りしめた手は震え、冷たい風が頬を切り裂く。
だが、奇妙だ。目の前に広がる光景が揺らめいている。現実なのか、それとも幻なのか。
「あれ……?」
ふと、胸にぽっかりと空いた穴が広がる。
「……っていうか……紅葉と私って、何だったの……?」
呟きは霧のように薄れていく。
自分が立つ地面すら頼りなく、足元が崩れ落ちるような錯覚に囚われる。
紅葉――それは大切な存在のはずだった。けれど、どうして?
気付くと、辺りは暗闇に包まれていた。
もう夕暮れなのだろうか…
ふと、私は振り向き、紅葉の様子を確認したーー
「あひゃひゃ…ひぃひゃひゃ!」
思わず、私は飛び退いた。
蜘蛛のように手足が曲がった何かが私の首をめがけて伸びていたからだ。
あまりの突然の出来事に私は状況を掴めなかったが、本能が私の足を動かしていた。
「なによ! あれ! 紅葉はどこ!?」
あれが何なのか私には分からない、ただ危害を与える為に首を掴もうとしてきたのだけは分かる。
ーーす、スキルを使わないと………あれ?名前なんだっけ!?
幾度となく使ってきた能力の名前や、詳細を思い出せない。
まるで、元からスキルを持っていなかったんじゃないか?と思わせるようだ。
よく思えば…寒い…もしかしたら……いや、今は気にしてる場合ではない。 スキルの無い私は無力だ。
どうしようもなくなった私は森の中、背後から迫る気配から逃げるように私はさっき立ち寄った街へ向かった。
「あ…あ…あぁぁ」
背後から掠れたような声が聞こえてきたが、私は気にせず走った。
精霊になってからは感じたことのない心臓のような音が私の体内で響く。
ーー痛い…?私の体は水で出来てるはずなのにどうして?
私はこの世界で初めての痛みと、背後から迫る気配から逃げるように走った。
「はぁ…はぁ…なに? あれ…」
ーー苦しい…怖い…歩きたい…
私は紅葉がどこに行ったのか、なんて考える余裕もなく走った。
その瞬間、足が急に重くなった。
ふと、足元を見るとネバネバした赤黒い糸が絡み付いていた。
「痛ッ!」
それはまるで蚊のように体の中身を吸ってるようだった。
ーーあぁ…
走る気力もなくなり、立ちすくんでいると森の奥から足音が鮮明に聞こえてきた。
ーーどうして…
血のように赤い髪。
美しい金色の目の少女…そして、異様に長い手足。
「どうしてこんなことするの! 紅葉!」
私の言葉に反応することなく、強い力で首を掴んできて…
乱雑に放われた私はグルグルと視界を揺らし、濁った水溜りに目をしみらせながら
私は
ーー死んだ
目を開けると、そこはどこまでも広がる暗闇だった。
冷たさも痛みもなく、ただ無音の世界が広がっている。
「……ここは…?」
自分が死んだことを直感的に理解した。それでも、心の中に渦巻くのは…
「怖い…」
その時、暗闇の中に微かな光が現れた。光は徐々に形を成し、一人の女性の姿を浮かび上がらせた。
星のように輝く銀色の目。その髪はまるで月光が海を染め上げたような透き通る青色
『やっと目覚めた』
「えっと〜……誰?」
『あなたの愛称は "ノープル" みたいなものだったかもしれない』
それは機械人形のように感情のない声だった。
ーー愛称って…初対面でしょ
『今あなたが見ていたのは 現実とは乖離した 混合した魂が見せた幻想 脳のバグの様なもの 今の貴方に分かる様に簡単に言うなら 今見た景色は偽物の物語だ』
私は突然喋り出す、自らを"ノープル"と名乗る少女に驚きつつも、問いただした。
「え…、えっと〜…?? 簡単に説明してる様に聞こえるだけで、全く分からないよ…? 脳のバグ? 偽物の物語? 一つ一つ丁寧に教えてくれない?」
「分かった 脳のバグというのは例えば ご飯を食べる際に"ひじ"を机につかない様にしなさい と言われ ひざをあげたり 理解していても 違う行動をする そういう脳の矛盾のことでーー」
意図に反する事を言い始めるノープルさんに文句を言った。
「もぅ! そうじゃなくて!…ちょっと面白いストーリーだけど、!単語の意味じゃなくて、私に起きた事をもっと簡単に説明して欲しいの!」
『あなたが見た 個体名紅葉 という人物は既に死んでいる人間だ』
『彼女から魂の存在を確認できなかった そして あなたがいた世界の中での紅葉は 《スキル:創象》によって作られた物語の一部だったのかもしれない』
機械的とも取れる優しい声で彼女は語った。
「《創象》? 紅葉が死んでいた? あれは現実世界じゃなかったっていうことなの…?」
私は紅葉が死んでいた。という言葉に対して先程のように感情的になることができなかった…
なぜなら…彼女のことを何も知らなかったのだから
『そうだね あなた…いいえ 水素麺野郎は 気づいてなかったんだね なぜ 仲良くもない紅葉にそこまで固執していたのか』
疑問に思わなかったのか?
彼女は指を私の目の前に持ってくるとそう言った。
『幻想の中では"感情や、感覚、周りの人々の視線に喋り方 全てに違和感があったはずだ』
『気付かない方が凄い それに なぜ精霊なのに物理的な不快感が感じられたのか いや そもそも 精霊族に"痛み"という感覚は存在しないはずだ』
『"痛い"という感覚、単語を何処から学んだんだ…?』
突然の罵倒でも私は不思議と落ち着いていた。
ノープルさんの声は可愛らしくも感情がこもっていなかったから
ただ、一つだけ訂正したい
「み、みずそうめん…? 私のこと? わ、私は篠原蜜葉っていう名前があるの! そっちで呼んでくれないかな?」
『分かった 味噌ラーメン』
機械人形のように覇気のない声で彼女は言った。
「はぁ…もういいわよ。 」