第2話:目には目を。歯には歯を。ヤバイものにはヤバイやつを。
マリは、息を切らせながらネグリジェの裾を握りしめ、裸足のまま夜道を走っていた。
冷たいアスファルトに転がる小石が足裏に食い込み、小さく歯を食いしばる。
裸足で外を走ることなど、今まで一度も経験したことがなかったが、こんなにも痛みが伴うものだとは思わなかった。
(もう、ダメ……)
それでも、足を止めることはできない。
後ろを振り返るたびに、背後に迫る影が大きくなっている気がした。
呼吸は乱れ、酸素を体が求めていたが、胸は痛みでいっぱいだった。
だが、もし速度を緩めたら、すぐに追いつかれてしまうだろう。
捕まったらどうなるのか――考えるだけで、息が詰まりそうになる。
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街の明かりが、遠くの方にちらちらと見えた。
自宅まわりは郊外の静かな屋敷街。
広く取られた道にはほとんど街灯がなく、暗闇が一層深く感じられる。
そこから街へと向かう道のりは、ひどく遠く感じられた。
(お願い……もう少し……もう少しだけ……)
マリは必死に足を動かし続けた。
痛みはすでに麻痺していたが、体の限界がすぐそこに迫っている。
足音が背後で重なり合って響く。
最初は一人だけだった追手が、徐々に増えてきているのを感じる。
きっと、父の命令がすぐに伝わったのだろう。
こんな複数人で捕まえに来るということは、父が本気で自分をどうにかしようとしている証拠だ。
(お父さん、どうして……?)
胸が締め付けられる思いの中、それでもマリはひたすら走り続けた。
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ようやく、彼女は街の明かりにたどり着いた。
ビルの壁には巨大な電子広告が映し出され、ネオンが街を明るく照らしている。
深夜だというのに、街はまるで昼間のように活気を帯びていた。
車のエンジン音、雑踏のざわめき、通りを走り抜けるバイクの音……あらゆる音が彼女の耳に飛び込んできた。
(ここなら……ここなら、なんとかなるかもしれない……)
賑やかな街に紛れ込めば、追手たちも簡単に手を出せないだろう。
それに、誰かが助けてくれる可能性もある。
マリは一縷の望みを託し、ビルの間を抜けて走り続けた。
だが、いくら彼女が必死になりながら走り抜けても、誰一人として彼女に目を向ける者はいなかった。
通りを歩く人々も、路上に座り込んで談笑する若者たちも、マリに無関心だった。
誰もがそれぞれの世界に浸り、自分たちのことにしか興味を持たない。
(誰か……誰か助けて……)
しかし、助けを求める声を上げることすらできないまま、マリの心はただ焦燥感に押し潰されることしかできなかった。
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「止まれ!」
追手の声がすぐ背後で響いた。
マリの体が一瞬にして硬直する。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。
それでも走ろうとするが、足がもつれて前のめりに倒れ込んでしまった。
手のひらに伝わる冷たい地面の感触が、彼女の胸に絶望感を広げる。
(もうだめ……動けない……)
体が重く、立ち上がることもできない。
これで終わりだ――そう思ったその時だった。
「……あんた、何をしている?」
突然聞こえた低い声に、マリは驚いて顔を上げる。
目の前には、金髪の男が立っていた。
街中の鮮やかな光に照らされ、ざっくりとしたパーカーのポケットに手を突っ込み、無造作に立っている。
フードを深く被っているが、その下から覗く冷たい瞳が、鋭く彼女を見下ろしていた。
彼の姿は、街の喧騒の中に不自然なくらい静かに存在していた。
まるで何事にも動じないかのような佇まいに、マリはただ息を呑んだ。
男はおもむろにマリの背後から迫る追手たちに視線を移し、次の瞬間、無言で動き出した。
マリがそれを理解する間もなく、男は追手たちに飛びかかり、一人目の腕を素早くねじり上げて地面に叩きつけた。
鈍い衝撃音が路面に響く。
二人目の追手は反応する間もなく、男の鋭い蹴りを胸に受け、後方に吹き飛んだ。
追手はビルの壁に背中を強打し、その場に崩れ落ちる。
マリはその光景を、恐怖と驚きでじっと見つめるしかなかった。
自分に向けられていた危険が、目の前で次々と無力化されていく。
最後の追手が焦りながら銃を抜こうとしたとき、男はすばやくその腕を掴み、ひねり上げた。銃が手から滑り落ち、追手は痛みに呻き声を上げる。
男はそのまま追手の体を背負いあげ、宙へと放り投げた。
銃が路面に滑る音が静かに響き渡る。
マリは、頭が真っ白になり、何も考えられなくなっていた。
追手たちが全員倒されるまでの数秒が、まるで永遠に続くかのように感じられた。
「捕まりたくなければ、立て」
いつの間にか戻ってきていた男の淡々とした声が、マリの現実感を呼び戻す。
彼女はようやく我に返り、震える手をついて立ち上がった。
ネグリジェの裾は汚れ、裸足の足元には小さな傷が無数にあったが、今はそんなことを気にする余裕はない。
言われるがまま、彼の後に続いてその場を離れた。
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どれくらい歩いただろうか。
男が立ち止まると、マリも荒い息を整えながら彼の背中を見つめた。
薄暗い街灯の明かりが路地の隅に反射し、二人の呼吸だけが静寂の中に響く。
「……あの、ありがとうございます。でも、どうして私を助けてくれたんですか?」
彼女がようやく声を絞り出すと、男は肩をすくめた。
彼の動作は無関心そのもので、特別な感情を抱いていないことを示しているかのようだった。
「ただの偶然だ。それにしても、お前……何かヤバいものに巻き込まれてるのか?」
「……そうかもしれません」
マリはうつむきながら男の言葉を噛み締めた。
父が関わっている「ヤバいもの」――その現実に、彼女の胸は苦しくなった。
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しばらくして、男は何も言わずに軽く手を上げて歩き始めた。
マリはその場に立ち尽くし、迷いと恐怖が入り交じる中で、何をするべきかわからずにいた。
助けてもらったとはいえ、初対面の男だ。
彼についていくのが正しい選択なのかどうか、確信は持てない。
だが、彼女には他に頼る者がいなかった。
自分一人では、この状況を乗り越えることなど、到底できそうにない。
「あの、お願いします……助けてくれませんか」
彼女の声は掠れ、ほとんど聞こえないほど小さかったが、男はすぐに立ち止まり、相変わらずの冷ややかさでこちらを見返した。
「……助ける義理はないが、ついてくるなら勝手にしろ。お前がどうなろうと、俺には関係ない」
突き放すような彼の言葉に怯みつつも、安堵がわずかに芽生える。
不安は消えないが、彼が今の唯一の頼みであることに間違いはない。
後戻りはできないと、マリは自分に言い聞かせた。
男は再び歩き出す。
マリは複雑な気持ちを抱えながら、その背中を必死に追いかけた。
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