第1話:深夜、自宅の書斎にて。
深夜の屋敷は、まるで別世界のようだった。
マリは、自分の足音が廊下に響くたびに、妙に現実感のない感覚に囚われた。
住み込みの家政婦たちはみんな寝静まり、昼間の騒がしさが嘘のように、家の中は静まり返っていた。
眠れなかった。
考えごとが頭から離れず、マリはいつの間にか部屋を出て、屋敷の中を歩き回っていた。
社交の場でも、家の中でも、彼女はどこか孤立しているような気がしていた。
唯一の支えとなっていたのは親友のリサ。
しかし最近彼女は忙しいのか、めっきり会うことがなくなってしまった。
支えを失ってしまったからだろうか、考え方が何に対してもいやに後ろ向きになってしまう。
誰も本当の自分のことなんて、見てくれていないのではないか――
そんな感覚が、彼女の心を重くしていた。
夜、こうして一人で歩くことで、少しだけ落ち着ける時間が持てる。
屋敷の広い廊下は、まるで彼女を静かに包み込むように広がっていた。
だが、今夜は少し違う感覚があった。
父の書斎の前でふと足を止める。
『近づくな』と何度も言われていた場所だ。
この書斎には、重要な書類が詰まっているからだと聞かされて育った。
『書斎には立ち入らない』
それが父とのルールだった。
(お父さんは、今夜も帰ってこないはず……)
父はここ最近、ほとんど家を空けている。
マリは家政婦から、立て込んでいる仕事があるそうなのだという話を聞いていた。
しばらく留守にするとも言っていたので、その通りであれば今夜も帰ってこないはずだ。
しかし、書斎のドア下の隙間からは、かすかに光が漏れている。
ドアは完全に閉まっているが、中からわずかに声も漏れ聞こえてきていた。
父の声だ。
誰かと話をしているようだが、こんな夜更けにここで何をしているのか。
マリは不思議な気持ちでドアに近付き、耳を澄ませた。
「……次のターゲットは決まった。監視も完璧だ。しかし、問題はなかなか一人になる時間がないことだな。かくなるうえは……」
「ああ。もし余計なことを知った者がいれば――そいつも消すしかない」
マリの心臓が一気に跳ね上がった。
監視? ターゲット? 消す?
――いったい何の話をしているのか。
気になったマリは慎重に書斎のドアを薄く開き、中の様子をうかがった。
父と男がもうひとり。何かの書類を広げて、真剣に話し合っている。
彼女は恐怖と好奇心に駆られながら、固唾を呑んでその様子を見守った。
「次のリストに載った者も同様だ……時間がない。すぐに処分に移ろう」
次のリスト……処分。
聞こえてきたワードはあまりにも物騒で、マリの全身が小刻みに震え出す。
頭で理解しきれないまま、その言葉の響きだけが胸をざわめかせる。
彼女はもう少しその場で耳を傾けようとしたが――。
「……誰かいるのか?」
突然、男の声が鋭く響いた。
マリは驚きながらも、寸でのところで悲鳴を呑みこんだ。
急いで背を向け、静かに書斎から離れる。
耳に響くほど、心臓が激しく鼓動していた。
声の主がこちらに近づいてくるのを背中に感じ、焦りから足がもつれてうまく前に進めない。
「待て!」
――捕まったら、終わる。私の……命が。
その声を聞いた瞬間、マリは弾かれるように一気に駆け出した。
屋敷の静寂を破るように、廊下を全速力で駆け抜ける。
父が何をしているのか、男と何を話していたのか――すぐに理解することはできない。
だが『聞いてはいけないことを聞いてしまった』という事実は明白だった。
屋敷の出口にたどり着き、勢いそのままに扉を開けた瞬間、冷たい夜風が一気に体を包んだ。
追手の足音はすぐそこまで迫っている。
マリは裸足のまま飛び出し、自ら夜の闇に呑まれていった。
次回更新予定:10月24日