⑤ 100年前からずっと
「一緒に逃げよう」
100年前のあの日、アスラン様は私に手を差し伸べてくれた。
紺碧の瞳が私に向けられ、返事を待っていた。
彼の手を取りたかった。
でも、できない。
そんなことは許されない。
アスラン様は全てを捨ててまで、私を選んでくれたのに。
泣きたいほどに嬉しかったのに。
「逃げられないわ。だって、私は王女だから」
返事は分かっていただろうに、アスラン様の瞳は絶望の色を浮かべた。
だって、私は王の娘だから。自分勝手に生きることはできないのよ。
「国民を見捨てることはできないわ。精霊の結界がなくなれば、この国に魔物が押し寄せてきて、滅んでしまうもの」
「だからって、君が犠牲になることはない! そもそも、精霊教会が、あんな女を聖女になどするから! 君の方がふさわしかったのに!」
あんな女。すべては妹の愚かさだった。
「でも、精霊王様が選んだのは、私じゃなくて、妹だったの」
「だからって、あんな! 男好きの淫乱王女など!」
アスラン様の口から、下品な悪口が出てきてびっくりする。
それくらい余裕をなくしているのね。
彼女についての評価は、全くその通りだと思うけれど。
精霊王様に求愛したのに、他の男性と通じるなんて……。
生涯でたった一人を愛する精霊王様は、伴侶を失うと狂ってしまう。
かろうじて、私の結界の力で被害は最小限に抑えられたけれど、妹と浮気相手は一瞬で消滅した。精霊王様が妹と心中しようとした自滅の炎とともに。
「なぜ君が精霊界に行かなければならない。そんなの間違っている。君を選ばずに、あんなやつを聖女にしたくせに」
「私が一番強い神聖力を持っているから。新しい精霊王を誕生させるため、この国を守るために、私が聖女になるしかないの」
精霊王を失った精霊たちの怒りはすさまじく、この国はすぐに滅ぼされても仕方なかった。でも、新しい精霊王の誕生に聖女の力は不可欠。聖女を生贄として精霊界に送ることと引き換えに、結界を維持してもらうことを約束させたのは、国王に即位したばかりの兄だった。
「結界などなくても、人は生きていけるんだ。精霊の守護がない外国人は、魔物を倒し、作物を育てながら暮らしている」
「でも、今すぐになくなったら、大勢の国民が死んでしまうわ。この国は精霊の力に頼りすぎているから。精霊の助けがないと滅びてしまうの」
「頼むから、行かないでくれ。君がいない世界で一人で生きるなんて、僕には耐えられない」
「アスラン様……」
大好きなアスラン様。子供の時からずっと好きだった。本当はね、私じゃなくて、妹が聖女に選ばれた時、嬉しかったの。だって、妹の代わりに、あなたと婚約できたから。
愛してる。大好き。ずっと一緒。
来る日も来る日もお互いに繰り返した言葉。
それでも……。
私はこの国の王女だから。
「永遠に愛しています。だから、お願い。あなたもこの国の民を、私の愛する国民のために……」
「いやだ! 君のいない国なんて!」
激しく口づけされて。私達は涙を流して、お別れした。
精霊界に行くために。精霊界で新しい精霊王を誕生させるため。私は100年の間一人で卵を温め続けた。
◇◇◇◇◇
「空っぽじゃない!」
神聖力で開いた秘密通路を進んで、宝物庫に入った。
がらんとした部屋を見渡して、唖然とした。
先祖の代からため込んでいた金貨も宝石も全てなくなっている。
「……、でも、まあ、そうよね。仕方ないわよね」
私が精霊界に行った後、国はめちゃくちゃになった。結界は維持してもらえたけれど、精霊の加護がなくなったために、作物が育たなくなったのだ。
人形姫として出席した会議で、大臣たちが言っていた。
今では、国民の口にする食物は、ほとんど帝国から輸入しているって。
精霊の結界も、ずいぶん弱まってるみたいね。弱い魔物は結界をすり抜けて入ってくるし、犯罪者も入国し放題だ。
戦う力のないこの国は、それらの対処を全て帝国に頼っている。帝国から武器を輸入したり、傭兵を雇ったりして魔物や盗賊を退治してもらう。
そして、どんどん借金が膨らんでいく。
困ったわ。
これじゃあ、何もできないじゃない。
どうやって借金を返せばいいの?
このままだと、みんなが奴隷にされてしまうわ。
空っぽの宝箱を見渡して、もう一度ため息をつく。
部屋の片隅に、薄汚れた大きな木の箱が積み重ねられている。あまり期待せずに開けると、中には小さな黒い石がたくさん入っていた。
「空っぽになった魔石。神聖力は込められてないわね」
私の後に、聖女は生まれなかったようだ。
父親ってことになっている今の国王の瞳の色を思い出す。
青……かろうじて青紫って言えるかもしれない。
私の瞳の色とはまるで違う。かなり血が薄まってるのね。
建国女王の血を引く者は紫の瞳を持つ。
今の国王は、きっと神聖力は使えない。
聖女が就任する時に国民に配られるはずだった石は、ここに置かれたまま忘れられている。
手のひらに石を一つ置いて、力を注ぐ。
ぱあっと光って、黒い石が銀色に輝く。
「治癒石のできあがり」
つぶやいて立ち上がる。
「こんな物でも、帝国では売れるかしら?」
100年前は、病気や怪我は、教会で祈れば精霊が治してくれた。だから、この治癒石はお守りとして配られた。一度だけ、怪我や病気を治してくれる便利なアイテムとして。
精霊がいなくなった今なら、もしかしたら少しはお金になるんじゃない?
それを期待して、私は持てるだけの石をハンカチに包んで部屋を出た。