⑯ 二人目の手
家庭教師の授業を毎日受けると、私の発音も改善されてきた。
「フェリシティ王女は優秀だな。こんなに早く帝国語を習得するとは」
「本で読んだ知識だけはあったの。でも発音はめちゃくちゃだったわ。恥ずかしい」
「いや。文法も単語も全て覚えているからこそ、上達が早いんだ。こうして教えるのもあと少しだと思うと、寂しいな」
ジンは紅茶を一口飲んで、黒い瞳で私をじっと見つめた。
ルリにお茶とお菓子をたくさん盗ってきてもらって、もてなしている。
かわいそうな王女の扱いをされるのは、もううんざり。
同情なんかいらないもの。
魔物トカゲの事件以来、ジンは私に敬語を使わなくなった。すっかり気安い間柄になってしまった。
油断はしない。そう心に決めていたのに。
なぜか、彼との距離が近くなる。
見捨てられた孤独な王女の警戒心を解くのは、彼にはとても簡単なことなのだろう。
「このレモンパイはうまいな。帝国人でもこの味は出せない。ここの料理人は腕がいいな」
それを作ったのは、レドリオン家が雇っている帝国出身の料理人だけどね。
最近料理が突然消えるんで、気味が悪いから帝国に帰りたいってぼやいてるって、ルリが盗み聞きしてきた。
ジンはレモン味が特に好きみたいね。紅茶にもレモンを添えてあげたわ。
「こうして、二人きりで過ごすのは楽しい」
レモンパイの皿を空にしたジンは、本を開いている私の手の上に自分の手を重ねた。私より体温の高い大きな手。少しかさついている。
男女が二人きりで部屋にこもって、手が触れている。
女性の貞操に厳しい帝国人からすると、不純な交際関係にあると思われるかもしれない。
それは王国でも同じこと。すぐにこの手を振り払わなきゃいけない。
「家庭教師をするのは初めてだったが、楽しい時間だった。契約期間が終わっても、時々会いに来たい。いいか?」
レドリオン家の料理人の作ったレモンパイが気に入ったからなの? それとも、捨てられた王女を手なづけようとしているの?
「良くないわ。私には婚約者がいるの」
もしかして、もっと治癒石をもらえると思ってる?
聖女の遺産は、もうなくなったって告げたのに。
「それは残念だ。だが、婚約者は全然会いに来てないだろう?」
ジンは私の手を取って、両手で包み込んだ。
「定期的に、お茶会をしているわ」
この大きな手を、今すぐ払いのけないといけない。
「あなたには婚約者はいないの?」
ジンは私の手を彼の顔に近づけた。
薄い唇が手の甲に近づいて、そっと触れた。
「婚約者は、いないな」
彼は含みを持たせるように私の目を見て笑いかけた。
「気になるか?」
「いいえ」
すぐに否定する。きっとジンは女性に不自由していないわね。こういう会話が日常的に行われてるのよ。
「なあ、王女様。俺と一緒に帝国に来ないか?」
「いいえ」
さりげないふうを装って言われた言葉にも、すぐ否定で答える。騙されちゃいけない。彼が求めているのは何?
「王女だっていうのに、こんなところに閉じ込められて、虐げられている。こんな国は捨てて、俺と一緒に帝国で暮らそう。帝国語は完璧になったし、それに」
「いいえ! 私は王女よ。愛する国民を見捨てることはできないわ!」
今度はかなり強く否定する。
この国の王女であること。それだけが私の誇りなのだから。それがなくなったら、私は何のために生きればいいの?
「だが、王女様は、このままでは……。いや……。そうだ。もしも何かあったら、必ず俺が助けてやる。大事な生徒だからな。覚えておいてほしい」
私の拒絶に気を悪くする風もなく、彼は私を真剣に見つめた。
真っ黒な瞳が私を映している。
私を連れ出そうと手を差し伸べるのは、彼で二人目だった。愛するアスラン様の手は、涙を流して断った。
全てを捨ててまで、私を助けようとしてくれたのに……。
でも、アスラン様と違って、ジンは信用できない。
彼のことを何も知らないのだから。
それでも、私の手はまだ彼の手の中にある。
簡単に払いのけることはできるのに、なぜか、そうしようと思わなかった。
◇◇◇◇◇
夢を見ていた。
アスラン様がいる。
100年以上前の幸せだった時の夢だ。
「フェリシティ!」
びしょ濡れになった私を助けに来てくれた。
いつも、泣いている私を探し出してくれるのは、優しいアスラン様だけだった。
「また王太子殿下にやられたのか? おいで、服を着替えよう。そのままだと風邪をひくよ」
「でも、着替えがないの」
「洗濯室に何かあるはずだ。ほら」
アスラン様は私の手を取る。こんなところをカルミラに見られたら、ものすごく怒られるのに。
でも、温かい手を放すことができなかった。
この冷たい王宮で、私にぬくもりをくれるのはアスラン様だけだから。
「誰も止めないのか?」
「だって、お兄様の言ってることは、全部正しいもの」
噴水の中に突き飛ばされた。
でも、それは私が悪い子だから仕方ないの。
「私は私生児だから。私は悪い子なの。生きているだけで、王妃様を苦しめているの。私は、罰を受けないといけないの」
いつもみんなに言われていることを告げたら、アスラン様は紺碧の瞳を悲しそうに曇らせた。
「フェリシティは悪い子なんかじゃない。責められるべきは陛下の不貞だ」
「ふていって何?」
「配偶者のある者が配偶者以外と性的関係を結ぶことだよ」
「はいぐう……? せいてき……? すごいね。アスラン様は難しい言葉をいっぱい知ってるね」
私たちは手をつないだまま、庭をぽとぽと歩いた。
柔らかな日差しの中で、つないだアスラン様の手は少し汗ばんでいる。
「私ね、まだ本を上手く読めないの。先生はね、妹の方がもっと上手に読めるって叱るの」
「カルミラが上手だって? はっ、まさか。初等教科書すらも暗唱できないんだぞ。発音もめちゃくちゃだ。あんな愚か者が婚約者だなんて僕は恥ずかしいよ」
妹のカルミラとアスラン様はあまり仲が良くない。「顔の良い騎士を侍らす恥知らずだ」って、アスラン様はカルミラを嫌っているの。確かに、カルミラは若くてかっこいい男の人が大好きみたい。いつも大勢の綺麗な顔の護衛騎士を連れ歩いている。
カルミラの方もアスラン様のことを「本ばかり読んでいる嫌味な引きこもり」って悪く言うの。
アスラン様は、お茶会には全然参加しないで、いつも図書室にいるから。でも、とっても頭が良くて、いろんな難しいことを知ってる。それにとっても優しい。
王宮の人はみんな意地悪だけど、アスラン様だけは私とお話してくれる。
「フェリシティは精霊経典を全て覚えたんだろう? 才能あるよ。それに努力家だ。あーあ、僕の婚約者が君だったらよかったのに」
私もアスラン様が婚約者だったら嬉しい。でも、私は罪の子だから。贖罪のために、精霊王様に一生お仕えする聖女にならないといけないの。
昔は聖女がいっぱいいて、結婚もできたみたいだけど。今は、神聖力を持った人がほとんど生まれなくなってしまったから、私は聖女になったら、一生を教会で過ごすんだって。
だから私は、アスラン様の婚約者にはなれない。
教会で、朝早くから雑巾がけするのと、夜中まで食器磨きするのは大変だけど、でも、私の罪が許されるにはそうするしかないんだって。
「さっきも言ったけど、君には罪なんてないよ。陛下が侍女に不埒な行為をしたせいなんだ。だから、罪を償うべきは君じゃなくて陛下の方だ。それなのに、教会に入れられるなんて」
アスラン様は、私の手をぎゅっと強く握った。
アスラン様の言ってる言葉は難しくてよく分からない。
でも、みんなは私のお母様を泥棒って呼んでるの。王妃様からお父様を盗んだ罪人だって。だから、王妃様がお母様を処刑したのは、正しい行いだって。本当は私も一緒に死ぬべきなのにって。でも、お父様は生まれたばかりの私を助けてくれたわ。だから、恩返しをしなきゃいけないの。りっぱな聖女になって、この国のために尽くすの。
「私は、精霊教会にいられて幸せよ。だって、神聖力を捧げるのって、すごく簡単だもの。だから、他のみんなの分も、全部私が捧げてるの。人の役に立てるのって、すごくうれしいの」
掃除も、食器磨きも叱られてばかりだけど、神聖力だけはたくさんあるから、それだけは褒められるの。私にもできることがあってよかった。罪を償って、この国に恩返しするのよ。
「君の神聖力は特に強いからね。聖女の任命式が楽しみだな。精霊王様が教会に降りられて、君に聖女の印を捧げる。精霊王様は太陽のような金色の目をしているそうだね。とても尊い方だそうだ。きっと君みたいに綺麗な心の持ち主は、精霊王様に気に入られて、最強の聖女になるよ」
傾き始めた太陽がアスラン様と私の影を伸ばす。
青銀の髪が輝くアスラン様は、地面に長い影を作っている。私の影は、細くて小さい。
私はすごく痩せていて、びしょ濡れのワンピースからは、あばら骨が透けて見える。13歳になるのに、カルミラとは違って、まだ女の子の体になってない。
私は足を延ばして、アスラン様の影を踏むように歩いた。




