⑮ 魔物トカゲ
『じゃあ、今日も授業を始めよう。まずは、これを繰り返して』
家庭教師の授業は順調だ。
最近、ジンとの距離が近いのが問題だけど。
『そうそう。今の発音は完璧だった! 帝国貴族にも通じる!』
時々、砕けた口調になる。
王女に対する尊敬の念が薄すぎるわ。
平民特有のへりくだった態度がまるでない。彼の父親が貴族だからなの?
黒い服を着崩していても、その姿はどこか品がいい。
腰につけた剣はかなり高価なものだ。ただの商人では決して手に入れられない。
『これは、貴族が使う言葉だが、女性はよくこんな風に発音する』
ほら、帝国貴族の言葉にも通じている。それに、女性の会話にも詳しい。きっと、この容姿で貴族女性をたくさんたぶらかして知識を得ているんだわ。
私は、発音を学びながら、彼を観察する。
人のいなくなったこの離宮にやってくるのは、メイドのマリリンと家庭教師のジンぐらいだ。
人恋しさのせいか、前ほど、黒髪の男に嫌悪感を抱かなくなった。それに、授業の時間になるのを楽しみに感じてしまっている。
『パーティで男性から声を掛けられた時に、断りたい時はこのように……!』
流ちょうに話している途中で、ジンは口を閉ざして、唇に人差し指をあてた。音を立てずにそっと立ち上がって、ドアの前に立つ。
誰か来たの?
部屋の中で帝国人の男と二人きりで過ごしている。
誰かに見られたら、言い訳できない状況だわ。
扉を開けられないかドキドキしながら、ジンと一緒に耳を澄ます。廊下から複数の足音が聞こえる。何か重いものを引きずるような音がしてから、遠ざかって行った。
ふう。
止めていた息を吐きだす。
「なんだか俺たちは、いけない逢瀬をしているみたいだな」
ジンは私を見て、にやりと笑った。
「下人が食料をまとめて届けに来るのよ」
私はジンの軽い言葉を無視して、立ち上がる。
見捨てられている人形姫だけど、殺すつもりはないみたい。最低限の食料は届けてくれる。野菜や肉は、すぐ冷暗所に入れないと腐ってしまう。早く片付けなきゃ。
「今日はもう帰って」
憂鬱な気持ちになって、家庭教師をさっさと追い出すことにした。
「王女様。今度、帝国料理を持って来ます。うちの料理人は腕がいいんですよ。粗食ばかりでは成長できませんよ」
王女の私に同情しているの?
食料を恵んでくれるの? ひどい侮辱ね。
「けっこうよ。私にもおいしい料理を手に入れる伝手ぐらいあるわ。さあ、さっさと帰って」
イライラして、ジンの横を通ってドアを大きく開けた。
「フェリシティ! 危ない!」
突然、広い胸に抱き寄せられた。
なに!? どうしたの?!
生臭い空気が流れてきた。
顔を向けると、巨大な黒いトカゲが、太い舌を出して、開いたドアの向こうから私を見ていた。
「王女様、落ち着いて」
驚いて、恐ろしくて、逃げ出そうとジンの腕の中でもがいた。
「魔物トカゲは目が良くありません。このまま俺の腕の中で、一緒にゆっくり後ろに下がって」
ぎゅっと強く私を抱きしめたジンは、巨大なトカゲから目を放さずに後ずさりをする。
こわい。こわい。いやだ。痛いのはイヤ。
恐怖で涙が溢れる。
「しーっ。大丈夫。大丈夫。ほら、テーブルの下に隠れて」
震えながらジンにすがりついていると、魔物トカゲが頭を上げるのが見えた。
「逃げろ!」
どんっと突き飛ばされる。
手をついて転んで、四つん這いになって、テーブルの下に潜り込む。
見上げると、黒い剣を構えたジンがトカゲとにらみ合っていた。
「シャーッ」
「≪魔を滅する炎よ、剣に宿れ!≫」
ジンの剣が炎を噴き上げる。襲ってくるトカゲから素早く身を躱して横に飛ぶ。そして、大きく開いたトカゲの口の中に、炎の剣を突っ込んだ。
床に倒れた大トカゲは、バタンバタンと長いしっぽを叩いて暴れる。
「≪炎の玉よ。魔を滅せよ≫」
小さな炎の塊がたくさん出てくる。それは、トカゲの黒くて太い体に当たった。
魔物の動きはだんだん鈍くなり、ついに動かなくなった。
「ふう、やったか。王女様、無事か?」
ジンは、額の汗をぬぐって、私を振り返った。
黒い瞳が興奮したようにきらきらと光っている。
四つん這いになったままの私は、震えながら黙って彼を見つめた。
「なんだ。腰が抜けたのか。よしよし、怖かったな。もう大丈夫だぞ」
彼は、すぐ側に来て、膝をついて私を引き寄せた。そして、私の頭をゆっくりなでた。まるで小さな子供にするように、優しく何度も。
大きな手のぬくもりを感じながら、私は、ぼうっと魔物を眺めた。
私の身長の二倍ぐらいある黒いトカゲ。口にはジンの剣が突き刺さったままだ。いったいどこから来たの?
ルリが見回った後よ。離宮には魔物はいないはず。
さっきの足音は……。食料を持って来たのじゃなかったのね。
「よしよし。もう大丈夫だからな。ああ、こわかっただろう。かわいそうに」
私の髪をなでていた手は、背中にまわされる。大きな手が私の背をこするように何度もなでた。
王女に対して無礼よ。
そう言うべきなのに。
ただ、彼にされるがままになっていた。
どうしてルリを呼べなかったの?
なぜ結界を張らなかったの?
私は無力な子供なんかじゃない。
神聖力だってある。
それなのに、初めて近くで見る魔物に怯えて、とっさに頭が働かなくて、何もできなかった。ただ、怯えて泣くだけだなんて。
くやしい……。
私は、幼い子供じゃないのに。
みじめだ。
「ほ、褒美をとらしぇるわ」
王女らしく威厳ある言葉を使ったのに、失敗した。声が震えて噛んでしまった。
「ふっ」
ジンは小さく笑って私の頭をポンポンとたたいた。
屈辱!
急いで、ワンピースのポケットに手を突っ込んで、小さな石を取り出す。
そして、私の頭をなでる大きな手を引っぺがして、その手の中に握らせる。
「? ん? 銀色の石?……これは! 治癒石か?!」
「特上品よ。虹色に光ってるでしょう?」
「すごい……。いや、しかし、もらうわけには……まだ契約期間は終わってない」
「先払いよ」
ジンは指でつまんだ治癒石を光に透かして見た。
「聖女フェリシティの遺品か……」
感動したようにつぶやいている。
彼は、マリリン父と同じで、聖女マニアだものね。
「ちゃんとお母様に使ってね。ほら、もう帰って」
ちょっとふらつきながら、テーブルに手をついて立ち上がる。
魔物トカゲの壊した部屋の惨状が目に入って、頭が痛くなる。床や壁は黒い血が飛び散り、焼け焦げている。家具も破壊されている。
片付けをどうしよう?
私の視線に気が付いて、彼も困ったようにあごに手を置いた。
「俺の部下を連れて来て、片付けさせようか?」
ジンの部下? 商人の?
ううん。ただの商人じゃなくて、さっきのような魔法を使える貴族の商人の部下ね。そんな人は面倒だわ。
「大丈夫よ。あ、その剣は持って帰ってね」
「本当に、いいのか?」
「大丈夫って言ってるでしょう。さっさと出て行って」
ジンは、巨大なトカゲの死骸から黒い剣を一気に引き抜いた。
そして、さっと一振りして黒い血を拭ってから、腰の鞘に納めた。部屋の惨状を見渡して、もう一度私を気の毒そうに見る。
私は、手を振って彼に出て行くように告げる。
「明日もちゃんと家庭教師に来てね。報酬だけを持ち逃げしないでよ」
念を押すと、彼は分かっていると言うように頷いてから、心配そうに私を何度も振り返って、ようやく部屋から出て行った。
さあ、さっさと部屋を片付けよう。
「ルリ」
ジンが建物から出たのを窓から確認してから、精霊を呼ぶ。
「聖女さま!」
青い鳥の姿の精霊が、呼びかけに答えて転移で空中に表れた。今日は、レドリオン家の様子を探りに行ってもらっていたのだ。
人間の男の子の姿になった精霊は、部屋の中を見てから満面の笑顔になった。
「ごはんだ!」
青い目をキラキラと光らせて、ルリは魔物トカゲの死体に駆け寄った。
「おいしそう! 死にたてだ!」
大トカゲの開いた口に小さな手を突っ込んで、黒くて太い舌を引きちぎった。そして、それを躊躇なく自分の口に詰め込む。
もぐもぐもぐ。手と顔を魔物の血で真っ黒に汚しながら、にっこりと幸せそうに笑う。
「ううっ」
美少年精霊の食事する姿に、吐きそうになりながら、指示をする。
「食べ終わってからでいいから、この部屋の床と壁をどこかの家から盗って来て、取り換えておいてね」
「ふゎーい」
口から魔物トカゲの肉と血をべちゃべちゃこぼしながら、ルリは元気に返事をした。




