⑭ 帝国語の授業
「こちらは静かでいいですね」
次の日、さっそくやって来た黒髪の男、ジンは私に挨拶をしてから椅子に座った。
帝国語の会話集を開いて、さっそく勉強を始める。
雑談する暇なんてない。この恐ろしい男の授業をさっさと終わらせたい。
「これを読めばいいの?」
「その前に、まず基本的な口の使い方から学びましょう」
「口の使い方?」
ジンはにやりと笑ってから、自分の口元を指差した。
「よく見ていてください。王国語と違って、帝国語は舌をこのように動かします」
そして、口を大きく開けて、赤い舌をのぞかせた。
「この音の発音は、前歯の裏をこするように。ほら、こうして」
大きく開かれた口の中で、赤い舌が白い歯の間を動く。
「そして、この音は、こうして舌を突き出すように」
今度は閉じた唇の間から、赤い舌がぬっと出てくる。
「これは、このように、下唇を噛むのです」
白い歯が、彼の薄い唇を噛んだ。
私は魔物に魅入られたように、その動作を見つめた。
「ほら、やってみて」
言われるままに、口を少し開けて、自分の下唇をぎゅっと噛む。
「そんなに強く噛むんじゃない。もっと、そっと、優しく。そう、甘噛みするように」
私に見せつけるように、何度も彼は自分の唇を噛んだ。
薄い唇は開け閉めを繰り返し、私をじっと見つめる黒い瞳は怪しく光っている。
きっと、マリリンがいたら、とろけるような瞳で彼を見つめるでしょうね。
確かに、彼女の言うとおり、ただ顔が良いだけではなく、どこか危険な魅力を持つ男ね。
「それじゃあ、これを読んでみてください」
自分の口の中を散々見せつけた後、彼は私に帝国語の文字を読ませた。
『わだす は おうじょ どす』
習ったばかりの口の動きをして、読み上げる。
どう? 上手く言えた?
見上げると、男は無表情で固まっていた。
そして、
「くっ、は、ははは」
お腹を抱えて大笑いした。
「ちょっと、なんで笑うのよ!」
「ははは……いや、悪い、はっ……ちょっと……ギャップが……はは、くるし……」
「無礼よ!」
睨みつけたのに、ジンはしばらく笑い続けた。
「いや、申し訳ございません。あまりにも王女様がおかわいらしかったので」
ようやく発作が収まったのか、彼は授業を再開した。
『私は王女です。はい、繰り返して』
『わ、わたすは、おじょです?』
『くっ……、いい、でしょう。でも、もう一回、私は王女です』
『わたすはオウジョです?』
『もう一息、私は王女です』
『わたすは……』
こんな感じで、無礼な男との授業は過ぎて行った。
でも、不思議なことに、授業の終わりには、初めて会った時の恐怖は薄れていた。
どうしてかしら。あんなに警戒していたのに。
きっと、彼の母親が王国人だからだわ。奴隷として連れて行かれたなんて……許せない。私の国民にそんな仕打ちをした帝国人は、絶対に許してはいけないわね。帝国の商人の子どもまで産まされるなんて、ひどい屈辱だわ。
商人……?
ううん、違う。
精霊教会で会った時に、彼は魔法を使っていた。
魔法は貴族にしか使えないはずよ。
油断してはいけないわ。半分王国の血を引くとは言っても、彼はうそつきの帝国人なのよ。
◇◇◇◇◇
「古い物をいっぱい買ってたよ」
部屋の中に飛んできた青い鳥が、子供の姿に変わった。
ルリにジンの様子を探ってもらったのだ。
彼の商会は、絵画等の芸術作品を仕入れて、帝国で売っているようだ。特に、精霊を描いた絵画や本を好んで集めている。
精霊の加護があった時代、王国の民は芸術を楽しんでいた。国民は皆、労働をする代わりに、絵を描き、詩を読み、音楽を奏でた。今ではもうそんな余裕はないけれど、どの家にも先祖の作った作品がたくさん眠っている。
「あとね、幸せの夢の果物をね、この国の人がなんで食べないのかって聞いてたよ」
私は、ルリの髪をなでる手を止めた。
「帝国は、あの果物の危険性に気が付いてるかしら」
「うーん、わかんない」
甘えて頭をおしつけてくるルリを、ぎゅっと抱きしめる。
「売れなくなったら困るわね。まだ十分に蔓延してないもの」
帝国人に、あの魔の果実をもっと流行らせないと。
ジンは契約通り、毎日離宮にやって来た。そして、私の帝国語の発音もどんどん改善される。
「これは、一種の慣用句なのですが、高貴な女性は良く使います。『女神の御心のままに』」
「『めが、みの、みこころ、まに』……帝国の神は女神様なのね」
「ええ、この世界は女神様が創られたと言われております。とは言っても、王国の精霊信仰と違い、実際に女神を見た者はいません。信仰の対象として、心の支えとして、国民は女神様に祈ります。しかし、この国の宗教である精霊は、実際に存在するのですよね。100年以上前にはたくさんいたのでしょう?」
「そうね。でも、今はいなくなったわ」
窓枠であなたを監視している青い鳥精霊を除いてだけどね。
「会ってみたかったな。母の祖母は、精霊教の熱心な信者で、精霊の話をよく母に語っていたそうです。私は、母からその話を聞いて育ったので……」
ジンは物思いにふけるように窓を見つめた。
彼の視線の先にいる青い鳥は、くちばしで毛づくろいをしている。
「精霊の本を集めてるって聞いたわ。精霊教会にはもう行ったの?」
「ええ、王女様は行かれたことは?」
「ないわ。私はここから出られないもの」
さらりと嘘をつく。離宮には使用人はいなくなった。いつでも出入り自由だ。でも、普通の王女は一人で外に出ることはない。
彼は、私のことをかわいそうな王女だと思うかしら?
古い離宮で、誰にも世話をされない一人ぼっちの王女。
年のわりに子供っぽい私の見た目も、そう見えるでしょうね。
最近では、授業の手土産にお菓子をいっぱい持ってきてくれる。
同情されてるの?
彼が持ってきた飴を一つ取って口に入れた。
レモンの味がして、少し酸っぱい。奥歯でカリッと噛んだら、中からとろりと甘い蜜が出て来た。
……おいしい。
「気に入った? 中に蜂蜜が入っているんです。良かったら今度は別の味の物も持って来ましょう」
かわいそうな王女に施しを与えてるつもり?
長い足を折り曲げて座る美貌の商人は、私にむかって優しく微笑んだ。虐げられた王女に向ける微笑みね。
「王女様の婚約者は、ブルーデン公爵家の方だと聞きました。彼は、あなたの状態はご存じですか?」
「知ってるわ」
「婚約者は、あなたを助けないのですか?」
「私の噂は知ってるでしょう? 愚かな人形姫。狂った王女。王族の恥さらし、あと、何だったかしら? 半分死んでるとか、ずっと眠ってるとか」
「あなたはそんな王女ではない!」
「そうね。でも、いいの。そういう扱いは慣れてるから。私は、王族の誰とも似ていないもの」
黒い瞳が私のことをじっと見ている。痛ましそうに。
その視線から顔を背けて、話を続ける。
「そうそう、大広間の絵は見た? 聖女フェリシティの肖像画。あれは、代々の王族の顔立ちの特徴を持ってるわね。隣の先代王、それからその前の、先々代の王。聖女フェリシティの肖像画と鼻の形が同じよ。私とは似ていないでしょう? 私が似ているのは髪と目の色だけで、あの肖像画の聖女は、」
「フェリシティ王女」
私の話を遮って、ジンが名前を呼ぶ。私のこと? それとも聖女フェリシティのこと?
「あの絵は……」
ジンは何かを言いかけて、そしてやめた。
その後は、雑談もせずに発音の授業を続けた。




