8 発声してみよう
次の日も同様に、あたしは託児所のような一軒に預けられることになった。
当然説明はないが、狩りはまだ数日続くのか。昨日帰り際に外で解体されているのが見えたのは人の何倍もある大きさの獣で、父の大剣でも簡単に倒せそうには思えず、震えが走ったものだけど。
昨日のあたしの泣き叫びが堪えたのか何度も声をかけ、未練げな様子で父は出ていった。
かけられた言葉は「ちゃんと戻ってくるからな。大人しく待っているんだぞ」とか、そんなものではないかと思う。
前日よりかなり事情は理解してきたので、まちがいなくこの日も父は帰ってくると信じることにする。
それでも一人残されると、わけもなく心細い思いで涙が零れてくるのだった。
見回すと、子どもはやっぱり五人。世話をする女の人は変わらず二人だけど、一人は前の日と違う顔だった。
ぐすぐす涙を啜りながら、周りの会話に耳を澄ます。
子どもたちの短いやりとりは、「それ、とって頂戴」「これ、あげる」といった感じか。
大人たちの会話も、何となく意味が分かるようになってきた。
あたしの顔を覗いて昨日と同じ人が言っているのは、「よかった、今日は大泣きしないみたいだよ」というような言葉だと思う。
「昨日は最初のうち、大泣きしっ放しだったんだよ」
「そうなのかい。まあ、初めて父ちゃんから離れたんだろうからねえ」
「そうさねえ」
といったところだろう。
「父ちゃん」に当たると思われる単語はこの同じ女の人の口からも昨日出ていたし、帰り際入ってきた男の人に飛びついていた子ども二人もそう呼んでいたから、まずまちがいないと思う。
そんな感じで、あたしの中に分かる言葉が増えてきていた。
ただお座りだけをしていても生産性がないので、ぽてり横に倒れて、遊ぶ子どもたちの方に手を伸ばしてみた。
自宅にあるのと同じような木の玩具が、いくつも敷物の上に転がっている。頑張ればもう少しで手が届きそうだ。
手と足をずり動かして、あと少しで『はいはい』ができそうな気もするのだけど。これは今後の鍛錬次第だろう。
精一杯手を伸ばしていると、小さな子の一人が顔を上げた。女の子のようだ。
あたしの目指している木片をひょいと持ち上げ、差し出してくれる。
「はい」
「あーお」
要求を理解して、助けてくれたらしい。
昨日父がここで口にしていた言葉が「ありがとう」の意味だと思われるので、真似して感謝を伝えようと思ったけれど、やっぱり発声にはならなかった。
それでも何となくは伝わったらしく、女の子はにこにこ顔で自分の遊びに戻っていった。
もらった木片を両手で弄り、片手で振ったり、床に転がしたりしてみる。
同時に俯せ姿勢で両足を踏ん張り、擦り動かしを試みてみる。
自宅にいるときと同様に、何とか手足の力をつけたいという運動だ。
そんなことをしながらも、周囲の会話を頭に流していく。
結構そういった試みで忙しく、いつの間にかあたしの目に涙は止まっていた。
「よし来い、ほら来い」
「うおーー」
昨日傍に寄ってきた男の子が、少し小さな男の子の突進を受け止めて遊んでいる。
笑いながら、小さな子はご機嫌に何度もそれをくり返す。
「何これ? 何これ?」
「これはねえ、○○だよ。今度●●であげようねえ」
こちらも小さな女の子が部屋の隅に積んだ数枚の板の束を指さして、昨日からいる女の人に尋ねている。
さっきからの会話によるとロミルダというらしい女の人は、まだあたしが聞いたことのなかった単語で答えた。何となくだけど、「○○」というのは板のことでなく、もっと特別なもののように聞こえる。
今度同じ単語を聞いたとき意味を結びつけよう、と記憶しておくことにする。
その実物に近寄って見てみればいいのだろうけど、まだはいはいもできない身。大人なら数歩しかかからないわずか距離の移動も、ままならないのだ。
お乳を飲ませてもらったり、おむつを替えてもらったり。取り替えてもらって新しい木の玩具を握ったり転がしたり。
そんなことの間に周囲の会話を聞きとって、それなりに意味がとれるようになってきた。
どう考えても理解が早すぎる気がするのだけど、どうもあたしの頭は他に比べて異常なくらいにできているのか、と思えてくる。
そのうち、木板の窓の隙間から射す明るみが落ちてきたみたいだ。
「そろそろみんな、帰ってくるかねえ」
「そうさね、そんな頃合いだ」
女の人二人が、頷き合っている。
それから間もなくして、外から人声が聞こえてきた。いくつもの野太い、男たちの会話だ。
「帰ってきたねえ」
「そうみたいだねえ」
「父ちゃん、帰ってきた?」
昨日も若い男に飛びついていた女の子二人と男の子一人、小さな三人がばたばたと出てくる。
少し大きな男の子と五人の中でいちばん小さい男の子がロミルダの傍に寄っていることからすると、二人はこの人の息子なのだろう。
そんなことを考えるうち、ドンドンと戸が叩かれた。
板戸が開かれて。毛皮を纏った大きな髭男が慌ただしく入ってくる。見まちがえようもない、うちの父親だ。
「済まん。娘は無事か?」
「まあまあライナルトさん、お帰んなさい」
声をかけるロミルダに見向きもせず、こちらへ殺到してくる。
――少し礼儀を欠いているんじゃないか?
思いながらも、あたしは夢中で両手を伸ばした。
「わあ、おう――」
荒々しく抱き上げられ、汗臭い胸元に顔を寄せる。
そうしたお気に入りの状況を、存分に噛みしめながら。きょうは、目論んでいたことがあった。
周りの会話から「父ちゃん」という単語を獲得したんだ。これで呼びかけてやれば、父は大いに喜ぶんじゃないか。
少しでも呼びかけやりとりが成立すれば、意思の疎通もやりやすくなるんじゃないか、と。
まだ口の回りは不十分だけど、正確な発音である必要もない。何処やらから降りてくる『知識』の中だと、後半の「ちゃん」だけでも十分通じる場合があるらしい。
とりあえずできる限り口を動かして、発声を試みる。
「う――……オータ……」
失敗、か。
「トータン」と言うはずの前も後ろも略になってしまって、これじゃ意味も通じない……。
思って、いると。
「うおおーーー!」
密着した髭男の口に、雄叫びが発せられた。
両耳から頭の奥まで劈かれ、思わず両手で塞ぎたくなってしまう。
今までになく力強く抱きしめられ、全身で半周りほど振り回される。
「聞いた、聞いたか? 今、俺を呼んだ!」
「まあまあ、ほんとだねえ」
「よかったねえ。お父ちゃんを呼んだんだねえ」
何とか一応、目的は達成できたようだ。
全力の抱擁が苦しいほどだし、運動後らしい汗の匂いがむせ返るけれど、不快に思うよりもあたしは満足を噛みしめていた。
「おーおー、オータ……」
「そうかそうか、父ちゃんが分かるか」
乱暴に揺すられ、大きく上下し。
改めて、強く抱きしめられ。額に髭を擦りつけられる。
「よしよし、それじゃ父ちゃんと家に帰ろうな」
「うーうー」
首から下を毛皮で包まれ、外に出た。
それぞれ父親を呼んでいた子ども三人も、続けて出てくる。
家の横には、異様なものが積まれていた。
焦茶色の毛皮、大きな獣の死体だ。昨日の獲物より、二回り以上大きいんじゃないか。
「わあ、すげえ!」
「クマだあ!」
「父ちゃん、仕留めたんか、これ?」
「おうよ」
ずっとうちに通ってきていた少し背の低い男が、笑って答えた。
焦げ茶の毛皮をばんばん叩いて。
「焦茶熊の大物だあ。みんなで仕留めたんだぞ。中でもこのライナルト小父ちゃんがその剣で止めを刺したんさ」
「すげえ!」「すげえ、すげえ!」
そのまま子どもたちは、獲物の周囲を踊り回っていた。