6 傾聴してみよう
目を開くと、子どもの顔が大写しに迫っていた。
ぼさぼさ髪の、四五歳くらいかに見える男の子のようだ。
その唐突さに驚いたような、少し前の不満と不安を思い出したような。またぞろ、あたしの目に涙が膨れ上がってきた。
「う、う……」
「あ、××××」
男の子は後ろを振り返って、声を高めた。
おそらくのところ、「こいつ起きたよ」とか、大人に報せているのだろう。
泣き疲れて眠ったらしいあたしの頭の中は、まだぼんやりしている。すぐには、さっきの泣き声の勢いは戻ってこないみたいだ。
さっき抱いてくれたのとは違う方の女の人が寄ってきて、匙で乳を飲ませてくれた。ぐすぐす鼻を啜りながら、一心不乱にそれを口に入れる。
――何であれ、空腹ではどうしようもない。
お腹がくちくなると、また目に涙が染み出してきた。
けれど、甲高い声の炸裂は、抑えておく。
それで何も環境が変わるでなし、疲れるだけ無駄。そう悟ったというよりも、ひと眠りしてそんな冷静な思考の方が行動を制御する余裕を取り戻した、という感じか。
とはいうものの、涙は止まらない。ぐすぐす啜り上げながら、何とか周りを見回すのが精一杯というところだ。
大人の女の人が二人。あたしの他に、子どもが五人。当然というか、皆あたしよりは大きい。それでも五人ともまだ幼児という見てくれで、世話が必要ということで大人二人が見ているらしい。
四人はようやく赤ん坊と呼ばれる立場を卒業したかという見た目で、危なっかしい足どりで歩き回ったり、木の玩具で遊んだりしている。
もう一人はそれより少し年長かという、さっきあたしを覗き込んでいた男の子だ。今も興味深げに、少し離れてこちらを観察している。
「××××」
「××××」
女の人二人は、木の皮らしいものを編んで何かを作る作業をしながら、休みなくお喋りを交わしている。小さな子どもの間にも、何やら甲高く言葉が行き交っている。
毛皮の上にお座りをして、何もすることがなく。ただ、ただ、目に涙の滲みは止まらない。
やっぱりさっきのような号泣は堪えて思ううち、冷静な思考が少しずつ落ち着きを増してきた。
希望的観測を抜きにしても、この可能性が一番高いと思うのだけど。もし父が狩りなどに出かけていて、夕時には戻ってくるのだとしたら。
ここへ預けた娘が終日号泣しっ放しだと聞いたら、今後出かけるのを躊躇して苦労することになるんじゃないか。
悲観的可能性の方でも。もしこのままあたしが孤児よろしくずっとここに預けられるのだとして。
なかなか泣き止まない手のかかる赤ん坊だと思われたら、大事に扱われないのではないか。
環境が変わってもほいほい順応する単純な子ども、と思われるのもそれはそれで嫌だけど、さっきの大泣きと今のぐずぐずで、その辺の誤解はないだろう。
――第一印象は重要。お利口な子どもと思われるよう、努めるべし。
ということで、号泣の再開だけは抑えておくことにする。
それよりも、少しだけ今の状況に利点があることに気づいた。
今この周囲には、あたしの意識がはっきりして以来初めてと言っていいほど、言葉が溢れているんだ。
この好機を、逃す手はない。
しばらく耳を澄ませて、ヒアリング学習に励もうと思う。
「××××」
「××××」
女の人の会話を聴き続けていると、何となくだけど会話文の作りが理解されていく気がする。
子どもたちの発声はやっぱりそれより断片的みたいだけど、注意して聞いているとそこらの物の名前が分かっていきそうだ。
ということで、あちらこちらに耳を傾けていく。
それでも一方で、あたしの中の赤ん坊要素も収まりを見せない。
ぐすぐすと涙の溢れは続き、ひっくひっくとしゃっくりみたいな啜り上げをくり返ししてしまう。
ときどき気がついたみたいに、女の人が寄ってきて顔を拭いたり世話をしてくれた。
その他は、放置。おそらくのところ、また大泣きを始められたらたいへんだ、へたな刺激を与えない方がいいという判断になったんじゃないかと思う。
「××××」
「××××」
聞こえてくる言葉を、口の中で真似してみる。けれども、まったくのところ意図したように唇や舌は動かない。
当分、こちらが言葉を発声するのは無理のようだ。
まず優先されるのはとにかく、聴きとりで意味を理解できるようにすることだろう。
聞こえてくる音声を、まだ意味の分からないまま頭に再生する。次々と新しいサンプルを流していく。
涙を啜りながら、そんなことに熱中していると。
「ほら」
突然、鼻の少し先に小さな手が差し出されてきた。
叩かれるとか触られるとかそんな近さではないので危険を覚えることもなく、ただぼんやり視線をそちらに向ける。
すると。
いきなりその人差し指の先に、火が点った。
「ひゃ!」
「どうだ」
さっきまでこちらを観察していた男の子の、得意げな笑顔。
それへ向けて、あたしの目は丸くなる。いや自分で見ることはできないけど、丸くなっているに違いない。
一瞬前までは何もなかった爪の先に、指の半分くらいの大きさながら、赤い火が点っているのだ。
「なーあ?」
「どうだ、まほうだ」
「まあ、ほ?」
聞こえてきた「まほう」という言葉は、何処からか頭に降りてくる「魔法」と同じ意味だろうか。
得意げに、男の子は指先の火の点けては消しを数度くり返した。
そうしていると、突然男の子の頭にぱしんと音が鳴った。
立ってきた女の人が、平手で叩いたのだ。
「××××!」
「××××――」
魔法だとすると、軽々と使ってはいけないということか。単純に、小さな子どもの近くで火を点けるのは危ない、という叱責か。
情けない顔になって、男の子は離れていった。
ちょっと、可哀相。
それにしても。
――ここ、魔法のある世界だったのか。
今の火、魔法と呼ぶにはおこがましいほどの小ささだったけど。
とにかくも、種も仕掛けもない出現だった。
あの小さな幼児が、目にも止まらない手さばきの手品紛いをやって見せたとも思えない。
――魔法、魔法……。
誰でもできることなんだろうか。
あたしにもできるんだろうか。
見回しても、もちろん他に指に火を灯す者は見えない。
好奇心を抑えられず、あたしは目の前に掌を持ち上げた。
――あの男の子、別に呪文とか唱えてはいなかったよな。
ただ念じればできるものなんだろうか。
――火よ、出よ。
――しいーーん……。
当然ながらと言うか、何も起こらない。
――うん、分かってた。
そんな簡単に実現できるなら、誰も苦労しないだろう。
もしかして、できる人とできない人がいるのか。
訓練とか、修行とか、例えば教会での承認みたいなのとか、そんなのが必要なのか。
――でもあんな小さな子にできるんだから、そんな難しい手続きが必要なものじゃない気がするんだよなあ。
変わらず周囲の会話に耳を傾けながら、あたしはしばらくそんなことを考え、何度か試行をくり返していた。
相変わらず目に涙は滲み出してくるのだけど、そんなこんなでいつの間にか時間は過ぎていたようだ。