2 見回してみよう
目が覚めたとき。
何とも薄汚い、古い家だなあ、と思った。
男が一人、動き回っている。
図体は大きいけれど、顔の下半分を黒い髭に覆われて、尻が下がった細い目。一言で言って風采の上がらない、街中でも女の目は惹きそうにない、男だ。
――なんて、思ったりはしても。
家中の様子も、男の顔形も、別に今初めて目にしたというわけじゃない。思い起こす限りずっと、むしろある程度意識が生まれて以来こればかりを目で見、追い続けてだけいるんだ。
何せこちとら、自力で身を起こすことさえできない、赤ん坊なんだから。
ずっと何とはなしに見てきた光景なんだけど、どういうわけかこの数日のうちに妙に頭の中が冴え渡って、いきなり今思ったような感慨が浮かぶようになった、というわけ。
意味不明、だ。
自分が赤ん坊であることに、疑問はない。今知った、というわけでさえなく、ずっと知っていたことを改めて認め直したという感じ。
新しい知識を得ても、自分の身体の不自由さ、目の前にかざした手の小ささ、他に考えようもないものだ。
何故に赤ん坊なんや? 赤ちゃんのくせに、何故こんな思考が浮かぶんや?
そういう疑問はあるにせよ、何処からも答えは降ってきそうにない。
自分の力で状況を改善したくても、
――むーー、ふんぬーー!
いくら気張ってみようが、赤ちゃんボディに力は入らず、両手足がぱたぱた振れるだけ。今のところ、寝返り一つ打てそうにない。
口も頬の筋肉も思うように動いてくれず、言葉らしきものを発するにほど遠い。ただ、意味にならない音声が漏れるばかり。
「わうわう、だーだー」
ただただできるのは、見、聞き、考えることだけ、と諦めるしかないみたい。
今分かっていること。
あたしは赤ん坊。女の子で、おそらく生後半年前後というところ。
記憶を辿れる範囲でずっと、この古い家の中に寝かされ、あの風采の上がらない男一人に世話を受けている。
詰まるところ、きっと、おそらく、
――この男が、父親ということになるんだろうなあ。
ここ数日で頭に漂い出した何か、『知識』みたいなものに照らして、そう思うしかない。
――どうも、母親というものはここにいないらしい。
とまあ、何となく赤ん坊としてはあり得ない、と我ながら思ってしまう判断が頭に降りてくる。
意味不明、だ。
しかもこの『知識』と言うか何と言うか、降りてくるもの。どうも現在この身を置いている現実と、何処となくそぐわない、ずれているところがある気がする。
さっきの、推定父親に対しての「風采が上がらない」「街中でも女の目は惹きそうにない」なんていうのも、何となくそうだし。
それに続いて頭を掠める呟きみたいな、ブツブツみたいなのときたら、何とも判断のしようもない。
〈ブツブツ……女主人公の話なら、開巻間もなく絶対例外なくイケメンと出会って、やたら女々しい言葉とためらいないスキンシップをしかけられて、通称『溺愛』に到るものと相場が決まってるじゃないか。何だここの、イケメンとの乖離は〉
〈……なおこの「女主人公」は、『ヒロイン』とルビを振ると意味が変わって、何故か主人公ではなくなる決まりだから、要注意だ〉
……などと。
――いやいやいや、意味分からんし。
その辺は、相手にしないことにして。
そんな、何処か現実とかけ離れたところがあるもの、と思うっきゃない。
ところで。
誤解しないでもらいたいのだけど(誰に言い訳している?)、あたしはこの家や推定父親を嫌悪しているわけじゃない。
置かれた立場として、これらはこれと受け入れるしかないわけだし。
と言うよりむしろ、愛着を感じてさえいるくらいだ。
何しろ、記憶のある限りこれしか見ていないわけで。
おそらく、この古い家以外の場所にいきなり移動させられたら、居心地の悪さに泣き出してしまうだろう。
一応女性の側から眼福と感じるにはほど遠い(しつこい!)けれど、この髭男以外の者に手を触れられたら、恐怖でたちまち号泣してしまうだろう。
自分でも言葉にすると、変態じみて思えるけど。
この家の、埃っぽいと言うか黴臭いと言うか、そんな匂い。髭男の汗っぽい体臭。それを感じているだけで、心底安心してしまうほどだ。
ときどき何とも表現しようのない不快や不安に襲われて涙と声が止まらなくなっても、無骨な抱擁と慰め声に包まれるといつしか落ち着いてしまっているのが常だ。
折りにつけ妙な『知識』が降りてくるにせよ、現在の自分の周りのことについては、何も分からない。
何にせよとにかく当分のところは、この男の世話を受けなければ一日どころか半日程度も生き延びることはできそうにない、そんな身の上と思うしかない。
「ふにゃ……にゃ……」
「おお、××××――」
やっぱり自分ではコントロールのしようもなく、情けない泣き声が口から零れた。
すぐさま寄ってきた男が抱き上げ、軽く揺すりあやしてくれる。
とにかく何もかも自分ではできず、不自由なばかりなんだけど。
いちばんもどかしいのは、自分の意志を伝えられないことと、相手の言うことが分からない点だろう。
〈「前世の大人の意識を持って、赤ん坊として生まれました」で始まって、次のページでいきなり「それから五年経ちました」になる展開など、あり得ねえ。大人の頭を持っているなら、その五年でどれだけのことができるか。周りに耳を傾けて早々と言葉を覚え、次々情報を得ることができているはずじゃねえか。――などとよく思っていたが、ここでは難しいよなあ。まず、言葉というものがほとんどないときちゃ〉
また、わけの分からないブツブツが聞こえる気がするけど。
無視。
でも、一点だけ同感だ。
意思を伝え合うには言葉が必要なんだろうけど、この家にはそれがほぼない。
何しろ、無骨で日頃から口数が少ないのだろうと容易に想像できるこの男は、一日中家にいてもほとんど言葉を発しないのだ。
せいぜいあたしをあやすときに、「おお、××××――」なんていう短い発声をするくらい。こっちの名前を呼んでいるものやら、ただ「よしよし」みたいなことを言っているやら、「腹が減ったか?」程度の意味のある言葉なのやら、サンプルが少なすぎて判断のしようがない。
男――では素っ気なさすぎるから、まあ「父」でいいか――この父は、ほぼ外出することもなくいつも傍にいてくれる。その代わりと言うか何と言うか、客が訪れるということもほぼない。あたしの意識がまだはっきりしない時期、ごくたまに一人二人、あったかなかったか、という怪しげな記憶程度だ。
家の中に何か文字の書かれたものがあるでもなし、とにかく言葉の存在が希薄、としか言いようがない。
せめて父の発声を鸚鵡返しするなり、何か身振りで意思を伝える試みをするなりくらいなら考えられるが。赤ん坊の口や手足は、そんな役にも立ってくれない。
当分このまま様子見、しかしようがなさそうだ。
――まずは何とか周囲の状況を把握して、意思を伝える方法を獲得するべし。
見回しても、古臭い家の中に、ほとんどものはない。
あたしが寝かされている、籠のような寝台。
少し離れた横手壁際に、絶えず火が点いている暖炉。
家の中はほぼ一部屋だけのようで、縦横ともに父親の足ならばこの剥き出しの板床を五歩程度で横断できそうだ。
暖炉とは逆側の横手奥は土間のようになっていて、中央付近に板戸が見える。おそらく外への出入口なのだろう。
土間の左側は炊事場らしく、今は竈に火が点けられ鍋が一つ載せられている。横に置かれた大きな瓶は、水を溜めているのだろう。
そこまでは不思議もないけど。土間の右側には変わったものがいた。
首を縄で結わえられた、動物だ。『知識』を探ると、どうもヤギに近いものらしい。縄で許された範囲をのんびり歩き回りながら、ときどき「ミエエーー」という間延びした鳴き声を立てている。
室内の他の様子と同様、あたしとしても意識がはっきりする前からずっと耳にしてきたはずのもので、慣れてしまって今さら耳障りにもならない。もしかするとこれが聞こえなくなったら、寂しくて泣きそうになってしまうのかもしれない。
そのヤギが飼われている理由も、すぐに理解できた。
壷のような容器を持っていって、父がそのヤギの乳を搾る。
竈に小さな鍋をかけて、乳を加熱する。
時間をかけてそれを冷まし、あたしのもとへ持ってくるのだ。
木の匙を使って、白い乳を口に運んでくれる。
お世辞にも飲みやすいとは言えないけれど他にどうしようもない、舌を伸ばし唇をすぼめて、あたしは必死にそれを吸い上げる。
ほのかに甘く、温かく胃に染み渡る。
今のところこれが唯一の生きる糧のはずで、見た目やら何やら気にする余裕もない。文字通り命がけで吸い上げ、腹が満たされるまで口を開いてお代わり催促を続ける。
満腹すると、口を閉じる。
匙を置いた父がそっと抱き上げ、お尻を支えた姿勢で軽く背中を叩いてくれる。つぼにはまったところで、小さな口から「ゲップ」と息が漏れる。
ここまでが一連の儀式、のようだ。
一日数回、飽きることなくこれをくり返してくれているらしい。
何と言うか、感謝、以外ない。
そのまま父の肩に顔を寄せ、何とも落ち着く匂いに包まれて、あたしは眠りに落ちていく。