1 入村と転住
初めてこの村にライナルトが入ったのは厳冬の候、膝上までの積雪にさらに大雪が降り積もる夜だった。
小さな数戸らしい集落を見て、ひと息安堵。窓の隙間にわずかな灯が覗く、手前の石造りの家の戸を叩いた。
土間でいいので休ませてもらえぬかと請うと、二人住まいらしい老夫婦に胡散臭げな目を向けられたが。
頭や肩の雪を払って外套の前を緩めると、驚愕された。
「あれえ、お前さん、赤子連れかね?」
「済まない、俺は元魔狩人でライナルトという。領都を出て旅する途中なんだが。何かこいつの口に入れられるものはないだろうか。金は払う」
見るからに生後間もない乳飲み子が、男の胸元に抱かれていた。寒さと空腹に震え、今にも命絶えかねない様子にしか見えない。
「そりゃ大変だ。しかし婆さん、赤子に食わせるもんなどあったか?」
「麦を柔らかく煮るとかでもしなきゃ、どうしようもないよお。ああそれより、ホラーツ爺んとこの嫁さん、まだ乳が出るかもしんないねえ」
「おう、そうだな。お前さん、そっちへ数えて三軒目が、村長のホラーツの家だ。そこの孫が一歳を過ぎたところだから、嫁さんの乳をもらえるかもしんねえ」
「そうか、教えてくれてありがとう」
大きく頭を下げて、改めて外套の前を閉じる。
再び雪道に出ると、もう村奥の景観は半ば闇と降雪に消されかけていた。
急いで足を運び、軒の数を数える。
自分の体力はまだ保つが、乳飲み子はいつ息を止めても不思議はない瀬戸際に思えてならないのだ。
教えられた三軒目の戸を叩き、助けを請うた。
さっきの老夫婦といい、人のよい住人の多い村らしい。顔を出した老爺は、すぐに招き入れてくれた。
ライナルトが事情を話すと、村長のホラーツと名乗る老人はすぐに「おい、ロミルダ」と嫁を呼んでくれる。
「もうあまりお乳は出ないのだけれど」と当惑しながら、若い嫁は赤子を抱いてくれた。
少し身軽になったライナルトは、土間との境ながら腰掛けを許され、少し離れた囲炉裏の暖をとることができた。
「乳飲み子を抱えてこんな雪の中を歩くなど、お前さん無茶をするもんだ」
「ああ、助かった。地獄に仏とはこのことだ。さっきの夫婦といい、老人の多い家にこんないかつい男を招き入れるなど、警戒して当然だろうに。親切な村なのだな、ここは」
「元魔狩人と言ったか、お前さん」ホラーツは囲炉裏端で苦笑いしている。「確かにその図体で、腰のもんはそりゃ大剣か。お前さんに暴れられたら、この村の者は誰も敵いそうにないわな」
「そうか」
魔狩人というのは、人に危害を及ぼす凶暴な魔獣や獣を狩ることを生業としている者だ。多くの場合数名でグループを組み、大きな町にある組合に所属してその依頼に従う。
ライナルトは半月(十五日)ほど前まで、領都で四人グループを組んで活動していた。半月前の狩りで、そのうちの二名が負傷で休業を余儀なくされた。同じ頃に一緒に住んでいた女が出産後間もなく天に召されるなど、他の事情も加わって稼業を辞め、領都を発ってきたところだ。
本人は負傷したわけでもなく、ずっと仲間内で大剣を振るう荒事を主に受け持ってきた人間なので、確かに戦闘力で村人に劣ることはなさそうだ。
「赤子の世話を断って開き直られたら、と思うと親切にするきゃねえ、というのは冗談だが。恩を売って見返りを期待したい気もある。お前さん、このまま赤子連れで雪の中、旅を続けるのは正気の沙汰じゃねえ。急ぐ事情がないとしたら、しばらく、できたら少なくとも雪融けまで、この村に留まらないかね」
「それは――もしかするとありがたい話だが。見返り?」
「正直言うと、魔狩人をしてたっちゅうお前さんの腕に期待したい。毎年ここには、雪が融けると家畜や貯めた食糧目当てに山の獣や魔獣たちが下りてきて、たいへんなことになるんだ」
「ああ、その征伐か」
「そうだ。毎年村の男たち総がかりで対処してるが、ある程度の被害は防げずにいる」
「なるほどな」
ううむ、とライナルトは腕組みで考え込む。
部屋の隅で背を向けて乳を与えていた嫁は、赤ん坊の背を叩いてゲップをさせているところだ。
「しかしこんな、素性の知れない者を信用して取り引きを持ちかけるなど、いいのかい? 赤ん坊などを連れて人がいいと見せかけ、油断させたところを開き直って村の金目のものを奪う、なんてことも考えられるぞ」
「お前さんの腕ならおそらく、赤ん坊で油断させるなんてことをしなくても、村の者を皆殺しにできるだろうさ。この村に、たいして価値のあるものなどない。せいぜい冬の間の食糧を奪うってぐらいだろうが、賭けてもいい。食糧を奪ったとしても、お前さんだけで他の者の助けを借りずに自分と赤ん坊を飢えさせずに冬を越えるなど、無理な話だ」
「痛いとこをつくなあ」
がりがりと、ライナルトは頭をかいた。
言われる通り、自分一人を食わせるにもたいした料理の腕など持ち合わせていない。
その上まだ乳離れも当分期待できない子を抱えて、どう世話をすればいいのか途方に暮れる思いなのだ。
「村の中に空いている家があるので、住まいとして提供しよう。去年の春に魔獣に襲われて、住んでいた夫婦が二人とも亡くなったんだ。家自体に壊れたところなどはねえし、最低人が住んでいくもんは残っている。赤ん坊を育てるに当たって困ったことなどあったら、うちの嫁に協力させる」
「何とも至れり尽くせり揃えてくるな。しかし山の獣狩りか、手伝えないものではないが、赤ん坊がいるんだ、泊まりがけなどは無理だぞ。日帰りにするにしても、一人にするのはあり得ない」
「泊まりがけにはしないさ。日中出かける間、うちの嫁が預かるか、他の家の子どもとまとめて誰かが面倒を見る。一緒に山に入ることになる男たちも、子持ちだからな」
「うーむ」
「この冬を過ごす食糧や衣類などは、無料というわけにゃいかんが、提供できる。あと都合がいいことに、村外れにチャマメヤギをそこそこの数飼育している牧場がある。ヤギの乳は人の赤子にも飲ませられるから、一頭乳ヤギを売ってもらえるように頼んでやる。家で飼えば、乳離れまで何とかなるだろう」
「本当に至れり尽くせりだな、おい」
「真剣に、お前さんに頼りたいのさ」
「なるほどな」
老人の勢いに負けて、とりあえずしばらくここに留まることを承諾していた。
この夜は土間の隅を借りて、赤ん坊を抱いて眠る。
一晩中囲炉裏の火は残しているので、かなり寒さはしのげた。
自分は元の仕事柄、野営や粗末な小屋での宿泊などはしょっちゅうだったので、この程度は苦にもならない。ただ乳飲み子のことを思うとやはり、屋根のある下で休むことができるのはありがたかった。
翌朝は、雪も止んでいた。
村の暮らしに必要なことをいくつか教えてもらいながら、自分も子どもも朝食をさせてもらう。
その後ホラーツに連れられて、村の山側端の家まで雪をかき分けていった。
一年近く空き家だというが、確かに造りはしっかりしていてほとんど雪の吹き込みも見られない。雪国の家なのだから、見た目粗末でも防寒の配慮はされた石造りになっている。暖炉に薪を燃やすと。徐々に家の生気が蘇るようだった。
村長家の嫁ロミルダと村の若者二名に手伝ってもらい、家の掃除をすることができた。
このドーレスという村は全部で七戸で、住人は二十六名。こうして顎で使えるロミルダより年少の成人した男は、二人だけなのだという。
ホラーツの言う通り村民は皆歓迎の様子で、食糧や赤子の必要品など、廉価で譲ってもらえた。
さらに村長の紹介で牧場を訪ね、乳ヤギ一頭を売ってもらえた。
牧場は春の獣たち襲来時には格好の標的になるので、子ヤギや妊娠中の雌から優先して厳重に護ることになるが、数多い雄や出産済みの雌のうち何頭かは諦める、と言うより囮として犠牲にしなければならない事態にもなるらしい。そういう中の一頭なので、譲ることに問題はないという。
それでもこれはやはり、安くない買い物になった。魔狩人として長年やってきた稼ぎを相当所持してはいたが、こうした生活必需品の購入でほぼ半減したことになる。
そうして元魔狩人の大男と乳飲み子、とりあえず二人の越冬の準備を調えることができた。