prologue
森が、震えた。
と言うより――顫えた。あたかも、腰にも届かない草木から遥か見上げる巨木まで、その場のすべてが骨の髄から恐れ戦いた、かのように。
ただ、目の前の巨大な魔獣の咆哮、そのひとつの結果で。
びりびりと顫え、地の底から戦慄が迫り上がってくるようだ。
男たちの足が強ばり、手の中に汗が握り締められる。
さらに。
全身焦茶の体毛に覆われた魔獣は、もう一度その醜怪な顔をもたげて、吼えた。
ギウアアアーーーー。
続けてまた、足元の草木まで顫えが伝う。
ごくり、とライナルトは固い唾を飲み込む。
背後を窺うと、娘は両手で耳を塞いでいた。
二十ガター(メートル)ほど先まで迫ってきている巨体は、大人の男三人分ほどの背丈で、見るからに剛強な二足で大地を踏みしめ、太い腕を右に左に振り回している。
人型を巨大化し、貌も全身も獣に近づけたという様相で、とりわけ特徴的なのはその顔面だった。
眼が、三つある。
その外観から『三ツ目鬼』と呼ばれるこの魔獣は、その体躯の強さでこの森に留まらず一帯の王者として君臨しているはずの存在だった。
通常は人目に触れるところまで下りてくることはまずないのだが、今はこうして村里まであとわずかというこの森の端まで進攻してきた。ここで彼らが足止めを果たさなければ、村が滅びを迎える仕儀に到るのは火を見るより明らかだ。
ギウアアアーーーー。
さらに、地を震わす咆哮。
そうして『三ツ目』は、手に握っていた人の胴体ほどもある太さの丸太を振り回した。
周囲の木々が、いちどきになぎ倒される。
逃げ遅れていた野鼠が、必死に駆け出していく。
太枝を払った丸太が、振り戻される。
その刹那に、ライナルトは横手へ呼びかけた。
「今だ、撃て!」
「おう!」
標的の両横に回っていた四人の男がライナルトと同時、とりどりに腕を振るう。
魔法の火が三つ、水が二つ、球形で宙を飛んで魔獣の顔面に弾けた。
もとより、威力が小さいのは承知の上、だ。
それでも何とか、魔獣は不快そうに三つの瞼を瞬き顔面を手で拭っていた。
わずかな足止めは、奏功した格好だ。
「よしいけ、もう一丁!」
「おう!」
続けて、火と水が飛び。
さらに続けて、二度三度。
煩わしいとばかりに太丸太が振られ、メキメキと木が倒れた。
「わあ!」
左横手の男二人が飛び退る。
幹の直撃は避けたが、一人が枝に足を払われて転倒していた。
「大丈夫か?」
「や――足をやられた」
「起きられるか?」
「済まん、すぐには無理――」
「くそ、待ってろ! みんな、もう一丁だ!」
「おう!」
愚図愚図してはいられない。
さらに火が三つ、水が一つ、飛ばされる。
次々弾け、大きな手が煩そうに顔前に振られる。
足が止まった、と見て、ライナルトは素速く前進に移った。
続けて火が二つ、水が一つ、飛ぶ。大きな手がそれを払う。
その隙に、太い膝元へ飛び出し。思い切り、愛用の大剣を振るった。
ガシーーン、と鉄鋼を引っ叩いたような轟音と、手応え。
ギウアーーーー!
一声吼えて、巨獣は打たれた足を押し返してきた。
呆気なく力負けして、ライナルトは地面に横転した。
そのまま必死に背を庇い、四つん這いで距離をとる。
残念ながら、毛むくじゃらの臑に傷一つつけられていない。
「続けろお!」
「おう!」
両脇から火が二つ、水が一つ。ひと息遅れて、ライナルトも火球を放つ。
もう頓着せずに、魔獣は大きく丸太を振るった。
わあ、と悲鳴を上げて、左横に残っていた男が地面に転がった。大きな負傷ではなさそうだが、そのまま立ち上がれず呻いている。
残る仲間は、二人。火と水が一つずつ。
それでも、続けるしかない。
「もう一丁だ!」
「おう!」
右横だけから火が一つ、水が一つ。ひと息遅らせて、ライナルトも火球を放った。
初撃を大きな手が払う。時間差で、火球は額に見開く眼を直撃した。
ギウアーーーー!
さすがに効果はあったようで、三つの眼が強く閉ざされ、やや間を置いて開かれる。
「オータ!」
中央の眼に光が吸い込まれ。
続けて放った火球が、眉間に炸裂。
大きく仰け反り、巨体が傾く。
ここぞ、と大剣を両手に握り、ライナルトは突進した。