春 その②
「おはよーございます、宵河先輩」
朝。登校中のことだった。ふいに後ろから声をかけられた。
後輩なんていたかな、なんて馬鹿げた考えが一瞬よぎる。なんせ、音研の部員なんて去年は僕一人だったのだ。僕の卒業とともに廃部になるんだろうな、それもそれでエモいな、なんていつも考えていたせいで、先日できた後輩のことを忘れかけていた。
「ああ、おはよう……四宮」
「あやめって呼んでくださいよ」
「やだよ、気恥ずかしい」
「えー……なんか距離感じるんですけど」
まだ出会って一週間なんだが、というツッコミはしないでおこう。
人間の適応力というのは恐ろしいもので、一週間も経たないうちに、この不思議な少女の扱い方を僕は会得してしまっていた。
どうやら、彼女は……ひどく。「理想」というものが高いようだ。
文字通り、夢を見ている。
現実を押し付けるのは、きっと彼女にとってよくないんだろうな、と思った。だから、演者にならなくてはならない。彼女にとって、高校は、いや、音研の部室は、テーマパークのようなものなのだ。どこか現実離れしていて、まるで漫画の中の世界のようでなければならないのだ。
だからというわけじゃないが、僕はここ数日間、彼女を連れて校内を歩き回っていた。知り合いの部を回って、無邪気な少女が「学校のヒミツ」を見つけようとするのを手伝ってもらっていた……もとい、そういうふうに演じてもらっていた。
幸いなことに、彼女は単純だった。例えば、理科室で秘密の実験が行われている、とか、生物室裏の桜の木の根本には死体が埋まっている、とか、そういう陳腐な秘密で満足してくれた。各部に一人協力者を募り、もっともらしい仕草で話してもらえれば、彼女としては満足だったらしい。
探偵気取りの、子ども。決して名探偵にはなれない、ただ夢を見ている少女。
彼女に対する若干の嫌悪感と危うさを隠し通しながら、僕は彼女に接している。
「せーんぱい! お疲れさまです」
放課後になった。
幸い四宮の学校生活はうまくいっているようで、放課後も楽しそうに部室にやってくる。
「ん〜……」
めいっぱい伸びをしながら、彼女は《ブース》に座り込んだ。四畳半の片隅、もともと僕のMIDIキーボードが置いてあったところに、彼女のスペースがある。机、いつ持ち込んだかも分からない高そうなパソコン、それに何故か置いてあるティーポット。特命係です! なんて言っていたっけ。
「ねえ、先輩。今日はどこにいきますか?」
正直、辟易していた。
この部は別に窓際でもなければ探偵事務所でもないし、オカ研でもない(彼女が入部してきたあと調べてみたが、この学校にはオカルト研究会がないらしい)。
僕は静かに音楽を作っていたいのだ。このまま彼女の希望を叶え続けていたら、気が休まらない。なんとかして彼女をこの部本来の活動に連れてこれないだろうか、と。
そう思って、僕は彼女のブースをちらっと覗き見た。
17インチの大きなモニターに、デスクトップが映し出されていた。
その端に、見覚えのあるアイコンがあった。
「……四宮って、音楽に興味ないの?」
「え、なんでですか?」
「いや……ここ音楽研究部だし」
「うーん……」
まただ。
彼女はよく悩む。
「多分、好き。」
「多分ってなんだよ」
「分からないんですよ、それが好きかどうか。だって、なんか難しいじゃないですか」
そういうもんかな、と返しながら、僕は内心少し嬉しかった。
PCのデスクトップにあったのは、僕が使っている音楽制作ツールのアイコンだったのだ。
どうやら思ったより、彼女はいろんなものに手を伸ばしてきたらしい。全然その話をしないから、きっと彼女は挫折した類、あるいは飽きてやめてしまった類なのだろう。もしかしたら、またやってくれるかもしれない。そんなふうに思った。
「そういう先輩は?」
「え?」
「好きなんですか? 音楽」
「……」
ちょっと、考え込んでしまった。
四宮の言った、「多分」が頭から離れない。多分、好き。
僕はどうなんだろう。
「そりゃ、好きだろ」
「ふーん。まあ、そうですよね。音研の部長ですし」
「それに、四宮も結局好きでしょ、音楽。DAWまで入ってて。作る側だった人間が、作ってるもの嫌いなわけないじゃんか」
「……? DAWってどれですか? っていうか! 別にいいですけど、人のパソコン覗くのってよくないんですよ」
ぷりぷり怒っているような素振りを見せつつ、画面を見せてくる。
「え、DAWはDAWだよ、そのアイコン」
「ああ……これですか? へー、これってそんな名前だったんですね」
「知らないで使ってたの?」
「はい、母が入れたやつなので」
「あ、共用なのね……」
なんだ。
四宮本人の趣味じゃないのか。それもそうだ。音楽が好きだからって、全員が全員、曲作ってるわけではないだろうに。ほら、音楽鑑賞が趣味って人もいるしね。
「たまに、作ってってお願いされるんですよ。母に」
「……え、何を?」
「これで、歌。でもあんまり楽しくないんですよね、作るって決まったらすごく厳しくなるし」
「……え、ちょっと待って待って、え、四宮は作れるの? 音楽」
「まあ、はい。でも先輩にはかなわないと思いますよ〜、だって始めたの、高校受験が終わったあたりなので」
「……よかったら、聞かせてもらっても?」
「え〜……」
「いや、別に、無理にとは言わないけど」
「ふふん、じゃあ、先輩がもっと私に夢を見せてくれたら、聞かせてあげてもいいですよ」