貴女が抱く感情と同じモノをこの胸に
「俺、今回はとても頑張ったと思いませんか」
仔犬のような顔を、わざと作り上げて男は私に目線を合わせた。長い身体を窮屈そうに折り曲げて此方をじっと。
そうですね、適当に相槌をうてば何処から取り出したのか真っ白なハンカチを小道具によよ、と泣き真似をした。
「貴女に言われたように令嬢に媚びを売りました」
「そうですね」
「きちんと弱味も握りました」
「そうですね」
「そのお陰で貴女のお姉様は無事です」
「……そうですね」
「ご褒美をください」
「…………はぁ」
確かに、この男の働きは素晴らしいものだった。姉を嫌う女どもを一網打尽にできた。素晴らしい。認めよう、その働きについては。
「ご協力感謝します。ですが、元からそういう約束です。私が何かを返す道理はない」
「そんな冷たいことを言わないで。悲しくなるじゃないですか」
折り曲げた身体を元通りにして、男がもう一度ハンカチを目に当てた。そこに光る水の粒などある訳もない。
「下手くそな泣き真似ですね」
「おや、本当に涙を流した俺を見たいと?」
「そんなことは一言も」
「貴女がキスをしてくだされば、すぐに歓喜の涙を流す男ですよ」
試してみますか? 広げられた腕を叩き落として、睨みつける。男は楽しそうにケラケラ笑った。
面倒くさい。
面倒臭いがしかし、この男が私の婚約者である事実は変えようがないことだった。
◾️
「────婚約?」
「ああ、お前に話が来ている」
ブラウンを基調にした執務室。父に呼び出された私は机を挟んで座っていた。
「相手は?」
「ウッド商家の長男」
「利益は?」
「財力だな」
なるほど、そう返すと父は顎に指を寄せて考えるような仕草を取る。
「お前にとっても悪くない話だろう」
「はあ」
「前に遠目から見たことがあるが、それなりに見目の整った男だ」
「へえ」
「それに優秀だとも聞く」
出された紅茶を一口。ソーサーにカップを置けば父の瞳がこちらを射抜いた。こちらの答えを待っている。
「そんなことはどうでもいいですね。それは、姉の役に立ちますか」
「……間違いなく」
「なるほど。受けます」
父は頭痛を和らげるかのようにこめかみを揉み込んだ。私と話をするときにしばしば見かける動作だった。
「もう少し考えろ……! これからのお前の人生がかかっている」
「金があれば姉のドレスが増えます。幸せです」
「そういうことではない!」
はぁぁ、と長い溜息が空中に吐かれた。其方から振ってきた話だというのに。
「侯爵家の令嬢が、商人と婚約する。周りから何を囁かれるか、言ってみろ」
「金に堕ちた女。可哀想に。貴族の誇りを捨てて金に媚を売るなんて。プライドはないのかしら」
もういい、手で静止されたので口を噤む。
「そこまでわかっていてどうして……」
「仕方ありません。この家は財政難です。三年連続の凶作……。天候はどうしようもありませんから」
おかげさまで、姉が好きな紅茶すらブランドを下げる羽目になった。
「お前は姉を盲信しているが」
「はい」
「私にとっては二人とも大切な娘だ。考え直さないか?」
「それはどうも。他に金を増やす方法が有れば考え直しますが、どうにも見つからないようなので」
父はもう一度、こめかみを揉むと私に向き直った。その顔は、もう父親の表情ではない。領主であり、この家の当主の顔付きだった。
こういう訳で、手っ取り早く言えば金のために、私は商人の婚約者になったのだった。
◾️
「はじめまして」
「はじめまして、こんにちは」
にこり、男が微笑んだ。婚約が決まって初の顔合わせ。後はお若いお二人で、そうお決まりの文句を言われたのちの会話だった。
胡散臭い男だな。それが第一印象だった。
頭のてっぺんからつま先までどこにも隙がない。自分をどう魅せるか、分かっている人間の振る舞い方だった。流石は商人の息子というべきだろう。
「これから宜しくお願いします……とは言えど、私たちはお互いを知らなすぎる」
「そうですね」
「幾つか質問しても?」
「どうぞ」
ありがとうございます、恭しく男が目を伏せた。ともすると、パッと顔を上げて口を開く。
「ご趣味は?」
「植物を、少し」
「休日の過ごし方は?」
「……馬の面倒を」
面白がっていた。蒼色の瞳が愉快そうに細まる。ド定番の質問だ。聞くのも馬鹿馬鹿しいような。そもそも、大抵のことは親を介した紹介文で知っている。
「ふふ、怒りましたか?」
「特には」
「面白い方ですね」
くすくすとひとしきり笑うと男は此方へと視線を動かした。
「貴女から何か質問はありますか? お詫びに何でも答えますよ」
「……そうですね、商品は何を主に取り扱っていますか」
これも知っていることだ。要は話のタネになればいいのであって、より深く親しくなろうなど考えちゃいない。私は男の金が目当てなのだ。
「おや、私自身のことは尋ねてくださらないのですね」
「答える気がないのなら結構です」
「気の短い方ですね、冗談ですよ」
例えば、と形のいい唇が動いた。すい、と手で指折り数える。
「宝石、ドレスにそれから化粧品……」
まあ、色々ですね。数えるのが面倒になったような仕草だった。
「ああ、そうだ。最近はそれにも力を入れています」
指で示したのは今飲もうとしている紅茶だった。そのまま一口喉に通せば、なるほど。良い香りがした。ただ、私に紅茶の良し悪しはわからない。
「美味しいですか」
「はい。何の茶葉かはわからないですが」
「……ふふ、正直ですね」
毒にも薬にもならない会話だった。酷く時間の無駄を感じて小さくため息を吐く。早く、帰って姉と話したい。
「他には何かありますか?」
男がカップから口を離して、言った。
「そうですね……」
どうせ、婚約が破棄されなければいいのだ。さっさとこのお茶会を終わらせたくて口を開く。
「何故、私ですか」
「何故と言いますと?」
「姉をご存知でしょう。アレは美人です。人気です」
「確かに、社交場で名前を聞かない日はありませんね」
「それに、貴族なら誰でもいい話でしょう」
言い終わって明け透けすぎたか、とも思ったが良いだろう。無味無臭の会話を続けるより余程有意義だ。
ウッド商会といえば、ここ最近話題の事欠かない存在だ。経営者の手腕が余程素晴らしいようでぐんぐん勢力を伸ばしている。その気になれば、侯爵家どころか公爵家にパイプを繋ぐことだって出来たはずだった。
あちらは地位を欲している。貴族との繋がりという後ろ盾を。多少荒事を起こしても揉み消せる力を。
「…………」
じっ、と暗い蒼色がこちらを観察する。数秒だった。男は先程のように笑顔を貼り付けると
「貴女がいいんです」
「はあ、それはそれは」
「信じてませんね?」
「一目惚れですか、恋愛劇にはよくありますね」
男にまともに答える気はないらしい。それもそうだ。令嬢に明け透けな事情を話すほど、この世界は単純に出来ていない。私も、父も知らないような何か大きな流れがあるのだろう。
ジャムがのったクッキーは甘すぎた。好んで齧る姉の気持ちを理解できそうになくて、気分が落ち込んだ。
「いえ」
テーブルの上で男の腕が組まれた。暗い蒼がより一層、濁るようにくすむ。
「……酷い方です。私はこんなに貴女を想っているのに」
「想われる覚えがなかったもので」
「では、こう言い換えましょう」
貴女が姉を想う気持ちと同じ感情を貴女に抱いています。
は、と口から空気が漏れた。男は楽しげに唇を歪ます。
────ああ、なるほど。おあつらえ向きの少女の顔を引っ込めて、私はそっと足を組み替えたのだった。
面倒な男。それが第二の印象だった。
◾️
面白くないな、と思った。財力が乏しい侯爵家の令嬢のお相手に商人を選んだのまでは良かったものの、中身がああも食えない相手だとは思ってもみなかった。
顔合わせから帰ってきた私の元に駆け寄る足音が聞こえて、顔を上げる。
「リーシェ! おかえりなさい。ねえ、どんな方だったの? お話を聞かせて頂戴な」
姉だった。先程までの苛ついて昂った感情がたちまちに消えてゆく。できうる限りの温和な表情を浮かべて、姉様待って、今靴を脱ぐから。そう答えた。
「ごめんなさい、私ったら。それで、どうだったの? 素敵な方だった?」
姉がぐいぐいと腕を引いて、私を部屋へと連れて行こうとする。兎にも角にも話を聞きたいようだった。そういえば、この前部屋にロマンス小説が転がっていた。大方、何か憧れるようなストーリーがあったのだろう。その証拠に姉の目はいつにも増して輝いていた。
「ええ、素敵な方でした」
見た目は。
確かに見た目は一級品だろう。私と三つしか違わない年のわりの落ち着きも好意的に見れば"素敵"の部類に入りそうだ。
しかし、その中身と言えば面倒の極みだった。何度拳を握りしめ、頬の内側を噛み締めたかわからない。
私の姉への歪んだ感情を男は知っていた。知っていたわりに取引の材料にする訳でもなしに、ただ己がその情報を持っていることだけを伝えた。もうこの時点で面倒くさい。姉に絡んでなければ放り出していたところだ。
「商人の方なのよね?」
「最近勢いのある商会を運営されているそうです」
何処からバレた。周囲からは少々他より仲の良い姉妹と見えるように振る舞っていたつもりだ。事実、そう認識している人間が殆どだろう。
「どういった話をしたの?」
「お互いについて、多少」
きらきらとした期待を受けながら脳みそを回した。あの顔は確信していた。私のこの汚らしい感情を! この美しい姉への執着を。ああ、面倒臭い。もうあの男を殺してしまおうか、いやでも金は必要だし
「その、リーシェとしてはどう思ったの?」
ふかふかのソファへと腰をおろした姉の目には爛々と『身分違いの恋』という期待の文字が浮かんでいるようだった。商人と貴族。恋愛物語には確かに多い題材だ。
明らかに生娘のような反応を期待されている。私は姉には弱いのだ。
姉の期待に応えるように、そっと頬を染めて
「ええと……」
そう口ごもればハッと口を抑えた姉がそれはもう嬉しそうに私を抱いた。
「いいのよ、リーシェ。ごめんなさい、色々聞きすぎてしまったわ」
想像通りの反応を返してくれる姉に私はぎこちない笑みを返す。染めた頬は恋慕ではなく怒りなことを姉は知らない。
さあ、疲れたでしょう? そう言って自室へと送り届けてくれた姉に親愛のキスをしてそっと扉を閉めた。
去っていく姉の足音を耳へと入れながら、ベッドへと腰掛けこめかみを刺激する。無駄に煌びやかな衣装が煩わしい。
どうやって知った?
目的は?
要求は?
どれも男から引き出せなかった情報だった。全く、婚約者は素直で優しくてお人好しが一番いいとはよく言ったものだ。アレなど正反対じゃないか。
考えたところで婚約が解消されることはない。拗ねるようにして寝転がり、目を閉じた。不貞寝だ。
次の日、くしゃくしゃになった服を掲げられながら馴染みの侍女にこれでもかと怒られた。
◾️
二度目の逢瀬は矢継ぎ早にやってきた。
嫌すぎて、どうにか回避出来ないかと愛馬に蹴るよう頼んだが、過去の私によってよく躾けられていたので駄目だった。それに高い茶葉を手に入れてくるくる踊る姉を見てしまっては、どうしようもない。
この日は生憎の雨。落ち着いた雰囲気のレストランでの食事だった。
「こんばんは」
「こんばんは、贈り物気に入って頂けましたか?」
「ええ、とても」
当たり障りのない手紙と紅茶のセット。男はそれは良かった、そう微笑むと椅子へと座った。
男について調べたがめぼしい情報は分からなかった。趣味や、好み、経歴、学歴、全てにおいて白塗りにされた壁のように突きどころがない。
ならば。運ばれてきたメインを口に運んで男の目を見た。
「前回」
「はい」
「貴方は姉について言及しましたね」
「いえ、正確には貴女の話です」
「単刀直入に言います」
「どうぞ」
「協力してください」
男の目が見開かれた。初めて見る人間らしい表情だった。
男の真意がわからないのなら、こちらに引き込んでしまえばいい。ヤケクソで考えた案だった。別に私の想いを姉にバラされたところで痛くも痒くもない、がしかし姉を攻撃されてはたまったものではないのだ。
婚約をより有利な立場で進めるために、姉を利用されるのは耐えられない。怯えた態度では舐められる。相手は商人。交渉については明らかに分があちらにあった。
「私がいい、と言いましたね? 私は貴方でなくともいい」
事実だが、これほど好条件な相手は他にいない。ハッタリ五割。事実五割。婚約の解消権は私が貴族である限り常に、こちら側にあることを利用した賭けだ。
男はふむ、と顎に手を当てると目を伏せた。
「内容は」
「姉に群がる虫の駆除を」
「その代わり、貴女は俺のモノになると?」
モノ、というか婚約を解消しないだけだ。
ここで訂正するの面倒なので頷けば、熱に浮かされたような瞳で男が己の唇を撫ぜた。
「いいでしょう。愛おしい女性に"お願い"されて、否と答える男はいません」
含まれた何かを無視して、そうですかと答える。上手くいったようだった。そこまでして私の家に執着する何かがあるのか、それとも姉を狙って? 姉へ恋慕しているのなら扱いやすい。
「それなら────」
しまった、そう思った。見上げた男はこちらを真っ直ぐに射抜いている、その瞳には見覚えがあった。どろりとした執着。海のような瞳がこちらを引き摺り連れて行こうとしている。
「勘違いしないでくださいね」
「は、」
「俺は貴女のお願いだから聞くんです」
いつの間にか、するりと手を握られる。人差し指で、つつつと手の甲を撫でられた。
「交渉がお上手ですね」
「それは、どうも。手を離してもらっても?」
「婚約解消をチラつかされれば、きっと何でも言うことを聞きますよ。俺は」
「手を離してもらっても?」
「約束、違えないでください」
手を振り払おうとするが案外力が強くて離れない。馬鹿力である。こんな細身のくせに。私は諦めるとため息を吐いた。
何か、自分は重大な過ちを犯したのではないか。
まあ、しかし姉の守りが固くなると思えば多少の面倒事など取るに足らない些細なもの。
結局、その手はデザートが運ばれてくるまで解けることはなかった。
◾️
そんな事もあったな、回想は短く終わった。
男は未だ"ご褒美"が貰えると思っているのか、期待のこもった瞳を輝かせている。
協力の効果は絶大だった。
主に私では払えない女に対して。
「この調子でどんどん宜しくお願いします」
姉は美しい。美しさは罪だ。ブロンズの髪は濡れたように艶を持ち、瞳はどんな富豪が持つジュエリーよりも圧倒的で、肌はシルクより滑らかだった。
圧倒的な美は、どんな努力でも敵わない美は、女を嫉妬へと駆り立てる。それほどに姉の存在は劇薬だった。
「男性はどうにかなるんですが」
例えば、姉より劣った私にすら届かないのだと思い知らせてプライドをへし折ったり。姉に触れようとすれば上手く他の男を使ってけしかけてみたり。
「女性は難しいんです」
そもそも私と話すことすら嫌うのだ。ほんの少しの面影すら許せないヒステリック女たち。それがこの男が甘い表情一つ見せればしなだれかかり、簡単に姉への嫌がらせを自白した。笑いが出そうだった。
「お役に立てて何よりです」
「その目、いい加減辞めてください。何もでません」
男は拗ねたような顔付きを作ったのちに、いつもの飄々とした笑顔を浮かべた。わざとらしい。
「次はどうしますか?」
「そうですね……」
勧められたままに椅子へと腰掛け、考える。婚約してから三か月が経っていた。姉の望むような進展はないが、私の計画は大いに進んでいた。
「テオ王子、わかりますか」
「ええ、勿論。自国の第二王子の名前くらい覚えていますよ」
ふう、と息を吐く。土台固めはそろそろ終わってもいいだろう。
「姉はあの男を好いています」
「なんと」
口に手を当てて男が驚いた表情を作った。実にわざとらしくて、腹の立つ動作だ。
「ですが、テオ王子は大層人気な方です。頭脳明晰、眉目秀麗、八面六臂。しかも王子です。姉の素晴らしさをもってしても一筋縄ではいきません」
「その口で他の男を褒めないでください」
「…………ともかく、姉がどうにかお近づきになれるようにしたい。何か思いつきます?」
男が持ってきた大ぶりの苺が乗ったケーキは随分と美味しかった。ふわふわとしてて、姉が好みそうだ。
「いいんですか?」
「何が」
「お姉さまを男に取られても」
にやにやと揶揄うような表情で、口の中にケーキを放り込む男。その整った顔に一発入れてやろうかとも思ったが、顔は駄目だ。利用価値が高すぎる。
「元より、私が一生姉を守り続けられるとは思っていません」
「なるほど」
「だからこそ、姉の夫は私がきちんと選びます」
「テオ王子はお眼鏡に叶いましたか?」
「他の男よりはマシですし、姉の想い人ですから」
────姉を閉じ込めて、一生私だけを見て貰えればどれほどいいだろう。だが、無理だ。私たちは姉妹で、貴族。結婚は免れない。
「ではどうしますか。王子に惚れ薬でも飲ませましょうか」
何処からか出したのか。薄桃色の液体が入った瓶を取り出した男に頬が引き攣る。ちゃぷちゃぷと振られた瓶から音がした。
「不敬罪で殺されます。却下です」
「おや、では……黒魔術でもかけましょうか」
「却下」
「ワガママですね」
軽く睨むと、男は両手を上げてひらひらと手を振った。
「簡単ですよ。姉と王子が話す機会さえあればいい」
「自信がありますね」
「姉ほど美しい女も、気品のある女も、優しい女もいませんから。おまけに賢いのです」
「会わせてしまえば王子が勝手に惚れると?」
「ええ」
からん、とフォークが置かれた。たった三口であの大きなケーキを完食したらしい。
「あの王子は女嫌いで有名でしょう」
「関係ありませんね。有象無象の女と姉は違う。ただ……」
「ただ?」
「姉は奥手なんです。その癖、ロマンス小説のような展開に憧れている」
そこが可愛いとも言えるのだが、いかんせん王子を落とすのには積極性がなければ始まらない。
大ぶりの苺を口に含む。じゅわ、と果汁が溢れた。程よい酸味が甘ったるいクリームを中和する。
「ふふ」
「……何か?」
「いえ、貴女は好きなものを最後に食べるんですね」
「好きというか、口の中がサッパリするので」
「今度から俺もそうします」
「好きにしてください」
王子に関して調べた資料を捲る。お抱えの密偵を送り込んだので、それなりにコアな情報も載っていた。
「とりあえず、私がするべきことは雰囲気作りです」
「雰囲気作り」
「姉が流されるような運命的な逢瀬を創り上げなければなりません」
「ふわっとしてますね。先日まで生臭い話をしていたのに」
「害虫を追い払うのと、蝶を愛でるのでは繊細さが違うでしょう」
どうでもいい相手に手段など選ばないが、姉となるとそうはいかない。細心の注意と配慮のもとに進めなければ。
「手っ取り早いのは王宮に足を運ぶことですね」
「口実のアテは?」
「これでも私、学園では相当優秀な方なんです。ある程度王宮で働く先輩にツテがあります」
「なるほど、抜け目ないですね」
姉は花が好きだ。用事を済ますまで王宮の庭園で時間を潰してもらう体を取るとして……
「問題は王子をどう庭へと誘導するか」
「黒魔術でも使いますか?」
「使いません」
男は紅茶を飲むとほんの少し眉を顰めた。この茶葉はお気に召さなかったらしい。
「いや、私がどうにかします」
「どうやって」
「王子に頼みます。姉を見ていて欲しいと」
「却下です。そもそも貴女と王子は気軽に頼み事が出来るような仲ではないでしょう」
「くっ」
はあ、と男がため息を吐いた。仕方ないですね、そう言うと手帳を取り出す。
「最近は王宮に商品を売りに行く事もあるんです。テオ王子も一応顧客リストにいます」
「最高じゃないですか」
「適当に庭へと誘導しますから。それ以上はどうにもできませんがね」
「貴方という男が婚約者で私は幸せです」
「それは別の機会に言って欲しかったですね……」
情けなく下がった眉を目に入れながら、私はよしと拳を握ったのだった。
◾️
「予想以上に計画が上手くいってしまった……」
「貴女の言う通りでしたね。会わせてしまえばスムーズでした」
小洒落たカフェのテラス席。目に付いて頼んだサンドイッチをおざなりに齧った。
「今日、お姉さまは?」
「王宮です。王子とお茶会だそうです」
「拗ねてます?」
「拗ねてません」
嘘だ。そこそこ、それなりに、わりかし面白くない気分である。こうもポンポン先に行かれるともう少しゆっくりでもいいのでは、と文句を言いたくなる。
「分かりますか、私の気持ち」
「分かりたいとは思いますが」
「姉が女の顔をしているんです……最悪だ……悪夢ですよ、悪夢」
「引き合わせたのは貴女でしょう」
「死にたい……」
「重傷ですね」
無駄に長い足を組み替えると男が店員を呼んだ。水を頼んだようだった。私は酔っている訳ではない。
「それで、次はどうするんですか」
「もうそろそろシーズンが終わるでしょう。王子は避暑地に行くそうです。偶然を装って同じ場所へ行きます」
「ストーカーじみてませんか」
「ロマンスには必要なんですよ」
ふわふわとした甘い砂糖菓子では出来ていないのが現実のロマンス。入念な下調べと牽制。必要なのはこの二つだ。
サンドイッチをもう一口齧ればマスタードの味がした。遅れて鼻がツーンとする。もう二度とこのサンドイッチは頼まないだろう。
「それ、苦手ですか」
「……よくわかりましたね」
「愛の力ですよ。夢があるでしょう」
「そうですか」
この男の言葉にもいい加減慣れてきた。ひょい、とサンドイッチが皿から消えて、目の前にこんがりやけたクロワッサンが置かれた。有り難く頂戴する。男はマスタードを気にしない舌のようだった。
「避暑地、俺も呼んでくれますよね」
「いやいや今回はいいです。遠慮します」
「おやおや照れなくていいんですよ」
「いやいや……」
仕事あるでしょう、そう言うとにっこりと避暑地での商売は捗りそうですね、と返される。これは着いてくるだろうな、確信した。
後日、旅行の計画書が送られてきた。悔しいことに本職の仕事は本職であったので、仕方なしに同行の許可をしたのだった。
◾️
「ねえっ、リーシェみてっ。すごいわ、水が透き通ってる! 魚が見えるわ!」
「本当だ、綺麗ですね。足元気をつけてください」
「あっ、跳ねた!」
青い空、強い日差し、広がる海。真夏にこんな所に来る人間の気は知れないが、姉が喜んでいるので良しとしよう。
「あ、そこに立っててください。いい感じです」
「婚約者を日除けにするのは貴女くらいでしょうね」
サングラスをかけた男は商人というより柄の悪いにーちゃんだった。日除けどころか男避けに丁度いい。
姉と、私と、男と、それから両親。家族水入らずが水がドバドバに入ってしまっている。男は口が上手いので両親を騙くらかして着いてくるのはお手の物のようだった。
曰く、女性ばかりだとリゾート地は危ない。
曰く、姉と私をまとめて面倒を見る。
曰く、商売の手を広げるついでだから気にしなくていい……
よく回る口だな、感心した。納得した父親には後で強く言い聞かせねばなるまい。
「そういえば、お姉様」
「? なぁに、リーシェ」
「どうやら、テオ王子もこちらに来ているようですよ。お忍びのようですが……先程従者を見かけました」
「!」
ぽぽぽっと林檎のように姉の頬が赤く染まった。熱中症ですか、帰りましょう。言いたい気持ちを我慢して、にっこり笑った。
「そ、そうなの……? でもここも広いから会うことはないだろうし……」
もじもじと姉が身体を捩った。周囲の男どもの目が痛いが声を掛けてくる勇者はいない。柄の悪いにーちゃんが日傘として立っていたおかげだった。
「まあ……そうですね」
バッチリ、同じビーチを利用している。ロマンスには密偵の一人や二人必要なのだ。
「ええ、そうよ。だから、リーシェ一緒に遊びましょ?」
「勿論です」
少し水に慣れてからーー予定調和のように姉と王子が出逢った。両者頬を赤らめて、お互いの水着姿に照れている。貴族の水着だ。真夏の格好とさして変わらない。それでも二人にとっては特別なようだった。お互いを褒め合う、その様子をぼんやりとパラソルの下で眺めた。
「どうぞ」
男が氷の入った飲み物を差し出した。
「ありがとうございます」
「怖いくらい上手く行きますね」
「残念ながら、私は優秀なんです」
「それは残念……おや」
砂浜に足を取られた姉の重心がぐらりと揺れる。
立ち上がって、それから座った。王子が姉を抱きとめたからだった。
「寂しそうですね」
「ええ」
「否定しないんですか」
「とてもじゃないが出来ませんね。姉の隣はいつも私だった。今じゃあの男です」
「貴女の隣には俺がいますよ」
「クサイセリフですね」
「貴女の姉に言われておすすめの小説を読んだので。何処で貴女に何を言えばいいかレクチャーしてくださいましたよ」
「ああ……」
姉は姉で私の恋路を応援しているつもりなのだった。後で話を合わせなければ、そう思いながら目線は仲睦まじい男女を追った。
男はサングラスをサイドテーブルに置くと、チェアへと寝転がった。長い足がぶらぶらとはみ出ている。
「お似合いですね、こう見ると」
「誰が見ても文句は言えないでしょうね」
「言わせませんよ」
これで、いいはずだ。姉は幸せそうに笑っている。その向けた先に私がいなくとも。
男は少し黙ってから、立ち上がった。忙しない。
「折角海に来たので泳ぎましょう」
「いやいいです」
「あの二人はどうせ王子の護衛が穴が空くほど見ててくれますよ」
ひょい、簡単に抱えられて腕を叩いた。びくともしない。ゴリラなのか、なんなのか。商人にここまで鍛える意味はあるのか。ないだろう。十中八九、元のポテンシャルだ。
「水着似合ってますね」
「それはどうも」
「ここにいる男どもの眼を一つ一つ潰しておきたいですが……まあそれは後でやるとして」
「やめてください、降ろしてください」
「水着だと色々いいですね、色々と」
「降ろせ」
「これがご褒美ですか」
「降ろせ」
ぎゃあぎゃあと言ってるうちに男は海へと入っていく。降ろされて浮いた。陸に降ろせと言ったのだ。
水は炎天下のわりには冷たかった。浅瀬だから男は足がつくようでぷかぷか間抜けに浮いている私を支えている。
「無駄に長くていいですね、その足」
「褒めてますか」
「やっぱり、背は遺伝なんですかね」
「五つ下の弟は小さいですよ。その代わり六つ下の弟はもう俺の背を越しました」
まだ見ぬ五つ下の義弟の性格が何となく予想できて小さく笑った。男の目が不自然に瞬いて、それから逸らされる。
なんとなく浮いていただけだったが、冷たい海の中でぼうっとするのは嫌いじゃない。私の好みについて新しい発見だった。
◾️
ホテルの部屋で窓を見ていた。時刻は夕方を過ぎ、夜の帳が下ろされかけている。ぽつぽつ立った橙色の街路灯がロマンチックな夜景を構成していた。
海からの帰り道、姉と王子は時間を惜しむように身を寄せ合い、笑い合っていた。
傍目から見れば劇のワンシーンのようで、私はそれを後ろで眺める。
劇だったらどうだろうか。
きっと、私の役は王子に報われない想いを寄せる哀れな女だったろうに。
嫉妬、憎悪、寂寥、悔恨。
どの言葉も私の心中を表すには足りなかった。そもそも、姉に王子をあてがったのは私だ。満たされた心と穴が空いた心の天秤がぐらぐら揺れる感覚だった。
もう寝てしまえ。
王子は明日城へと戻るようだった。急ぎの仕事が入ったそうだ。明日になれば、私の姉は戻ってくる。ささくれた心を慰めるように膝を抱いた。
コンコン、軽やかなノックが響いた。夜は遅い。不審に感じて、様子を伺った。
「リーシェ様!」
見知った声だった。焦燥の乗った声に扉を開く。姉に付けておいた護衛だった。
「どうかしましたか」
「っ申し訳ありません! お嬢様が、部屋におらず……周辺を探させましたが何処にもいないのです」
筋肉が強張った。姉には常駐の護衛が二人。それから隠して二人。誘拐、といえど四人いて気づかないことはそうそうない。姉への忠誠心も申し分ない四人だ。つまり、姉が護衛の目を掻い潜って、故意に抜け出したことを意味していた。
「私も探します。貴方たちも捜索範囲を広げて探してください」
「旦那様と奥様にこのことは……」
「言わなくて結構。探した場所は?」
「ホテル敷地内はくまなく」
「わかりました」
ショールを手に取る。私付きの侍女が慌てたように隣室から出てきた。「お湯を用意しておいてください」侍女が戸惑ったように頷いたのを横目で確認して、そのまま部屋を飛び出した。
嫌な予感がする。
舗装されているとはいえど、夜道は暗くて危ない。姉が何のために外へ出たのか。それは後回しだ。まず、保護をしなければ。
向かったのは昼にいたビーチの方向だ。しばらく無心で足を動かしていると、小さな人影が浮かび上がってきた。
「姉様!」
パッと人影が顔を上げる。堤防の上でうろうろと所在なさげに、地面と睨めっこしていた顔が驚きに染まる。
だが、呑気に何をしていたのかを聞く暇はなかった。
「危ない!」
姉はえっ、と口に手を当てた。その後ろから大波が、大きな闇が襲ってきていた。立ち尽くしたままの姉をそのまま引き摺り込んでいく。
波が引いた時に姉はいなかった。飲み込まれたのだ。
────許せない。私の許可なく姉を連れていくなど。
躊躇などなかった。走り出してそのまま海へと身体を投げる。ごぽり。冷たい。海は陸より冷えにくいといえど、突き刺すような寒さだった。
姉を探ろうと目を開ける。
金色の髪が水中に広がり、絵画のように美しい。水を飲んだのだろう。目は閉じられ、意識はなかった。
「っは」
姉の身体を掴み、なんとか水面へと顔を出す。ぐったりとした姉を支えて堤防を見た。姉を抱えて上がれる高さではない。
「いっ、」
波が襲う。堤防の硬い石に身体を打ち付けられ、声が出た。堤防に背を向けながら、抱え直す。
このままでは姉は死んでしまう。奥歯がぎり、と鳴った。
何度も、何度も、波は打ち寄せた。姉を取り返した私を咎めるように。何度も。
絶対にこの手は離さない。姉はやれない。やるものか。私の姉だ。
みしり、骨が嫌な音をたてた。冷や汗なのか、海水なのか判別つかない液体が額を流れる。
「……………!」
ぼんやりとし始めた意識をなんとか保っていると声が聞こえた。この声を私は知っていた。
「ここです!」
張り裂けんばかりの声をあげる。その際に水を少し飲んでしまって咽せた。
忙しない足音が近づいてくる。影が水面に落ちた。
「っ姉を!」
男だった。大きく目を見開いて、堤防からこちらを覗き込む。私は精一杯姉を上へと持ち上げて、男へと渡そうとした。
男の手が姉の腕を掴み、苦悶の表情も浮かべず引き上げられた。やはりゴリラなのだ。
姉が助かった。バタバタとうるさい音がしたので、きっとすぐに護衛達も来るだろう。
張り詰めていた糸が切れるように身体から力が抜けた。
力の抜けた身体では襲ってきた波へ抵抗できない。
「手を!」
姉を横たえた男が、私に手を伸ばす。届かなかった腕はあっさりと水に投げ出される。波は私を覆い隠し、深海へと連れて行った。
空気が口から漏れる。
死ぬのか、頭は冷静ですんなりとその事実を受け入れた。
視界が霞む。音が消える。光が失われていく。
『妹にさわらないで!』
幼い姉が瞼の裏で叫んだ。
『お姉ちゃんが絶対、絶対守るから。リーシェは安心してね』
記憶のなかで姉が殴られた。ぞんざいに引っ張られたブロンドが悲鳴を上げた。ぶちぶちと嫌な音を立てて、引きちぎられた。
それでも姉は私の前から退かない。
馬鹿だな。早く退いて、私を囮にしてでも逃げればいいのに。テープで覆われた口では伝えられない。縄で縛られた足と腕では動けない。
別に姉が嫌いな訳ではなかった。ただ、どうでもよかっただけ。姉より自分が劣っていると周囲に毎日諭されていたおかげで、劣等感も憎しみも感じなかった。
でも、この時私は思った。
周囲の人間は何を見ていたのだろう。姉はぞっとするほど美しいだけの女ではないじゃないか。私よりも優れている? そんな話ではない。
この女は、この姉は。
最後の空気が口から逃げた。もはや、思考もままならない。
────私が死んだら、姉は、私を、生涯覚えていてくれるだろうか?
◾️
小さな揺れ。
コツ、コツ、と一定のリズムの靴音が段々と明確になっていく。
「……目が覚めました?」
返事をしようとして、咽せた。酷く身体が痛む。
「ああ、無理はしないでください。大丈夫です、お姉様は無事ですよ」
姉……ああ、そういえば。海に落ちたのだ。道理で身体が濡れている。
「意識ははっきりしていますか」
「……は、い」
私は男に抱えられていた。堤防から歩いてきたのだろうか。ホテルのすぐ近くまで来ていた。
ぼんやりとした思考で男を見上げる。いつもきちんとセットされた髪は濡れ、私の頬に水滴を垂らす。服もびしょ濡れで────海へ飛び込んで私を助けたことは明らかだ。
身じろぐとずる、とジャケットが肩から落ちかけた。男の物だ。
「それ、羽織っていてくださいね」
頷く。寝間着のまま飛び出したものだから、服が薄いのだ。水に濡れて、透けた訳ではないものの身体のラインがはっきりと分かってしまうほどにあられもない姿になっている自信はあった。
「その……ありがとうございます」
「勝手にやったことですから、気にしないで。それより貴女の侍女、大層焦ってましたよ」
そちらにお礼を言ってください。微笑まれて、目を逸らした。
「怒ってますか」
「いえ」
私は男の頬に張り付いた髪を指でのけた。予想外だったのか、抱えられた腕がほんの少し揺れた。
「わざわざ、すみません」
表情変わらずゆるやかな弧を描く口元に、居た堪れなくなって形だけの謝罪を口にした。
「なぜ謝るのですか」
「巻き込んでしまったので」
姉が落ちた限り私は必ず先程のように飛び込み、助けに向かった。だが、男の上等そうな服を濡らしたい訳ではなかったのだ。
男はほんの少し目を見開くと、その口元の笑みをより一層深くした。
「でも貴女、今幸せでしょう?」
問われた言葉の意味を一拍吟味してから、よくわかっているな、と思った。これで姉は海を見るたびに飛び込んで濡れ鼠のようになった妹を思い出すだろう。これ以上の幸せは、ない。
ここに姉がいなくてよかった。この顔を見られたら嫌われていただろう。
ふと、影が差した。私の顔を覗き込むように背を曲げた男の瞳孔がきゅう、と細まったように見えた。
「俺も同じですよ」
は、と間抜けな声が漏れた。ニコニコとした男の唇が耳元に寄せられる。
「貴女は、海を見るたびに罪悪感に溺れる姉を想像して」
私は大急ぎで目を閉じた。
「それから、貴女のために濡れた俺を思い出す」
間に合わなかった。気を失おうとした意識は未だはっきりしていて、呪詛のように男の言葉が耳から脳へと入り込む。幸せですね、そう溢した声まで拾ってしまってーーーー面倒だな、濡れて冷えた身体は遅れて意識を手放したのだった。
◾️
「こんにちは」
いくつか果物が入ったバスケットを侍女に渡した男がベット横の椅子に腰を下ろした。相対する私は息を荒くして絞り出すように、来たんですねと返す。
「やはり、風邪をひいてしまいましたか」
眉を下げて、ひんやりとした手が伸びてくる。抵抗する気力もない。素直に受け入れたのが面白かったのだろう、男は喉を鳴らした。
「先程、義姉さんに会いました」
「その呼び方やめてくれませんか」
侍女がバスケットを持ったまま退出する。弱った女とその婚約者を二人きりにさせるなんてーーと思ったが、それほど目の前の男が両親に、侍女に、信頼されている証拠でもあった。
「とても、悲しそうでしたよ」
「姉がですか」
「どうやら王子から貰ったネックレスを落としたそうで。探しに行った私のせいだ、と目に涙を溜めていました」
じわじわとした幸福感が襲ってきて自然と口角が上がった。あの姉が今は私のことだけを考えている! 永遠にこの風邪が治らなければいいのに。
こちらを微笑みながら見つめる男の視線に気づいて咳払いをした。
「風邪、引かなかったんですね」
「残念ながら、身体は強い方なんです。……引いていたら心配してくれましたか?」
つつ、と手が握られた。上目遣いな蒼色の瞳は期待に満ちていた。
「砂一粒程度は」
「そうですか……なら今からもう一度海へと潜って風邪を引くので心配してください」
「それはしません」
ゲンナリとため息付きで吐き捨てたのに男は嬉しそうだ。
侍女の控えめなノックの音が響く。大方、果物を切り分けて戻ってきたのだろう。
「あまり長居するのも気がひけるので戻ります」
これでも新進気鋭の大商人の嫡男。旅行先でも忙しいのだろう。眉頭の方を揉みながら立ち上がると、脱いでいた手袋を手に取った。
「まあ、ですが」
頭上から声が降ってくる。顔を上げるのも億劫でそのままぼんやりと耳を傾けた。
「弱った貴女を見れたので。頑丈に生んでくれた母には感謝しないと」
侍女が持ってきた果物をちまちまと食べながら心の底から面倒くさい男だな、とひとりごちた。
◾️
「夜会のパートナー……ですか」
「ええ、二週間後です」
頭のなかで予定を確認したが特に目ぼしいものはない。ダージリンを飲んで、これはアッサムだったかなと思い直した。紅茶の味はわからない。飲めれば同じ。姉が好きだからよく口にしているだけだった。
寒空のもと、着衣水泳をこなした日から二ヶ月。定期的に開催される自邸での何度目かのお茶会にて。
男は珍しく本当に困っているようだった。
「いいですよ。元々そちらが金銭的な余裕をプレゼントしてくださる代わりに、こちらが地位を保証する。そういう約束でしょう、この婚約は」
「それはそうですが」
ため息を吐く様まで絵になる男だった。姉は息を吸う姿すら絵になる女だが。
「少々、危険かもしれないんです」
「危険?」
「ウチを目の敵にする輩は多くて……困ってしまいますね」
全く困った様子ではない。歯向かったらきっと、最後に買収というかたちで落ち着くに違いない。
「夜会に紛れ込む可能性があると?」
「否定できません。最近、動きが活発なので」
だが、それなりに大きな夜会でパートナーが必要。婚約者がいるのに他の女を代役に立てる訳にも行かず、といった話のようだった。
「構いません」
二口目を飲んで、やっぱりダージリンかなと思い直す。どうせ三口目ではアッサムかな、と思うのだった。
「最低限、自分の身は自分で守れます」
「……頼もしいですね。わかりました、お願いします」
はい、答えて紅茶を飲み干すがついぞダージリンなのかアッサムなのか分からなかった。ウバの可能性もある。
「そういえば」
「はい」
「お姉様のご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ゆったりとした動作で、私のカップに紅茶を注いだ男はポットを置いた。
「良かったですね。大変仲睦まじいようで」
「毎日幸せそうですよ。お陰様で、この世界で二番目に王子に詳しい気分です」
第二王子の妻。その重みを未だ姉は理解していない。理解しないまま、どうか嫁へと行ってほしい。
「ああ、そうだ。夜会へ着ていくドレスを渡したいので……近々是非ウチヘ来てください」
「はあ」
「正直、弟達に会わせたくはないのですが」
これまた珍しく、不機嫌そうに眉を寄せた男がため息を吐いた。
茶会後の答え合わせでは、アッサムだったそうで、一生紅茶の味はわからないな、そう思った。
◾️
男の屋敷は壮麗だった。侍女が目をパチクリさせて、私の裾を掴む。幼少期から育てた侍女なので、昔の癖が抜けていないのだろう。
「お待ちしていました。さあ、どうぞ中へ」
恭しくお辞儀までした男に促されて、高価そうな絨毯を踏んだ。
案内された部屋には溢れそうなほどに宝石やらドレスやらアクセサリーがずらりと並んでいた。侍女がもう一度、裾を掴んでぷるぷる震えた。服が伸びる。
あとで振る舞いについて注意しなければ……。
「っと、すみません」
一言断って、バタバタと男が部屋から出て行く。
適当に椅子へと座って調度品を眺めていると少し経ってから、目の前にひょっこりと癖っ毛が現れた。
「あ、ああの」
「はい」
「に、兄さん……今、ちょっと呼ばれていて、ええと」
「はい」
「その、僕が、うう。すみません。お茶を……」
顔が似ている。癖っ毛は違うが、多分男の親族だろう。
「ありがとうございます」
「う、はい」
お茶を受け取って、机へと置いた。少年はこちらを見たり、扉を見たり、目を回す。
「貴方は……」
「あっ、ご、ごめんなさい。僕はその、弟で。アベルって言います」
「アベルさん」
「ひゃっ。は、はい」
大方、男が寄越したのだろう。可哀想なくらい肩を縮こませて俯くアベルに、正面の椅子に座るよう勧めた。
「は、はぇ、ありがとうございます……」
紅茶を口に含めば、芳醇な香りがした。品種はわからない。
「紅茶、美味しいです。ありがとう」
「いっ、いえ! 僕が淹れたので……兄さんよりお、美味しくないかも、ですけど」
「ああ、いえ。同じくらい美味しいですよ」
「う、はう」
アベルはあわあわしながらチラチラこちらを見た。
「お話してくださる?」
「は、はい!!」
男とは似ても似つかない可愛らしさだ。背丈が低いので五つ下の弟だろう。
会話はう、だかえと、だかが六割を占めたもののわりかし弾んだ。薬学に興味が高そうなのも幸いだった。私の学園での研究は主に薬学についてだったので。
二十分ほど経っただろうか。痺れ薬をいかに量産するかについて語り終えると、アベルが「えっと、あの」と物言いたげに見上げた。
「ぼ、ぼく。ほんとに背も小さいしなんなら肝も小さいし兄さんにも弟にも全然勝てるとこなんてないんですけど」
「はい」
「薬学、できるかなあ……」
アベルは言い終えるとパッと下を向いてしまった。ぎゅ、と膝の上で握られた拳が震える。
「うえっ?!」
アベルの顎を指で持ち上げる。焦茶の瞳が初めてこちらを真っ直ぐと射抜いた。
「出来ますよ」
「あ、あの」
「薬学は慎重であればあるほど良い。貴方のような性格には合っているでしょう」
ぱちり、アベルが目を瞬かせた。指を戻し、懐から一本の試料管を取り出す。侍女のあっ、また持ってきてる! という声は無視した。
「これ、何かわかりますか」
「ええと……」
「学園で習いますが、一種の苔です」
「苔? 青色……なのに」
「ええ、入手が非常に困難なので市場には滅多に出回りません」
ゆらゆらと試料菅を揺らすと、見惚れるようにアベルも目で追った。
「じゃ、あなんで」
「取りに行ったんですよ。自分で」
「なるほど……」
話がどう繋がるのか、分からないのだろう。アベルの頭の上には、クエスチョンマークが浮かび上がっていた。
「小さな身体は便利です」
「え」
「この苔は非常に狭い洞窟のなかで群生します。その癖、蔦を持つ植物と共生しているのでどうしても人の手で丁寧に取らざるを得ません」
「は、はい」
「小さい者だけがこの苔を手に出来るのです」
それに、と付け足す。
「しばしば危険な場所へと向かう薬学師にとって小回りの効く身体は、喉から手が出るほど欲しいものなのですよ」
「そう、なんですか……?」
「ええ、何度先輩から身体を貸せと要求されたものか。ですから、小さいことを卑下しないで。どうか誇ってください」
アベルは唖然とした表情をした。
失敗した。つい、薬学の話になると饒舌すぎるきらいが私にはある。
おまけに侍女の突き刺すような視線が痛かった。試料管を持って出掛ける令嬢が何処にいるのか、それが侍女の口癖だった。
「か」
「か?」
虫が鳴くような声がアベルから漏れ出る。
「か、かっこいい……!」
アベルの頬が紅潮して、こちらをじっと見つめる。その瞳はきらきらと輝いていて、在りし日の姉を想起させた。
「あ、あのぼく、絶対薬学やります! そ、それでお姉さんに見せる、ので、また、その、お話してくれますか」
よくわからないが、アベルは深く感銘を受けたらしい。薬学についての話ならば幾らでも構わない。頷くと「や、やったぁ」と小さくアベルが笑った。
「お待たせしました……アベル?」
用事を済ませた男が部屋へと戻る。
にこにこ、にこにこ。最初に話しかけた時とは比べ物にならないほど表情を緩ませるアベル。どうやら懐かれたようだった。
男はその様子を見て、よろりと扉へ頭を打ち付ける。ゴン、と鈍い音がした。何をやっているのだ、この男は。自然と視線が冷ややかになってしまう。
「だから嫌だったんです」
「は?」
「貴女って人はほんとに」
「何ですか」
「弟たちの好みは俺に似ているんですよ……」
意味がわからない。
アベルはそんな兄を気にする様子もなく、私へと熱い眼差しを投げかけていた。
◾️
夜会、当日。
貰ったイブニングドレスを着て、馬車へと乗り込む。既に男が乗っていて「こんばんは」手袋を嵌めながら、にこりと口角をあげた。
「似合ってますね」
「ありがとうございます」
「ウチの弟二人、誑かしたことは忘れません」
「語弊がありますね」
じとっ、とした視線を向けられた。
試着は大変だった。男とアベルはそれはもう張り切って、あれじゃないこれじゃない、と。商人の血が騒いだのだろうか。それから六つ下の弟まで参戦してきて……思い出したらまたあの疲労が襲ってきそうだ。
「あの後、大変だったんです」
くすん、そう言いたげに男が首を傾けた。
「弟達が俺を襲ってきました」
「は?」
「俺が怪我をしたら貴女のパートナーになれると思っていたようで」
冗談だろう。まあ、でも気に入られているならそれはそれで有難い。
「それは災難でしたね」
「信じてないですよね?」
「ええ」
「とんだ悪女ですね……アベルはもうふにゃふにゃのとろとろで、使い物にならないというのに」
恐ろしや、男が口元に手を当てて責めるような目をした。何だか遊び人の気分がしてきて、目を逸らす。
「エルートだって、この前から貴女の話ばかりです」
「懐いてくださるのは嬉しいですが」
「懐くなんて可愛いものじゃありません。いいですか、絶対に弟達と二人きりにならないでください」
「はあ」
適当に頷くものの、ちらりと横目で見た男の顔色は思った以上に悪かった。
小窓から見える景色が変わる。
「そろそろですか」
「ええ」
馬車が止まった。男の手を借りて降りると、夜会に向かう人々の姿がちらほら見受けられる。
「大きいですね」
「ええ。今、一番力を持った商家ですから」
「今」
今、に力が入った言葉に問い返す。
しー、と男が人差し指を口元に当てた。後々は自分たちがのし上がる気なのだろう。
それにしても、貴族もかなりいるようだ。見かけたことのある人間が多い。商家が開催する夜会といえど、ここまで巨大な力を持つと貴族と庶民の身分差も意味をなさない。
「……王家の開催する夜会に匹敵しますね」
天井に飾られた意匠の凝ったシャンデリア。並ぶ料理はこの国では見かけないものまである。ボーイはきちんと教育され、床には埃一つなかった。
「おや、嬉しいことを言ってくださる!」
ぱっ、と振り向くと立っていたのは初老の男性。シルクハットと杖を持ち、いかにもな格好だ。
カーテシーをしている間に男が口を開く。
「お久しぶりです。本日はご招待頂きありがとうござ」
「おやおやおやおや! 綺麗な方だと思ったら、ウッドさんのところの……」
観察される目。この目には慣れている。そうか、この男が夜会の主催者。ウォーカー家の当主。初めて会ったが、噂は社交界まで届いている。
言葉を遮られた男がため息を吐いた。見えない稲妻が両者の間で迸っているようだ。
「はじめまして、ラミレス家のリーシェと申します」
「はじめまして、お嬢さん。ラミレス……もしや女神がいると噂の?」
「きっと、姉のことですね」
「なんと! 王子との婚約、おめでとうございます。是非ご入用の際は私どもの所へ」
「あら、嬉しい。姉に伝えておきます」
男性がにっこり笑った。毒気の抜けるような笑顔だ。
「今日はどうか楽しんでくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
去っていく背中を眺めていると、男が「いつか寝首を……」と呟いた。物騒だった。
「独特な方ですね」
「面倒な人です」
「……なるほど」
それからは挨拶祭りだった。何度自己紹介しただろう。波に乗っているウッド家の婚約者。それに興味津々なのがよくわかる。
一通り挨拶を終えると、男が眉を下げた。
「すみません、一度離れます」
「はい」
「どうか、気をつけて」
壁に背をつける。赤ワインを口に含んだ。夜会は盛況を博し、談笑する人々が見受けられた。
数少ない私の友人はここには来ていないようだ。残念。代わりに害虫が何匹か紛れ込んでいる。
ちらちらと視線を感じた。多くは姉に無様に負けた女どものひりついた類だ。それから、品定め。
コツコツ、と革靴の音が近付いてくる。
顔を上げれば人の良さそうな笑顔を貼り付けた人間が此方を見下ろしていた。見ない顔だ。少なくとも、姉関連ではない。
「レディ、良ければ話し相手になって頂いても?」
「……ごめんなさい。待ち人がいるの」
「おや、貴女のように綺麗な方を壁の花にするなんて。少々無粋な方のようだ」
にこり、と微笑んで目線を外す。これ以上、話す気はないという意思表示だ。姉に関わらないのならどうでもいい。
だが、この男はしつこい性分のようだった。
「どうかこの哀れな男に貴女との時間を頂けませんか?」
ぐ、と手首を掴まれた。振り払うのは簡単だがーー好奇心がむくりと湧き出てきた。ああ、悪い癖だ。
「では、ほんの少しだけ」
目を伏せて、躊躇うように唇を震わせれば面白いほどに喜色がかった声をあげた。
掴まれた手首そのまま会場から連れ出されそうになる。
「ここのテラスはとても綺麗なんです」
「へえ」
抵抗せずに足を進めれば、男は下卑た歪みを口元に見せた。隠しきれていない。何とも滑稽だ。何が目的だろうか。やはり、姉? それともラミレス家、いやあの男に何か恨みでも。
ライトが当たった色とりどりの花々は咲きほこり、ひらひらと蝶が舞っている。幻想的な光景だ。確かに庭は手入れが行き届いていて美しい。しかし、共に見る男がこれでは……。
「あちらの方も見に行きませんか」
腰を抱かれ、人気のない方を指差される。
そこで初めて私はこの男の目的を理解して、それから声を上げて笑い出したくなってしまった。
なるほど! 私を襲おうとしているのか!
美しい姉はもう既に人のモノになってしまった。しかも、その手を握るのは王子。手を出したのならば不敬間違いない。だから代用しようとしている。面影が少し残った私で欲を満たそうとしているのだ。姉への汚らしい欲を。
固まって、笑いを我慢する私に焦れたのだろう。男が無理に手首を引っ張り奥へと連れていこうとする。あんまり強く掴むものだから鬱血してしまった。あとで冷やさねばなるまい。
そろそろ潮時か。そう思って手を振り払おうとした瞬間。ぐいぐいと引っ張ってこようとする力がパタリと止んだ。
「────何を、しているのですか?」
冷たい声だ。器用にも、手首を掴む男にだけ向けられている。暗がりの下で、蒼色の瞳は笑っているのに、笑っていない。こんな表情も出来るのだな、と感心した。
「い、いや」
「その女性の手を離してもらっても?」
有無を言わせない圧がある。緩んだ拘束から腕を抜けば、男が私の腰を抱き寄せた。
「私の大切な婚約者です。そのように雑な扱われ方をされるのは我慢ならない」
ふるふると青褪めた唇から「う、ウッド家の」と蚊の鳴くような声が漏れる。
「ええ、そうです。ハリスさん。お久しぶりですね。ご実家の商売の方はいかがです? 面白そうな話があれば教えて頂けると有り難いのですが」
「っ、白々しい!」
青から一転、顔を真っ赤にして吠える。見上げた男は愉しげに獲物を追い詰める蛇のような顔をしていた。
このまま眺めているのもなかなか楽しそうだが、身体を震わせて怯えながらキャンキャン吠える様子が哀れに思えて、助け舟を出してやることにした。元はと言えば、私の好奇心のせいだ。なけなしの良心が痛む。
「ねえ」
男の腕に2本の腕を絡ませる。獲物を呑みこまんとしていた意識が此方へと向いた。
「一緒に庭を見ませんか。貴方となら楽しめそうですから」
男がほんの少し固まって、それから肩を落とした。
「……貴女の誘いを断るはずがありません」
「じゃあ、行きましょう」
ちらり、と横目でみた名前も知らぬ哀れな男は顔を真っ赤にしたままこちらを睨んでいた。コケにされたと思ったのだろう。折角、助けてあげたのに。
「心臓が止まるかと思いました」
「すみません。何が目的か、気になってしまって」
しょぼくれた声を聞きながら、アネモネを眺める。
「それで、結局わかったのですか。その目的とやらは」
「怒ってます?」
「少し」
顔を覗けば、怒っているというよりは辛そうな表情だった。珍しい。多分、私が原因なのだろう。
ご機嫌取りにと絡めた腕の力を強めればますます眉が下がってしまった。
「痛かったですか」
「はあ……。もういいです。怒ってません。貴女のその性格はよく知っていますから」
「そうですか、なら良かった」
それならば必要ないだろうと腕を離そうとするとガッチリと掴まれてしまった。諦めてそのままにしておく。
「目的ですが」
「はい」
「どうやら私のことを手籠めに」
「は? どこを触られましたか。今すぐ消毒しましょう」
「落ち着いてください。未遂です」
「落ち着けません」
今すぐ走り出そうとする男を何とか止めた。蝶は私たちにお構いなくゆらゆら優雅に舞っていて、少し憎たらしかった。
「姉の代わりでしょうか。私、面白くってつい笑いを堪えるのに必死になってしまったんです」
「……貴女らしいですけれど」
「殿方って本当に哀れ。姉のお陰で退屈しません」
男は胡乱げな表情を浮かべた。ふふ、と微笑めばやれやれ、とでも言いたげに小さく首を振る。
「心配しました」
「それは大変申し訳ありません」
「目を離した俺の責任なので」
先程はじっくり見れなかったが、やはりこの庭は素晴らしい。貴重な素材がわんさか咲いている。
「あの花、黒色になるんですね」
幾度となく扱ってきた品種ではあるがここまで真っ黒なのは初めてお目にかかった。夜の闇に溶けてゆきそうな。ただし籠のようなものに入って少々窮屈そうな姿だが。
「花? ああ、アレですか。ごく限られた条件でしか黒にはならないそうで。保護するための容れ物の籠すら相当な価値だそうです」
「では、流通はしていないのですね」
「そうですね。この国だとなかなか出回らないかもしれません」
基本の白なら回復薬の材料になる。黒ならどうなるのか気になったものの入手困難なら仕方あるまい。今度、書籍を漁ってみることにしよう。
「身体が冷えてしまいますから中へ戻りましょう」
腕が解かれ、代わりに手のひらが差し出された。この手を取るのにも慣れたものだ。そう思った。
夜会はその後、淡々と進んだ。流石大商家。飽きがこない構成に余念がない。
「さて、帰りましょうか」
「はい」
馬車の前まで来て、乗り込むと男が「あ」と声を上げた。
「すみません。一つ、用事を忘れていました。すぐに戻りますので少々待って頂いても?」
「構いませんよ」
会場に戻る男の姿を眺めていると御者によって扉が閉められる。ウォーカー氏と何かあるのだろうか。因縁の仲に見えたから色々あるのかもしれない。
二十分ほどで馬車の扉が再び開かれ、男が乗り込んできた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、そこまで待っては────、え?」
目の前に黒い花が現れた。庭で話していた花だ。それが、何故ここに。
「これは……」
「ウォーカー氏に、一本譲って頂きました。庭に飾ってあるものの他に、小ぶりなのを保有しているそうで」
「私が貰ってもいいのですか」
「ええ。俺が持っていても仕方がないので」
受け取って、まじまじと花を見る。確かに庭に咲いていたものよりは小さいが、花弁は艶々としていて美しい。
「ありがとうございます。大切に使います」
「飾るのではなくて?」
「飾った先は枯れるのみだけですから。お嫌ですか?」
「いいえ。差し上げたモノの使い道にケチをつけるほど、狭量な男ではないつもりです。ただ面白いな、と」
「出来上がった薬はお見せしますね」
「楽しみにしています」
にこり、と男が微笑んだ。それと同時にゆっくりと馬車が揺れ始める。
「ん、手袋の先が汚れていますよ」
気がついてとんとん、と自分の指を叩けば男が「お恥ずかしい」と目を伏せてから、指先が赤く染まった手袋を脱いで畳んだ。
「何処かで赤ワインを溢したのかもしれません」
「赤ワイン?」
それにしてはやや鮮やかな赤だったが。考えて、得心がいった。どうやら、私とあの不埒な男が会うことは二度とないようだ。
「……貴方は本当に私のことを好いているのですね」
「ええ、勿論。言ったでしょう? 貴女が姉に向ける同じ気持ちをこの胸に抱いていると」
同じ、同じね。そこは些か同意しかねた。
「同じではありませんよ」
「手厳しい。何故です?」
「私は姉の前で物欲しそうな顔はしません」
整った顔が固まって、それから馬車のなかに笑い声が響いた。目尻を拭って男がこちらに向き直った。
「それは失礼しました。バレていたのですね」
「そもそも隠す気もなかったでしょう」
「良くお分かりで」
ふふ、と嬉しそうに口角をあげたその顔は恍惚と言って間違いない。しまった。面倒くさいスイッチを押したようだ。
「似合わない騎士気取りまでしたもので。期待してしまったのです」
「ご謙遜を。良くお似合いでしたよ」
「惚れました?」
「世のお嬢様は放っておかないでしょうね」
「貴女以外に惚れられても……金ヅルにしかなりません」綺麗な顔して言われてもときめかない。金ヅルにはするんだな、と感心したくらいだ。
「ねえ、いつになったら"ご褒美"頂けるのでしょうか」
熱を帯びた瞳が細まった。温度は違うもののこれではあの男と置かれた状況が同じだ。ただし、救いの手を差し出してくれる女神はいないが。
「さあ。先の話です」
「先の話、ですか。ふふ」
──楽しみにしていますね。薬の時とは一変。一段力を込めて、囁かれた。私は小さく溜息を吐いて、いつか来るであろう"ご褒美"の要求を次はどう躱そうか頭を捻ったのだった。
◾️
カーン、と軽やかな鐘の音が響いた。雲ひとつないターコイズブルー。舞った花びらが、姉と王子を包み込んで祝福した。姉を大勢の友人が囲んで、幸せそうに頬を染めてはにかむ。
「〜〜〜っ」
「ああ、もう。また泣いて……ハンカチ使います?」
渡されたハンカチを受け取って、目に当てる。滝のような涙が止まらないのだ。すぐにハンカチはよれた。
今、私と男は王宮の小部屋のような場所にいた。結婚式が終わって、パーティーが始まるまでの少しの時間。ぐちゃぐちゃになった顔を治そうとする目的だった。
だというのに、 幸せそうに笑う姉を思い出すだけでダバダバと溢れ出るのだ。
「パーティー、出席できそうですか?」
「じ、まず」
「声ガラガラですよ」
そういえば、ハタと思う。物心ついた頃から泣いた記憶がない。
涙の止め方がわからない。重大な問題だった。
「そんなに擦ったら化粧が取れます」
やんわりとハンカチを持つ手を抑えられ、男の指が私の眦を拭う。
──よかった。本当によかった。何度、姉の友人を亡き者にしてやろうかと思ったか。何度、テオ王子を暗殺しようと思ったか。……何度、姉の足を折って私の手元に置いておこうとしたものか。
私だけを見ていてほしかった瞳はこの国を見渡し。
私だけが触れた髪はテオ王子の癒しとなり。
私だけの心は最早どこにもない。
それでも、よかった。我慢して、我慢して、どうしようもない激情に身を任せなくてよかった。
姉はあんなにも幸せになった。愛しい男の腕に抱かれ、友人たちに囲まれ、国民から祝福された。
それだけで何もかもが報われた気がした。
すん、と鼻を啜る。
「大分、落ち着きましたね。ほら、化粧を直しますよ」
男が化粧品を取り出して、私に施し始めた。商人はメイクも上手いようだ。
「義姉さんはこの後、王宮へ?」
「はい」
「やはり近くで守れないとなると不安ですか」
「いえ、王宮にも姉の味方はいるので」
孤児院から子供を引き取って、姉のそばに置いておく。2ステップで姉用の騎士が作れるのは楽だった。
「それはそれは……」
苦笑を返す男は、最後にグロスを手に取って唇へとのせた。あっという間に元通りの顔だ。
「ありがとうございます」
「晴れ舞台ですから。綺麗な顔で見送ってあげてください」
「…………」
「……小突くだけで泣きそうですね、いまの貴女は」
なんとか目に張った膜を戻して、髪を整える。
──もうそろそろ、開演の時間だった。
「行きましょうか」
男が立ち上がり、私に手を差し伸べる。その手をとって両の足で絨毯を踏む。
「……屈んでくれますか」
「? はい」
立ち上がった勢いのまま、男の首に腕を回した。見開かれた蒼色が近づく。左手で頬を包んで、それから、重なった熱がじわ、と男の顔を紅く染めた。
「────は?」
生娘のように唇を押さえながら、男がこちらを見る。その動きは油が切れたブリキ人形のようだ。
「"ご褒美"です。ずっと欲しがっていたでしょう?……ところで、泣いてはくださらないのですね」
昔、言っていたのに。貴女がキスをすれば歓喜の涙を流す、と。
ギギ、と使い物にならなくなった男の手を引いて部屋を出る。姉に花束を贈らなければ。
ふと後ろを振り向けば、不服そうに赤らめた顔を手のひらで覆う男がいた。喉奥から笑いが漏れる。
かわいい男。それが今の印象だった。
◇◇◇
女は、すっかり片付けられた部屋をぐるりと見回した。里帰り用にと簡素なベッドといくつかの家具が置いてあるだけの部屋はひどく寂しい。
ため息を吐きながら部屋を出て、そのまま隣の自室へとぬるりと入り込んだ。微かな薬品の匂いが女の心を慰めて、吸い込まれるように隅の棚へと手を伸ばす。
「ーーーーーー」
解除の呪文を呟いて扉を開ける。
陳列された色とりどりの可愛らしい小瓶たち。その一つを手に取って、つるりとした表面を撫でた。
恋心を殺す薬。特定の記憶を消す薬。特定の人物を見えなくする薬。一人を除いて悍ましい異形に見える薬。足が木のように動かなくなる薬。安らかな表情のまま永久に眠らせる薬。
そのどれもが法で禁止された薬だった。
いつも女はこれを紅茶に混ぜようとしてーー「美味しい紅茶が手に入ったの! リーシェに飲んでもらいたくて」そう呑気にほけほけと笑う姉に手を止めていた。
毎回毎回、混ぜようか直前まで迷うものだから紅茶の種類など頭に残るはずもない。
だが、使うか悩む相手すらいない薬など残しておいても仕方あるまい。姉はもう既に手の入らない場所まで走り去ったのだから。
燃やしてしまおう。そう思って、小瓶をいくつか棚から取り出した。女が精製したモノだ。子どものように愛おしい。手に持っているとその時の激情がひしひしと伝わってくる気がした。
私だけを見ていて。
私だけを考えていて。
私だけを…………。
気色の悪い女。客観的な自己評価が出来る女は自分自身を嘲笑う。
この執着は、あの日、真っ白なウエディングドレス姿に流した涙ごと捨て去ってしまったはずなのに。
炎魔法の呪文を詠唱しようとしたその時────安易な考えが頭をもたげた。
もし、もしも。王子が姉を捨てたなら。裏切ったなら。そして、それから、姉が自分の元へ助けを請いに縋ってきたら?
腹から脳髄へと甘い痺れが広がるようだった。心地いい痺れを堪能して、うっとりと目を細める。しかし、濃密なとろけるような時間は長くは続かない。
はた、と首元のネックレスが目に入った。
折角、いい気分だったのにと女は思った。男が女へと贈ったもので、男の瞳の色をしていた。十中八九、首輪だろう。女も何度か姉にこういったことをしたことがあるので、察するものがあった。
はあ、と部屋にため息を響き渡らせて小瓶を棚へと仕舞う。
先程まで燃やそうと考えていた小瓶たちを元通りに並べ直して、もう一度目眩しの魔法をかけた。
────二度と手に取らないことを願いながら。
────いつか使う機会を窺いながら。
男が惚れ薬をパッと取り出せた理由を何となく察している女。