episode.93 実感が湧かない
「明日、キャロレシア都への侵攻を開始する」
ロクマティス王の執務室に急に呼び出されたプレシラは、父親であり王でもあるオーディアスに告げられた。
「お父様……それは一体……?」
背筋を伸ばし、地面に対して垂直な一本の線のような立ち方をしながらも、プレシラは驚きを隠せていない。オーディアスの唐突過ぎる発言に脳が追いつかなかったのだ。
「先日、前キャロレシア王の妻を捕らえた」
オーディアスは赤い液体が注がれたグラスを持ちながら述べる。
「噂では……耳にしました」
プレシラの表情が明るくなることはない。
「厳密には既に王妃でなくなっているとはいえ、彼女が貴人であることに変わりはない。上手く使えば、やつらは何もできまい」
オーディアスはいつものことながらガウンを羽織っている。
今日のガウンは全体が金色のものであり、彼が三番目くらいに気に入っているものである。ちなみに、一番気に入っているのは紺色のもので、二番目に気に入っているのは紅白のもの。それ以外にも、オーディアスは様々なガウンを所持している。
「人質のようなものとして利用するというのですか?」
プレシラは、下腹部の前辺りに置いていた右手に左手をそっと重ねた。
オーディアスの顔を直視することはできず、視線は斜め下に向いている。視線をオーディアスから逸らしているのは意図してのことだ。
「そうとも言えるだろうな」
「……しかし、唐突過ぎるのではないでしょうか」
「何がだ」
「侵攻のことです。もう少し計画を立てるべきではないでしょうか……」
刹那、ガラス片がプレシラの頬を掠めた。
飛んできたのは、オーディアスが手にしていたグラスのひと欠片。オーディアスは一瞬にしてグラスを割り、その一部分をプレシラに投げつけたのであった。
「口ごたえをするな」
オーディアスはプレシラが意見を述べることを認めない。
勝手なことを言う者には死を、とでも言いたげだ。
「……はい。申し訳ありませんでした」
プレシラはそれ以上意見を述べることはしなかった。このまま口を開き続ければ次は何をされるか分からない、と考え、何も言わないことにしたのだろう。
「ちまちま進めるのは性に合わん。最強の盾が手に入ったのだ、一気に突き進む。それは決定事項だ」
「はい」
「プレシラ、同行しろ。共に来い」
その言葉に、プレシラは表情を固くする。
「エフェクトは……?」
「別行動だ。やつには敵戦力分散のための任務を与える」
「……分かりました」
プレシラは頷くしかなかった。そうしなければ王女であっても容赦なく痛い目に遭わされると知っているから。たとえ頷きたくなくとも、この場では頷いておくしかないのだ。心にどんな思いを秘めていたとしても、そこは変わらない。
数秒後、オーディアスはプレシラを闇の塊のような目で睨む。
「何だ、不満げだな」
「……弱々しい声になってしまったのは、少しばかり不安があったから……それだけです」
プレシラは動揺することなく落ち着いて言葉を返した。
胸の内に秘めている思いは揺らぐことのない確かなもの。だが、だからこそ、オーディアスの前でそれを露わにしてはならない。彼女の考えとオーディアスの考えは決して相容れることのないもの。だから、決して悟られてはならないのである。
◆
発熱は落ち着いた。額の熱さはもうない。若干あった倦怠感もすっかりなくなり、おおよそ通常の状態にまで回復した。ここに至るまでに数日を要してしまったが、じっくり治したからこそ、今からは今まで以上に活動できるはず。
髪をきちんと結ったのは久しぶり。また、王の座に就いてから着用していたワンピースを軸とした衣装も、いざ着用してみると、とても懐かしい気分になった。
よくよく考えてみれば数日しか経っていないはずなのにこれほど強い懐かしさを感じるのだから、人とは不思議なものだ。
「すっかり元通りですわね!」
「えぇ。もう元気よ」
「髪型もお召し物もとても素敵ですわ! 相変わらず完璧ですわね」
「いやいや、完璧はさすがに言い過ぎよ」
完璧というのは私には似合わない言葉だ。そもそも、私には完璧などという要素が少しもない。欠片ほどすらない。ただ、リーツェルが喜んでくれると私も嬉しいというのは、僅かにさえ嘘のない事実だ。
「取り敢えず、遅れを取り戻さなくっちゃ……!」
「無理は禁物ですわよ」
「そうね。ありがとう、分かってるわ。でも、モタモタしているわけにはいかないから、頑張るわ」
そういえば、先日ファンデンベルクの頬を叩いた男性たちは、悪事がばれて辞職させられたらしい。その話はリーツェルが教えてくれた。ファンデンベルクや私とは関係のない案件で首が飛んだそうだ。
いよいよ自室を出て王の間へと進む。
ここから先は甘えていてはならない場所。今一度気合いを入れ直し、覚悟を持って行かねばならない。
……もっとも、これはさすがに言い過ぎかもしれないけれど。
その日の昼過ぎ頃、私はロクマティスが凄まじい勢いで侵攻してきているという情報を得た。
連絡の役割を与えられている者が王の間へ伝えに来てくれて、おかげで知ることができたのだ。伏せられることなく、早めに情報を得ることができたのは、非常にありがたかった。
「これから一体どうなるんですの……?」
情報を得てからというもの、リーツェルはすっかり小さくなってしまっている。
経験したことのない未来へ突き進んでゆくかもしれない恐怖——それは、私にも想像できないものではない。
「大丈夫よ。きっとどうにかなるわ」
「で、でもっ……! もしものことを考えたら不安で……!」
「そうよね、不安よね」
こんな日でも、私には終わらせなくてはならない用事が与えられる。大量の紙と向き合うことを止めることはできない。そんな選択肢は私にはないのだ。何だか落ち着かなくても、指示されたなら作業を進めるしかない。
「セルヴィア様は平気なんですの!?」
「それどころじゃないわ、書類が多すぎるの」
「それは……まぁ、そうですけれど……。でも! でもっ! 戦いになるかもしれないんですわよ!?」
正直、まだ実感が湧かない。
戦場を目にしたことがあるわけではないから。




