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episode.90 沁みる

 もう少しすれば、今日中にこなさなくてはならない仕事が終わる。中途半端なところで一旦休息するくらいなら、あと少し頑張ればいい。そうすれば思う存分休めるのだから。


 私はそんな風に考え、半ば無理矢理作業を継続した。


 作業を続けることに迷いはなかったのだ。なんせ、私は、このまま全部片付けてしまう方が良いと思い込んでいたから。


 けれどそれは正しくなかったようで——結果、発熱した。


 私は今、王の間と繋がっている自室のベッドで横になっている。


 意識を取り戻してまもないタイミングでファンデンベルクから聞いた話によれば、私は突然倒れたらしい。異変を感じた彼が額を触って確認すると発熱しているようだったので、ベッドまで運んでくれたそうだ。


 私が馬鹿だった。

 あの時、ファンデンベルクの意見に頷いて休憩していたなら、こんなことにはならなかったかもしれなかったのに。


 こんな重要な時に熱を出すなんて、最低……。


「セルヴィア様、調子はどうですの? お水をお持ちしましたわ」


 横たわっていた私の視界に入ったのは、心配そうな表情のリーツェル。彼女は右手に透明なグラスを持っている。


「ありがとうリーツェル。調子はまぁ……横ばいという感じかしら」

「悪化していないなら良かったですわ。焦る必要はありませんわ、熱なんてそうすぐに下がるものではないですもの」


 母親のこともあって、今、キャロレシアは落ち着いていられない状況だ。そんな時に私が倒れていては話にならない。役立たずでも、お飾りでも、私はこの国の王なのだ——本当は、常に健康でなくてはならない。


「少しだけ冷えた水ですわ。もしよければどうぞ」

「ありがとう……」


 まずは上半身だけを起こす。それから、リーツェルの手から透き通ったグラスを受け取る。グラスに入っているのは透明な液体と小さな氷一つだけ。触れた感じだと、常温ではないが非常に冷えているというわけでもなさそうだ。


「飲めそうですの?」

「えぇ、いただくわ」


 グラスの端を唇へ接近させる。そして、中身がこぼれそうでないことを一瞬確認してから、ゆっくりとグラスを傾けた。液体は滑り落ちるようにして口腔内へと向かってくる。水が唇に触れると少し冷たくて、何となく心地よい気がした。


「普通の飲み水よね? 何だか美味しいわ」

「それは、熱があるからですわよ」

「そういうものかしら……」

「えぇ。きっと。ゆっくりお飲みになって」


 私が水を飲んでいる間、リーツェルはずっとベッドの近くにいてくれた。


 きっと世の中には、病気になっても寄り添ってくれる人などいない、という人も存在するのだろう。それを思えば、リーツェルがこうして共に過ごしてくれるだけでも、とてつもなく幸運なことなのかもしれない。家族を失っても、それでも、私には共に在ってくれる人がいる。それは私が想像する以上に幸運なことなのだろう。


「ねぇリーツェル、ファンデンベルクは?」

「暫し面会中止ということを伝えるため、出ていっていますわ」

「そうだったの」

「そのうち戻ると思いますわよ」


 グラスの中の液体が尽きる。


 あっという間に飲み終えてしまって、自分でも驚いた。


 飲み終わった空のグラスをいつまでも持っていても意味はない。私はリーツェルにグラスを返すことにした。飲み終わったからといってすぐに返すのも変かもしれない、と思いつつ、グラスをリーツェルへ差し出す。彼女はそれを、快く受け取ってくれた。



 水を飲んでから数分が経過しただろうか、ファンデンベルクが部屋に戻ってきた。


「ただいま戻りました」


 ファンデンベルクは一礼して、王の間へと続く扉を閉めた。


「遅かったですわね。何をもたもたしていましたの」


 リーツェルはいきなり不機嫌そうな態度をとり、ファンデンベルクに接する。直前までとは振る舞い方がまったくもって異なっている。だが、その程度のことに動じるファンデンベルクではない。


「当初の予定より色々長引いてしまいました」

「言い訳は必要ありませんわ。セルヴィア様を心配させるなんて、アンタ、最低ですわよ」

「心配させていましたか」

「そうですわ! 早く行けばどうですの!」

「分かりました」


 ファンデンベルクは落ち着いた表情のまま、淡々とこちらに向かって歩いてくる。そして、ベッドのすぐ傍まで来ると、流れるような動作で片膝を床につけた。


「お待たせしてしまい申し訳ありません。何かご用でしたでしょうか」


 私はベッドで横になっているのだが、すぐ傍に座られると、顔の距離が妙に近くなったように感じる。もっとも、だからどうということはないのだが。


「いえ……べつに。待っていたわけではないの」

「そうなのですか」

「えぇ。どこに行ったかをリーツェルに尋ねただけよ」

「では彼女の誤解ですね」

「そんな感じね。でも、帰ってきてくれて嬉しいわ」


 ファンデンベルクのことをどうでもいいと捉えているわけではない——それだけは伝えたかった。


「数名にのみ現状を伝えてきました。広く皆に知らせてきたわけではありませんので、どうか心配なさらないで下さい」

「ごめんなさい。よりによってこんな時に……」

「構いません。誰しも体調不良の時はあるものですから」


 ファンデンベルクの声にはそれほど感情がこもっていない。けれども、その表情を目にしたら、彼の言葉が心からのものであると察することはできる。目つきや眉の微かな角度から感情を少しは読み取ることができるから、だ。


「無理をなさる必要はありません。今はお休み下さい」

「ありがとう……」

「何かあれば仰って下さい」

「本当に……色々ありがとう、ファンデンベルク……」


 今は何より優しさが心に沁みる。リーツェルの優しさも、ファンデンベルクの優しさも、どちらもそうだ。二人がいてくれれば何も怖くはない、とさえ思えてくるから、人の心というのは奇妙だ。

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