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episode.85 憂鬱?

「ねぇねぇ聞いてくださいよー。さっき扉のところで例の人に会っちゃってー」


 耳に飛び込んできた声に嫌な予感がして、私は布で顔を隠しつつ振り返る。私の予想は当たっていた。先ほどすれ違った女性が、知り合いの女性たちと喋っていたのだ。


「え! うそ!」

「例の人!? うそ、ホントに言ってる?」


 格好から察するに、侍女だろう。

 ちなみに、三人ともまだ若い女性だ。


「やっぱり怖くってー。しかも、ちょっとだけ声かけられて、最悪でしたよー」

「えぇー。声かけられるとかこっわーい」

「不運が来そうですよー。もうーっ。アンラッキー」

「まぁまぁ何とかなるって! 大丈夫大丈夫。元気出していこ? そんなことは忘れちゃってさ!」


 年頃の娘がつい余計なことを話題にしてしまうというのは分からないではない。自分たちと異なる要素を持つ人間のことを話したくなる、というのも、人間の心理としてはどうしても捨てきれないところなのだろう。


 だが、本人に聞こえる距離で言うというのは、まったくもって理解できない。


 その言葉が他人を傷つけるとは思わないのか?

 なぜその程度のことすら想像できないのか?


 ふつふつと怒りが湧いてきて、こらえることすら簡単ではない。少しでも気を緩めたら、爆発してしまいそう。


 今にも出ていきそうになっていた私の手首を、ファンデンベルクが掴む。


「行きましょう」


 ファンデンベルクはほんの少しだけ笑みを浮かべて言った。


 その時ですら、女性たちは「でもでも、やっぱり怖いよー。ついてなーい」とか「声かけられるのはさすがにね……」とか言っている。彼女たちは多分、本人に聞かれている、とは考えないのだろう。相手の気持ちを少しでも考えていたなら、そんな会話を続けられるはずがない。


「でも、あんな言い方……!」

「ああいうものです。放置しましょう」

「……それでいいの?」

「分からない人は説明しても分からないものです」


 それはそうかもしれないけれど。

 でも、罪もないのにそうやって諦めなくてはならないのは、何だか悲しい。


「……そう」


 他人がとやかく言うべきことではないのかもしれないけれど、でも、どうしても納得できない。


「そんな暗い顔をなさらないで下さい。気にすることはありません」

「でも、でもよ? 貴方は何も悪くないじゃない?」

「構いませんから。進みましょう」

「……そうね。でも、私はあんなことを認めるつもりはないわ。きっといつか、貴方があんな風に見られない世界を……作ってみせる」


 とはいえ、今は先にすべきことがある。ファンデンベルクが差別されない世も大切だが、母親の行方もまたこの国にとって重要なことだ。だから、何とかして、手掛かりを入手しなくてはならない。


「歩きましょう」

「はい」


 気を取り直して、私はまた歩き出す。


 誰かとすれ違う時、毎回、少しばかり胸の鼓動が速くなる。それは多分、私が私であるとばれない方が良い、ということがあるからなのだろう。これまではあまりこんな経験をしたことはなかった。だからこそ、新鮮さもあり、より一層緊張してしまう。


 その中で目にしたのは、働く人々の姿。


 侍女らしい服を着て歩いている女性。樽や大きめの箱を持ち荷物を運ぶ、質素な服装の男性。防具を軽く身につけた警備員と思われる人物。

 予想以上に色々な人が行き交っている。


「ねぇねぇ聞いた? 王妃様いなくなったらしいよ」

「えー。何それ、どういう話ー」

「なんかね、急に行方不明になったんだって」

「あー、そりゃもう、男だね!」


 母親の件に興味を持ってくれている人も一応いるようだ。だが、根拠のない噂を平気で口にしているところを見ると、実はそれほど興味はないのかもしれない。いや、単に、そこまで真剣に捉えていないだけかもしれないけれど。


「男って? 何の話? ぶっ飛びすぎー」

「だ、か、ら、恋! きっと王妃様は恋しちゃったのよ!」

「あー。結ばれようのない相手との、ってやつー」


 何を言っているんだか。母親に限って、そんなこと、あるわけがない。彼女は夫のことを大切にしていた。夫が亡くなったからといってすぐに他の男に乗り換えるなんて、あり得ないことだ。

 でも、軽い気持ちで噂話をする彼女たちには、説明しても無駄なのだろう。

 彼女は深く考えて話しているわけではない。だからこそ、私が母親の一途さを訴えても、何とも思わないだろう。面倒臭いと避けられるか、ふんわり流しつつ去られるか、いずれかだろう。


「言ったでしょう。分からない人は説明しても分からないもの、と」


 小さな不愉快さを抱えていた私に、ファンデンベルクはそんなことを言ってきた。


「確かに」


 はぁ、と、溜め息をついてしまう。


 不運を引き込むような行為は慎むべき。

 でも、今のこの状況下では、さすがに溜め息をつかざるを得ない。


「少しは分かっていただけたようですね」

「えぇ、分かったわ……もう、嫌というくらい」


 王の間にいては分からないことが分かってきた。人間は皆他者のことなど考えず喋りたいことを喋る、ということが判明した。正直、それはあまり知りたくなかったことだけれど。でも、これもまた学びなのかもしれない。良いことを知ることだけが学びではないのだから、こういう学びも悪いことばかりではないのかもしれない。が、良い気がしないことは事実である。


「ではさらに進みましょう」

「そうね」


 これ以上進んでも、また同じことが繰り返されるばかりではないだろうか。他人の気持ちを考えろうともしない人たちの失礼な会話を聞くばかりになるのではないだろうか。そんなことを思い、憂鬱になってくる。暗い思考ばかりがのしかかり顔を上げられないでいた私に、先を行くファンデンベルクが声をかけてくる。


「あの、そろそろ部屋へ戻られますか」


 彼の声かけによって、私は負の思考の渦から逃れることができた。

 こちらが頼んで連れてきてもらったのに、楽しい雰囲気も作れず、暗い雰囲気だけを撒き散らしてしまって申し訳ない。


「え。あ……えっと……」

「お疲れなのでは?」

「そ、そんなことはないわ! 元気よ!」


 肉体的な疲労はそれほどではないが、精神的な疲労感が凄い。


「無理なさることはありません。そろそろ部屋へ帰りましょう」

「あ……そ、そうね。じゃあ……そうするわ」

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