episode.84 落ち着かない城内を行く
その日の城内は、朝からずっと、どことなく落ち着かないような空気に包まれていた。その原因は間違いなく、母親がいなくなったから、だろう。誰かに実際に聞いてみたわけではないけれど、その程度は容易く察することができる。
でも、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
長かった意識不明からようやく戻ってきた。昨日も、心を病んでいる様子もなく、元気そうに喋っていた。それなのにこんなことになるなんて、一体何がどうなっているのか。
一時は正気を失っていたが、もう落ち着いている様子だった。それゆえ、自ら命を絶つような行動に出たという可能性は低いはずだ。
だとしたら、誰かに連れ去られたのだろうか。
だが、それも可能性は高くない気がする。なぜなら、私たちと別れた後も用事があるようだったから。用事があるということは、多分、誰かと会っていたはずだ。一人でいたのでないとしたら、誘拐される可能性はそれほど高くないはず。それに、もし母親が誘拐されたとしても、それを目撃した者が存在するだろう。
考えても考えても、何がどうなっているのか分からない。
何も生み出すことのない思考を繰り返す虚しさが、心を支配する。
「王女、もう少し話を聞いてまわってきました。しかし、王妃様を目撃したという者はいないようです。最後に王妃様を目撃しているのは、扉の向こうで見張りをしていたカンパニュラさん——どうやらそれで間違いなさそうです」
報告するのはファンデンベルク。
彼は気ままにここから出ていっていた。そして、ようやく戻ってきた。目的は知らなかったが、どうやら、母親の件に関する調査を行ってくれていたみたいだ。
「そう……」
もはや溜め息しか出ない。
なぜこうも厄介事ばかりが積み重なるのか。
「どうか気を落とされないで下さい。このような根拠のないことを言うべきではないとは思いますが——きっと大丈夫です」
ファンデンベルクがそんな風に言ったものだから、驚いて、思わず目を大きく開いてしまった。それに気づいたらしく、彼は「気を遣うなんて意外、と思われたようですね」と口にする。
「鳥の件の際には世話になりましたので、今度は僕が貴女の力になりたいのです。……なんて、らしくないかもしれませんが」
彼の言葉が単なる飾りではないこと、それは分かる。
きっと、これが、彼なりの優しさなのだろう。
最善の形でないとしても、彼は彼なりに私に寄り添おうとしてくれている——そういうことなのだと理解できる。
「ありがとう。配慮、嬉しいわ」
母親はどこへ行ったのだろう。母親は今、どこで何をしているのだろう。私に分かることはほとんどない。でも、それでも、彼女が無事であることをただ信じようと思う。もちろん、何もしないというわけではなく、調査は進める。が、それと同時に、心を強く持つよう心がけようと思うのだ。母親はきっと、私たちが悲しむことを望んでいない。だからこそ、強く。いつまでも、変わらず、前向きな心を持ち続けていたい。
その日の午後、私はこっそり王の間から抜け出した。
母親に関する状況を調べるためである。
王の間に佇んでいても、ありのままの情報を得ることはできない。王の間にいたら情報を一つも得られない、というわけではないけれど、でも、本物の情報を得るためには自分の耳で確かめることが重要だろう。
とはいえ、いきなり私が登場しては皆を混乱させてしまうかもしれない。
だから、私は、らしくない格好をして出歩くことにした。
「大丈夫なのかしら……」
「はい。フードを被っていれば誰だか分かりません」
外出の相棒はファンデンベルク。
この時点ですぐに気づかれそうな気もするが、今のところ、まだ誰にも私だと気づかれていないようだ。
念のため、フードのついた茶色い上衣をまとっている。
最初はすぐにばれてしまうだろうと思っていた。なんせ城内には知り合いが多いから。しかし、服装のイメージというのは案外強いもののようで、なかなか発見されない。
「すみません。通していただいても構いませんか」
「えぇ……って、あっ……」
「何でしょう?」
「い、いえ……。どうぞ」
扉を通る時、心臓が大きく跳ねた。
だが、ファンデンベルクが前に出てくれたので、気づかれないまま通過することができた。
でも、そんなことより、もっと気になることがあった。それは、相手の人がファンデンベルクに向けた目つきだ。ファンデンベルクは何も悪いことをしていないのに、彼女は恐ろしい人を見るような目を向けた。それがとても気になって。
「何なの、あの態度。ファンデンベルクのことをあんな目で見て」
過去に何かしらの被害を受けたことがあるだとか、具体的な理由があるのならまだ理解できる。でも、ファンデンベルクと関わりがあった人とは思えなかった。それなのに怖いものを見るような目をするというのは、私からすれば謎でしかない。
「気になさらないで下さい」
通路を歩きながら、ファンデンベルクは短く述べた。
「貴方、あの人に何かしたの?」
「いえ。誓って、それはありません」
「そうよね。ならどうしてあんな目を……」
暫しの沈黙の後、彼はそっと口を動かす。
「よくあることです」
その表情は明るいものではなかった。でも、他者への変化を求めるような雰囲気も感じられない。それは、諦め、という言葉が似合うような表情だった。
諦めていて良いのか?
諦めるしかないような世で良いのか?
疑問は尽きないが、何も知らない人間が口を挟むのはおかしなことなのかもしれない。
「それより、調査を続けましょう」
「……そうね」
本人が諦めているのに、本人でない私が怒るというのは、余計なお世話だろうか。
「会話を聞くのでしょう?」
「そうだったわ」
私には目的がある。それは、皆の様子や会話を盗み聞きすること。いや、盗み聞きというと少々表現がおかしいかもしれないけれど。取り敢えず、ありのままの声を聞きたい。




