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episode.82 喉もとまで

「噂は噂でしかないのだけれど。でも、セルヴィアには、一応伝えておこうと思って。だってセルヴィアはこの国の王なんだもの。重要そうな噂は耳に入れておかなくっちゃ」


 母親がそんなことを言っていると、リーツェルがお盆を持ってやって来た。丸いお盆にはティーカップが二つ乗っている。


「ぜひお二人で! どうぞですわ!」


 どうやら、私と母親の分らしい。

 それをすぐに察した母親は、胸の前で両手の手のひらを合わせつつ、確認する。


「あら! 私も貰って良かったの?」


 女性同士だからだろうか、リーツェルは母親にも親切だった。


「はいっ。ぜひぜひ」


 誰も「お茶を淹れてほしい」とリーツェルに頼んではいない。それなのにリーツェルはお茶を淹れて持ってきてくれた。個人的には、非常にありがたいと感じる。


「ありがとう! それにしても可愛らしい方ね。ええと、お名前は……」

「リーツェルと申しますわ」

「まぁ! 素敵なお名前ね! リーツェルさん、いつも娘をありがとう」


 母親が真っ直ぐに見つめながら礼を述べる。すると、リーツェルは、急に顔を赤く染め上げた。恥じらっているような表情だ。


「い、いえっ……そんな。こちらがお世話になっているのですわ……」

「これからもセルヴィアをよろしくね」

「もちろん! もちろんですわ! でも……その、フライ様をお守りできず申し訳ありませんでした……」


 リーツェルの発言に、母親はきょとんとした顔をする。母親はどうやら、なぜこのような話の流れになっているのかが理解できていないようだ。そこで私は、事情を簡単に説明することにした。リーツェルは元々フライの従者であったこと、フライの死後に私の従者となったこと、など、おおまかな流れを話す。


「そうだったの。元々、お二人はフライの従者だったのね」


 すべてを明かしたからだろうか、室内が葬式のような空気になってしまった。

 でも、リーツェルたちとフライの関わりなどは、放っておいてもいつかは明らかになったことだ。たとえ私が隠していたとしても、それで秘密にしておけるはずもない。だから、事情をここで明かしたことに大きな罪はないはずである。


「……すべて真実ですわ。本当に……何と言えば良いか……」

「申し訳ありませんでした」


 リーツェルとファンデンベルクに同時に謝罪され、母親は狼狽える。


「ま、待ってちょうだい!? そんな、謝罪なんて、しなくていいのよ!?」


 急に謝罪されて混乱してしまうというのは分からないではない——気もする。


「我々の力不足であったことは事実です」

「そうですわ! わたくしたちがもっと……もっと武人であれば……」


 武人であれば、て。

 それは何だかおかしいし、若干面白いような気さえしてきた。自覚はないのかもしれないが、ユーモアセンスが炸裂しかかっている。

 もっとも、今は笑ってしまえるような状況ではないのだけれど。


「いずれにせよ、もう同じことを繰り返す気はありません。それは、僕もリーツェルも同じ思いでいるはずです」

「ちょっとファンデンベルク! 同じ思いでいるはず、って何なんですの!? まるで、もしかしたら違うかもしれない、みたいな!!」


 母親の前であっても遠慮はなく、リーツェルはファンデンベルクに噛み付いていっていた。

 彼女は、母親に対して、親切かつ丁寧に接していた。が、それはあくまで、攻撃対象でない人が相手だから、というだけのことのようだ。己の本性を隠そうという意図はない様子である。


「王妃様、この男の言うことは曖昧ですけれど、わたくしもセルヴィア様をお守りする気でいますわ! この命に代えても——」

「それは止めて」


 母親は妙に真剣な面持ちで述べた。


「え。えっと……その、王妃様……?」


 今度はリーツェルが狼狽える番だ。


「命を投げ出すようなことはしないで。私は貴女の主ではないけれど、でも、貴女に傷つくようなことはしてほしくないわ。セルヴィアも同じ思いでいるはずよ」


 言葉を失うリーツェルとファンデンベルク。


「貴方も、よ」


 母親が視線を移した先にいたのはファンデンベルク。


「は、はい」


 彼は今日も肩に鳥を乗せたまま。だが、三人でいる時よりかは緊張しているようで、心なしか表情も固い。


「……可愛いのね、鳥さん」

「そう言っていただけますと非常に嬉しいです」


 ファンデンベルクも喜んでいるが、黒い鳥自身も褒められて喜んでいるようだ。黒い鳥はいつになく胸を張り、首を伸ばして、誇らしそうに立っていた。


「母さん、今日は何だか凄く王妃の風格を漂わせていない?」

「あら、それはどういうこと?」

「ええと……なんていうか、凄く立派って感じ……」


 でも、もしかしたら、今までだってずっとそうだったのかもしれない。

 私がきちんと見ていなかっただけで、彼女はいつだって偉大な王妃だったのかもしれない。


「面白いことを言うのね」


 母親は少し首を傾げるようにして笑っていた。


「なんかごめん」

「良いのよ。さて、私はそろそろ失礼しようかしら」

「え。もう帰るの」


 用件を伝え終えているのだから、帰っても何らおかしくはないはずだ。でも、彼女がすぐ帰ろうとすることには、違和感を抱かずにはいられない。せっかく来たのだからもっとゆっくりしていけば良いのに、と、思わずにはいられなかった。


「そうよ。この後少し用事があるの。だから、私はこれで失礼するわ」

「用事?」

「えぇ。ちょっとした、ね」

「そっか。分かった。じゃあ、いってらっしゃい」


 待って——そう言ってみる選択肢もあったのかもしれない。行かないで、と、お願いすることもできたのかもしれない。でも、この時の私には、母親を引き留めることはできなかった。行こうとしているのだから行かせた方が良いだろう、という思いもあったし。


「ありがとう、セルヴィア」


 だから私は母親を見送った。

 なぜ、喉もとまで来ていた言葉を、呑み込んでしまったのだろう。

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