episode.73 ついに来た、この日
あぁ、ようやくこの日が来た。
母親が意識を取り戻す日が、ついにやって来たのだ。
ここまでの道のりは、短いようで長かった。もう少し早くこの日がやって来るだろうと想像していたけれど、その想像よりは長い時間がかかってしまった気がする。
でも、そんなことはどうでもいい。
この日が訪れないという可能性もあったのだから、この日が訪れただけで十分。これ以上のことを求めるのは贅沢というものだろう。
「聞いたわ、セルヴィア……。貴女が王座を継いだそうね……」
ベッドのすぐ横に置かれていた椅子に私が腰を下ろすや否や、母親はそんなことを言ってきた。
「そうなの。って言っても、たいしたことはしていないけれど」
「後悔しているわ、貴女にすべてを背負わせたことを。本当は私が矢面に立たなくてはならなかったのに……」
母親は申し訳なさそうにそんなことを口にする。
でも、私としては、彼女を責めるつもりはない。
もちろん、己の命を大事にするというのは大切なことだろう。でも、もし、愛する人とその子どもを同時に失ったとしたら。多分、私も落ち着いてはいられなかったと思う。悲しみと絶望の中で冷静に対処するなんて、そんなことはできなかった気がする。
王妃とて人間。万能の神ではない。
「それでセルヴィア……最近の暮らしは、どうなの?」
「楽しいわよ」
「そうではなくて。貴女、ずっと一人でいたでしょう? 平気?」
「今はもう一人じゃないのよ。だから母さんは心配しないで」
母親の言う通り、私は長い間孤独だった。それは、私自身も孤独であることを選んでいたから。一歩を踏み出す勇気はなく、誰かに関わってゆくことをしていなかったから。だから、他者のせいではないわけだけれど。でも、常識的に考えて寂しい存在であったことは、一つの真実だ。
けれども、父と弟が亡くなってから、私の世界は大きく変わった。
リーツェルやファンデンベルクと共に暮らすようになり、カンパニュラのような知り合いは自然に増え、毎日与えられた仕事をこなさなくてはならないようになり……。
良いことばかりではない。が、悪いことばかりでもない。
「私は大丈夫。だから母さんはゆっくり休んでいて」
「セルヴィア……」
静かに母親の手を握る。
彼女の指は、いつの間にか、かなり細くなった気がする。
「母さん、ちょっと痩せた?」
ふと思って尋ねてみる。
母親は自覚がないらしく、ただ首を傾げるだけだ。
「そうかしら……」
だが、よくよく考えてみれば、痩せていて当然だ。ある程度の期間まともに飲み食いしていなかったのだから、むしろ、痩せていなかった方が不自然である。
「そうかもしれないわね。でも、これからは色々食べられるから……きっとすぐに戻るわ」
そう言って、母親は微笑む。
穢れのない笑みに、何とも言えない気分になった。
「それよりセルヴィア、貴女にこれ以上無理はさせたくないの。だから、貴女は王女に戻って? その方が安全だし怖い目に遭わずに済むわ」
「唐突ね」
「聞いたのよ。セルヴィアがよく狙われてるって」
そういえばそうだった。最近はよく命やら何やらを狙われているのだった。だが、なぜそのようなことを彼女に話したのだろう。意識を取り戻したばかりの人にわざわざ心配になるようなことを言うなんて、正直意味が分からない。
「誰に聞いたの!?」
「係の人よ」
そうか、係の人か。
それだけの情報では、個人を特定するのは簡単ではなさそうだ。
「ええー……。どうしてそんなこと……」
カンパニュラはまだ扉の外にいるのだろうか? と、ふと気になったりする。
「セルヴィアは隠しておくつもりだったの? なら隠されなくて良かったわ」
「母さんが良いなら良いけど……」
「気を使ってくれているのよね、それは分かっているわ。でも、娘が傷つけられそうになっていることを隠されるなんて嫌だわ」
そういうものだろうか。
いつか母になれば分かるのかもしれない。
「王女に戻るのよ、セルヴィア。その方が安全だわ」
母親の手に力が入ったのが指越しに伝わってきた。
さらに、じっと見つめられ、何とも言えない気分になる。
「え」
人のいない室内で、私は思わず言葉を失った。
母親が言うことは何も間違っていない。でも、今さら王を辞めるなんて。そんな無責任なこと、できるわけがない。それでなくとも平和ではない時期なのに、さらに世を乱すようなことをするわけにはいかない。
「どうしたの? 王になることに憧れていたわけではないのでしょう?」
「そ……それはそうだけど。でも、私が辞めたら、誰が王になるの」
「私がなるわ」
「えっ、母さんが!?」
思わず大きな声を発してしまう。
「そんなに驚くこと?」
母親はそう言ってクスッと笑っていた。
「ごめん……。でも私、母さんに負担をかけたくはないわ」
「気遣いは必要ないわ。それより私は貴女に無事でいてほしいの。傷つかないでほしい」
「そんなことを言ったら、私も同じ気持ちよ!」
つい調子を強めてしまった。
ただそれは、積極的に喧嘩したくての選択ではない。
「ごめん。でも、私だって、母さんにはゆっくりしていてほしいの」
改めて説明すると、母親は僅かに頬を緩める。
「そうね。なら案があるわ」
「案?」
「二人で共にこの国を護るの。それなら共に歩めるわ」
「確かに!」
私は母親に無理をしてほしくない。母親は私に無理をさせたくない。恐らく、いつまで話し合っても、両者共に譲らないだろう。それならば、もういっそ、共に行けば良いのだ。結局それが一番効率的と言えるのだろう。一人が背負わなくてはならないという決まりがあるわけではないのだから。
「それが良いわね!」
「ふふ。急に明るくなったわね、セルヴィア」
「おかしかった?」
「いいえ。貴女が嬉しそうにしていると私も嬉しいわ」
状況はまだ改善されきっていない。悩みの種はいくつも残っている。が、母親と話せたことで、少しばかり新しい光が見えたような気がした。一人で暗闇を歩き続けなくてはならないわけではないのだと、今はそう思える。
「これからまた二人で頑張りましょう」
「えぇ! でも母さんは体調を整えてちょうだいね」




