episode.56 呼ぶ
気づいた時には、男性は床に倒れていた。
指一本すら動かない。息をしているのかどうかさえもはっきりはしない。取り敢えず、意識がないということに間違いはなさそうだけれど。
倒せたのだろうか。いや、でも、まだ分からない。もしかしたら意図的に倒れているように見せているのかもしれないから、そう易々と安堵はできない。まだ警戒心を消して問題ない状況ではないだろう。
「やりましたわね! セルヴィア様!」
リーツェルに声をかけられて、私はようやく正気を取り戻す。
少し前には怯えたような顔もしていたリーツェルだが、今はもう怯えたような顔はしていなかった。元気そうだし、明るさも垣間見える。表現が難しいが、健康的な顔つきだ。
「何とかなったみたいね……」
「はいですわ! ばーっちりですわよ! ……あ。そ、そんなことを言っている場合ではなかったですわね。手当てをしなくては、ですわね」
言われた瞬間、右腕に痛みが走った。
今痛みが現れたというわけではない。傷自体は既にできていたのだから。ただ、必死になっている時には痛みも忘れていた。そこに意識が向いていなかったから、一時的に痛みを感じずに済んでいたのだ。今になって痛みが再発したのは、リーツェルの発言によって傷のことを思い出したからなのだろう。
「そ、そうだった……。忘れていたわ……」
それほど深い傷ではないので、さすがに、縫うなんてことにはならないだろう。これは多分、適切な処置をしていればじきに回復する程度の傷だ。あくまで素人の想像だけれど。
「平気ですの?」
「思い出したら痛くなってきた……」
「そっ、それは大変っ!」
「でもまぁ大丈夫よ。って、あ! そうだった!」
その時、私は突然思い出した。
ファンデンベルクと彼が大事にしている鳥のことを。
その場でくるりと向きを変える。すると、しゃがみ込んでいるファンデンベルクの背中が見えた。どうやら彼は、まだ、鳥を手で包んでいるみたいだ。
気になるので、彼の方へ行ってみることにした。
「ファンデンベルク。大丈夫なの?」
しゃがみ込んですっかり小さくなってしまっているファンデンベルクの顔を覗き込む。
意外なことに、彼の頬は濡れていた。
「な、泣いてるの!? どうして!? ……あ、いえ、そうよね。鳥さんが怪我して……」
ファンデンベルクが涙を流しているとは思わなかったから、一瞬戸惑ってしまった。どう反応したら良いのか分からなくなって、妙な声かけをしてしまった。私は今、そのことを少し後悔している。
「……申し訳ありません」
鳥が傷ついたことを悲しんでいるのか、何か別のことを悲しんでいるのか。
「どうして謝るの? 貴方は何も悪くないのに」
「すべて……僕の力不足です」
「まさか! そんなことない。貴方は十分戦ってくれた、感謝しているわ。それに、あれだけ戦えるなら不足はないわよ」
事実、ファンデンベルクは善戦していた。相手を圧倒するほどの強さはなくとも、抵抗するだけの能力は持っていただ。それは私がこの目で確かめたこと。間違いであるはずがない。
「それよりファンデンベルク、その鳥をどうにかしなくちゃよね」
「……気遣って下さるのですか」
「怪我しているのでしょう? 早く手当てしなくちゃ」
私もファンデンベルクも怪我しているけれど、鳥という小さな命を救うことが最優先だろう。
「医務室へ連れていく?」
「そうですね。しかし……鳥も診てもらえるのでしょうか」
「分からないわ。でも、少しは対応してもらえるかなと思って」
その時、つかつかと歩いてきたリーツェルがファンデンベルクの頬を強くはたいた。
何が起きたのかすぐには分からなくて、私は言葉を失ってしまう。目の前で起きていることをただじっと見つめることしかできない。
「なんてことをしましたの!」
リーツェルは怒っているようだった。
「セルヴィア様を放り出し鳥の方へ行くなんて! 論外ですわ!」
リーツェルの発する声はいつになく激しい。それに、彼女の顔つきも、非常に厳しいものになっている。日頃の嫌みとは、まったくもって種が違う。
「……それは」
ファンデンベルクは、俯き、気まずそうな顔をする。
「言い訳はさせませんわよ!」
「もちろん……分かってはいます」
「護るべき者を放置するなんて! あり得ませんわ!」
リーツェルは今にもファンデンベルクに掴みかかっていきそうだった。仲間内で喧嘩なんてしている場合ではない、と思い、私は彼女の手首を握る。リーツェルの行動がこれ以上過激化することは避けたくて。
私が手首を掴んだ時、リーツェルは少し驚き戸惑ったような顔をした。が、彼女はすぐに視線をファンデンベルクの方へと戻す。
「セルヴィア様が怪我なさったではないですの!」
「それは僕も申し訳ないと思っています。ですから、今から手当てを——」
「ファンデンベルク! もう忘れたんですの!? フライ様を失った時のこと!」
リーツェルは感情的になってしまっている。
冷静に言葉を発する余裕は、今の彼女にはないみたいだ。
怖い思いをした後だから仕方ないのかもしれない。人間誰しも、強い刺激を受けた後には疲れやら何やらで攻撃的になってしまうものだ。
「落ち着いて、リーツェル」
「……セルヴィア様」
「ファンデンベルクを責めるのは止めて。彼が鳥を心配するのは仕方のないことよ」
「で、でもっ……!」
「リーツェルは私のことを心配してくれているのよね」
そう言うと、彼女は驚いたような顔をした。
目を何度かぱちぱちさせる。
「ありがとう。でもいいの。それより、ここから出る方法を考えましょう」
「あ……ま、まぁ、そうですわね。まずはそれでしたわね」
こんなところで喧嘩なんてしたくない。喧嘩してほしくもない。
「そうでした。まずは退室する方法を考えねばならないのでした」
急に話に参加してきたのは、両手で鳥を包んだままのファンデンベルク。
「聞いていたのね」
「はい。耳は働いています」
ファンデンベルクは多分鳥のことを心配しているのだろう。しかし、彼とて無傷ではない。鳥や私がそうであるように、彼もまた負傷者なのである。
「人を呼ぶ?」
「そうしたいですが……どんな風に呼べば良いものか」




