episode.44 昼から ★
昼食後、私はリーツェルと共に、ファンデンベルクを見送った。
室内にいる人間が二人だけになるや否や、リーツェルが顔面を私の方へ向けてくる。
「で、これからどうしますの?」
リーツェルはその場でくるりと一回転。続けて、ダンスのようにステップを踏み始める。私の目の前を、自由な足取りで移動してゆく。ただ、その移動に意味はないようだ。単に自由に歩いているだけのようである。
「作業をするわ。片付けなくちゃならない書類もまだあるし」
私は取り敢えず座席へ戻ることにした。
机のすぐ近くに置かれている書類には、本日が提出日になっているものも存在している。
「そうでしたわね! ではわたくしはお茶を淹れてきますわ」
「いいわよ、そんなの」
「どうしてですの? お茶を飲みながら仕事なされば良いと思いますわ」
「申し訳ないわ。色々してもらうなんて」
「気にしなくていいんですのよ! わたくしの趣味ですもの!」
リーツェルはあっという間にお茶を淹れに行ってしまう。雑用ばかりさせてしまい申し訳ないと思っていたのだけれど、彼女を止めることはできなかった。あっという間に去っていってしまったから、止める間なんてなかった。
今は彼女の好意に甘えておこう。
そう考えることにした。
「ええと……これは明日、これは明後日提出で……。これ、これが今日一回目の提出で……、こっちはサインをするだけで……」
山のような書類を整理しなくてはならない。
まずは提出日ごとに分別。提出日が先のものはひとまず置いておいて、今日提出しなくてはならないものから作業を進めよう。一斉に取り組もうとしても、一日に一人でこなせる作業の量には限りがある。だからこそ、優先順位を明確にしなくては。
「セルヴィア様! お茶とお菓子をお持ちしましたわ!」
今日提出の書類をまとめ終えた、ちょうどその時。
リーツェルが透明なカップとクッキーが乗った皿を運んできてくれた。
「今日は冷たいお茶にしてみましたわ!」
持ち手のついた透明なカップに注がれているのは、明るい茶色の液体。カップの外側を見ると、水滴がいくつかついていた。そして、花柄の小皿には、見るからにほくほくしていそうな質感のクッキーが数枚。
「良いわね、冷たい飲み物」
出てくるお茶は大抵温かいものだ。もちろんそれも悪くはないのだけれど、さっぱりしたい時には冷たい飲み物も悪くはない。特に、忙しい時なんかは、口にするものの冷たさに救われる場合もある。
「何かお手伝いすることがあるなら言っていただきたいですわ」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
リーツェルが持ってきてくれたカップの持ち手を握り、カップ全体を持ち上げる。すると、カップの底面から、水が一滴こぼれ落ちた。
「しまった……!」
「どうしましたの!?」
「水が垂れたの。で、資料にシミが」
やらかしてしまった、と、一人焦っていると。
「そういうことでしたの! なら大丈夫ですわ。広げて乾かせば問題なしですわよ」
リーツェルはそんな風に言って励ましてくれた。
一滴垂らしてしまった紙は、幸い、物凄く重要な紙というわけではなかった。
提出しなくてはならないもののうちの一枚ではある。それゆえ、きちんと乾かす必要はある。けれど、一滴垂れただけでも駄目になるようなものではなかった。乾かせば何とかごまかせるだろう。
「そうね。乾かせばいいわね。で、えっと……」
いざ乾かそうと思うと、上手く乾かす術を身につけていないことに気づく。
どうすればいい?
まずは何からすれば?
「わたくしが乾かしますわ!」
リーツェルは少し濡れてしまった紙を両手で取って持ち上げる。
彼女の丸い瞳は、丸い小さなシミができてしまった部分を見つめていた。
「え、良いの?」
「もっちろんですわ! セルヴィア様はお茶を飲んでいて下さる?」
「ありがとう、助かるわ。私は作業を進めておくわね」
何も考えず言うと、リーツェルは急に大きな声を出してくる。
「ちょ!? 聞いていませんでしたの!?」
驚きの大声が、広い室内に響き渡る。
他に音がないからか、声がより一層大きく感じられた。
「……どういうこと?」
「お茶を飲んでいて下さる? と言いましたのよ!?」
「えぇ、聞いていたわよ」
「ならどうして!? どうして作業になるんですの!?」
「それは……進めなくちゃならないからでしょう? それだけのことよ」
リーツェルが持ってきてくれた冷たいお茶を少しだけ口に含む。冷たい液体が口腔内に入ると、爽やかな香りが駆け抜けてゆく。良い香りを感じたら、なぜか心が緩むような気がした。
それから、紙を手に取り、作業に入ろうとした——刹那。
誰かが扉をノックした。さらに「カンパニュラだ。用がある」と声が続く。
「どうぞ入って下さい」
そう返すと、数秒後に扉が開いた。
「失礼する」
「カンパニュラさん、何の用ですか?」
グレーとラベンダーカラーを混ぜたような色みのカンパニュラの髪、それはもう見慣れたものだ。ただならぬ圧力を漂わせてくる顔もまた、何ら特別なものではない。
「実はだな、今度母がここへ来ることになった」
「お母さんが……!」
確か、カンパニュラは母を大切にしていたはず。
どんなに素晴らしい人なのだろう。
「でも、どうしてお母さんが?」
「これまでは私が定期的に会いに行っていた。だが現在はそれができない。そのため、母にこちらへ来てもらうことにした。ということだ」
彼が母に会いに行けないのは、仕事でここにいなくてはならないからだろうか。だとしたら、少し申し訳ない気もする。大好きで大切な母親に会いに行けないなんて、彼にとってはとても辛いことだろう。
「その……すみません。迷惑をかけてしまって……」
「責めているわけではない。これは単なる報告だ。気を悪くするな」
「でも、お母さんに会えなくしてしまったら……それは申し訳ないです」
謝罪したのに、溜め息をつかれてしまった。
「話を聞いていたか。母がここへ来る、と言ったんだ。べつに母に会えなくなったわけではない」




