episode.2 訪問者 ★
※挿絵は自作キャラデザインをもとに星見セナ様にお願いして制作していただいた画です。
(その他イラストには、それぞれ、近くに制作者様のお名前を記載しております)
母を止められなかった——。
そんな思いが私の心をどこまでも重くする。
幸い、私は正気を失うことはなかった。だがそれは、荒れるほどの元気もなかった、という表現が相応しいのかもしれない。今の私には叫び回るような力はなかったのだ。ただ、風邪のひき始めのような重苦しさが、この身を包んでいる。
そんな調子のまま自室へと戻り、いつも使っているベッドに腰を下ろして、溜め息をつく。
こんなだらしない姿、誰にも見せられない。そういう意味では、牢獄にも似たこの部屋はとてもありがたいものだった。一人で過ごすしかない時間も、今はなぜか味方のように思える。
人前ではみっともない姿は晒せない。
でもここでなら、王女としてではなく私として、ぼんやりしながら過ごすことだって可能だ。
その後、私は母のことに関する報告を受けた。
自室の窓から飛び降りた母——王妃は、何とか一命を取り留めたらしい。落ちたところが偶々石畳ではなく茂みだったので、死なずに済んだそうだ。
だが、すぐに今まで通りの暮らしをすることは不可能だと医者が言っていると聞き、私はまたもや重苦しい気分にならざるを得なかった。
父と弟は落命し、母も生きてはいるが動けない状態になり、もはや普通に生きているのは私だけ。当たり前に存在していたものは一気に失われてしまった。すべてはもう塵になったのだ。
これが定めなのか。
変えられない運命だったのか。
……私はそんなことばかりを考えて、いやに晴れた空を見上げては悲しくなる。
周囲に人はいる。働いてくれている人、世話してくれている人、それらの人たちはまだ失われてはいない。けれど、その人たちと私は他人。家族に接する際の接し方と、他人に接する際の接し方とは、まったくの別物だ。私はもう、躊躇なくこの心を晒け出せる相手を完全に失った。
平穏だけの毎日に思うところはあったけれど、今思えばこれまでは幸せ過ぎたのかもしれない。
家族がいて、自由に暮らせて、ある程度世話もしてもらえて。
きっと私は多くを望み過ぎていたのだ。手にしているものの尊さに気づかず、足りないものを求める。それは、愚かなことだったのかもしれない。
あれから数日が経った。
唐突に始まった孤独な日々に、私は、無気力になることしかできなかった。
この手で何かを変えられるわけではない。誰かを救えるわけではない。そんな虚しさを背負いながら平坦に生きることしか、私にはできなかった。
そんなある朝、私の部屋に訪問者がやって来る。
「何か……ご用でしょうか?」
訪問者は男性だった。左の眉尻の辺りで二つに分けた前髪が印象的な人。髪色は漆黒。その髪には艶があり、塗られた器のようだ。年齢は、見た目だけでははっきりしない。少年と表現するには大人びている気もするが、青年と表すには少し若いかもしれない。そんな、曖昧な年代を思わせる。
初めて見る顔だ。
家族の誰かの知り合いかと思っていたが、どうやらそういうことではなさそうである。
「なるべく早く話を済ませたいのですが」
男性は私の顔色を窺うことはしない。
王女という地位であるためか、周囲の人たちからは、よく顔色を窺うような接し方をされる。だが、目の前にいる男性は、私の表情なんて欠片ほども気にしていないようだ。それも、無関心、という感じである。
「はい。お聞きします」
見知らぬ人との会話。緊張感はある。けれど、相手が誰であっても、私がすべきことは決まっている。あくまで王女らしく。品良くあること、それだけ。
「貴女を我が部隊に連れてくるよう頼まれ、ここへ来ました」
「……部隊? あの、唐突過ぎて話が分かりません」
「いきなり不躾なことを尋ねるようで申し訳ありませんが、貴女には特別な力があるとか」
特別な力、か。
できればそこには触れてほしくなかった。
いや、もちろん、仕方がないと言えば仕方がないことなのだ。彼に罪はない。そもそも、私がこのような得体の知れない力を宿して生まれたことが問題だった。怯える者も、興味を持つ者も、本当の意味では悪くない。
「……えぇ、そうです。けれどもこれは、他人に誇ることができるような力ではありません」
私に多くを求めないでほしい。
何かを成し遂げる力なんて、ありはしないのだから。
「お出掛けしてみる、というのはどうですか?」
「え」
「どうです、今から」
これはまた大胆な作戦に出たものだ。
一国の王女にお出掛けを申し込むなんて、滅多にないこと。事実、私はこれまで、ほとんどこんな誘いを受けたことがない。
……でも。
私の胸には、何か、小さなものが生まれていた。
それは多分、世で『期待』と呼ばれているものに似たものなのだろう。外の世界へ飛び出す、そのことへの『期待』が、この胸に芽生えているものの正体なのだとしたら。
「そうですね。せっかくですから。……今から準備します」
誰かと出掛けるなんて、いつ以来だろう。
思えば、物凄く久々かもしれない。
「ありがとうございます。助かります」
少年から青年に変わりゆく年代と思われる男性は、淡々とした調子で礼を述べ、静かに一度だけ頭を下げた。
「では、そこで少し待っていていただけますか?」
「はい」
私は扉を閉める。
そうして自室の中へと戻ってから、顔面から期待感を迸らせた。
これが何であるか掴めぬほどの胸の高鳴り。これは、もうずっと感じたことのなかった感情だ。最後にこんな感情を抱いたのはいつだったか、それすら、今はもう思い出せない。
だがそれは重要なことではない。
今の私にはもっと重要なことがある。それは、準備すること。服を着替えなくてはならないし、簡単に荷物もしなくてはならない。久々過ぎて不安もあるが、どちらかといえば楽しさが勝っている。
身内の不幸は辛いけれど、こんな時だからこそ明るくあらねば。
そのために利用する。
この奇妙な外出を。