episode.20 着替えと戦乙女
気を取り直し、洗面所へと向かう。顔面を軽く流してから、結んでいた髪をほどき、櫛で毛が真っ直ぐになるまでとく。髪の毛がある程度真っ直ぐになったら、心なしかすっきりした気分に——ではなく、次の作業に移らなくてはならない。
そんなタイミングで、リーツェルがやって来た。
「セルヴィア様! お洋服をお持ちしましたわ!」
彼女の手には、私が今から身につけなくてはならないもの一式。
ワンピース、よだれかけのようなもの、ロング手袋、と、様々だ。
「持ってきてくれたの? ありがとう、リーツェル」
服のことはすっかり忘れていた。
「髪の前にお着替えが良いかと思いましたの!」
「確かに、それもそうね」
「今から一つずつお渡ししますわ! ファンデンベルクには来ないように言ってありますから、どうか安心なさって!」
洗面所は自室の中でも少し区切られた場所にある。ベッドやテーブルなどがある部屋とは、一枚の薄い扉で区切られているのだ。手洗いや風呂場といったプライベートな場所だからかもしれない。
ということで、意外な形で着替えが始まってしまった。
着替える際、長い髪が邪魔になりそうなので、一旦緩く一つに束ねておく。そして、寝るために着用していた服を脱いでいく。まずは短めワンピースのようになっている上を、次にふんわりしたズボンのような下を、順に身から離していく。
今になって感じる、妙に寒さ。
特に寒い季節というわけではないが、寝起きに薄着になると寒さを感じずにはいられない。
「大丈夫ですの? ぶるぶるしてますわ」
「薄着になると寒いわ……」
「は、早くお着替えになって! はい、こちら!」
渡されたのは淡い青のワンピース。
これさえ着てしまえば寒さも消える……かも?
「はぁ……服があるって素晴らしいわ……」
急ぎめでワンピースを着る。すると、恐ろしい寒さから、ようやく逃れることができた。このワンピースは決して分厚い生地の服ではないけれど、一枚着ているのと着ていないのとでは、感覚がまったくもって違う。
「驚きの発見ですわね」
「えぇ、びっくり」
「セルヴィア様って案外面白い方なんですのね」
リーツェルの口から出た言葉は意外なもので、私は思わず彼女の顔をじっと見てしまった。
少ししてその視線に気づいたリーツェルは、少し恐れたような顔つきで「何かまずいことでも言ってしまいました……?」と問いかけてきた。
私は即座に首を左右に動かして「違うの、そういう意味じゃないわ」と述べる。
「ただ、面白いなんて言われたことがなかったから……少し驚いただけよ」
責めようとして言ったわけではない。ただ、思ったことをそのまま言っただけのことだ。リーツェルは悪くない。
「そうなんですの?」
「この手の力のせいよ。少し恐れられていたの」
「そうでしたの? それは意外ですわ」
それにしても、朝着替えながら誰かと話すなんて、いつ以来の経験だろう。幼い頃にはそんな時もあった気がするけれど、最後にこんな風に過ごしたのがいつだったかなんて思い出せない。
ワンピースを着ることはできた。よだれかけのようなものも着用できたし、長手袋もきちんとはめた。これで着替えはおおよそ完了——と思った、ちょうどそのタイミングで、部屋の方から刺々しさのある甲高い音が響いてきた。ガラスか何かが割れるような音。傍にいたリーツェルと思わず顔を見合わせる。
「ちょっと! 何してんですの!?」
響いた音が消えるや否や、リーツェルがのしのしと歩いて部屋の方へと進んでいった。
が、その足はすぐに止まる。
「……リーツェル?」
不思議に思い、リーツェルと同じように部屋の方へと向かう。そして驚いた。というのも、ファンデンベルクが地面に押し倒されていたのだ。それも、見知らぬ女性によって。
何が起きたのか、すぐには理解できない。
ただ、一つは分かることもあった。先ほどのガラスが割れるような音の正体だ。あの音の正体、それは、ティーカップが割れた音だったのである。ちなみに、押し倒されているファンデンベルクの少し横に割れたティーカップの破片があるのを目にして気づいたことである。
「何者ですの!?」
見知らぬ人の存在に動揺したリーツェルは、目を大きく開いたまま叫ぶ。
「……あらあら、随分お下品だこと」
そう述べるのは、ファンデンベルクを地面に押さえつけている見知らぬ女性。蝶の仮面で目もとを隠している彼女は、ファンデンベルクの喉もとにさりげなくナイフを突きつけている。
「貴女がこの国の王女様かしら?」
私は咄嗟に壁の陰に隠れた。だからか、私の存在はまだばれていないみたいだ。女性の視界に入っているのは、どうやら、今のところリーツェルだけらしい。
「なっ……! 違いますわよ!」
「あらそう。じゃ、王女様を呼んで下さるかしら」
「お断りしますわ!」
リーツェルがきっぱり言い放った瞬間、ファンデンベルクの首に刃が食い込む。
ファンデンベルクは冷静だ。慌ててはいないし、恐怖を感じている感じもない。女性のことをじっと見つめている、ただそれだけ。
「彼がどうなっても良いのかしら」
皮膚が浅く切れたのか、ファンデンベルクの喉元からは一筋の赤いものが垂れていっているところだった。
「脅しなんて卑怯ですわよ!」
「あら、そうかしら。大人の世界では普通のことじゃない」
「ここでは普通ではありませんわ!」
その時のリーツェルは、凛としていて、とても頼もしく見えた。
可愛い容姿はそのまま。なのに、今の彼女は戦乙女のよう。強くも、優しさもある。そんな雰囲気に、私はつい心を奪われそうになる。
……同性に心を奪われている場合ではないけれど。
「帰っていただきたいですわね!」
「残念ながら、それはできないのよね」
「こんなことをして、どういうつもりですの」
女性は片手に刃物を持ったまま、にやりと口の端を歪める。
「王女様を奪う。それが任務なの」
奪う、とは、一体どういう意味なのだろう。
そんなくだらないことが妙に気になってしまう。
もっと気にすべきことはあるのだろう。そう分かってはいるのだが、なぜか、危機的な状況の時ほど余計なことばかり脳内に浮かんできてしまうのだ。
「さぁ、そろそろいいかしら? 王女様を差し出しなさい」
「断ると申し上げたはずですわよ!」
「意地でも出さないつもりね。なら仕方ない。今から一人ずつ殺すわ」




